第3話 新生活の始まり
転校することになったのは都立四ヶ岡高校という中高一貫の学校だった。
転校手続きをしたのが五月の初めで、転校することになったのがそれから一ヵ月後の六月初旬。
その間も俺と夏菜は接触禁止令が出ていて、まともに挨拶もできないまま袂を分つことになった。
ホームルームが終わると、一限の授業の準備で教室が慌ただしくなる。
一限は古文だ。古文単語帳を忘れた生徒の何人かは隣のクラスに走る。よくある学校の日常だった。
普通こういう転校生イベントって盛り上がるんじゃないの?
「——牧はあのクソマネに嵌められたのよ」
転校の経緯を聞いて、神原さんは深く溜息をついて言った。
「クソマネ……って敏治さんのことか?」
「他に誰がいんのよ。……東敏治。あいつはね、私たちの業界じゃ悪い噂しか聞かないわ」
「悪い噂ってモデルと裏でエロいことしてるとか?」
「……モデルの私に向かって良く平然と聞けるわね。じゃなくて恫喝とか恐喝とかソッチ系」
神原さんによれば敏治さんは柄の悪い男らしい。
まあ反社っぽい見た目だし、むしろあれでクリーンなのは違和感だが、プライベートどころか仕事でも真っ黒なのかよ。
「なんだよそれ! 初対面で噛みついて正解じゃん!」
「へえ、あいつに喧嘩ふっかけたんだ。やるじゃん」
「後から夏菜にこっぴどく叱られたけどね」
敏治さんと初めて対面した時は何度思い返してみても恥ずかしい出来事だった。
政治経済に類するノンフィクション小説で、可愛いアイドルを食い物にしたマネージャーの話とかを業界人が暴露していたのを知っていた俺はつい敏治さんを見て反抗的な態度を取った。
そのせいで場の空気を壊してしまったけど、敏治さん本人は意外にも笑って許してくれた。
「……敏治さんは人から紹介されたマネージャーなんだけど、夏菜を任せるには危ない人に見えて」
「牧の勘は当たってる。あいつは信用ならないわ。夏菜みたいな有望株は手厚く保護して、他はポイって切り捨てるタイプよ。学生から募った読者モデルを専属契約して囲うあくどい戦略も東考案だしね」
神原さんの話を聞く限りでは東敏治という男はリアリストというか合理的主義者らしい。
自分がマネージメントしている女を食い物にしたり、お偉いさんに献上したりなんて話が上がらないだけマシか。
「だから牧は正しい。私がムカつくのは、正しいことしてるやつが間違ってるやつの言いなりになったことよ。なんで引き下がったりなんかしたの?」
神原さんは煮え切らない俺の態度が気に食わない様子。
しょうがないだろ。俺だって言ってやりたかったよ。「どこにも行くな」って。
でも鳩尾を叩かれたみたいに響いてしまった。— 学生の恋愛なんて、という言葉が。
高校生の恋愛って、どこまで真剣にやればいいんだろう。そもそも俺はどこまで夏菜を好きだったのだろう。そんな疑問が次から次へと出てきて、俺は自分の意思で負けを選んだ。スタート地点にすら立てなかった。
「本当に正しかったかわからない。俺たちが学校で習う道徳が世界のすべてではないし、莫大な資金が動く社会を俺は知らない。俺には言い返す実力も度量もなかった」
夏菜にはあの時点でもう冷められてたし、俺が夏菜を引き止められる可能性は潰えていた。
「なんか牧ってモテなさそー」
「なんだよ急にっ!?」
「私は彼氏がこんな腑抜けじゃ嫌」
ぐぅの音も出ない。
「ま、とやかく言う私もあのクソマネにしてやられたってわけだけど」
「……というと?」
「火種を私に移された」
そう言って神原さんは俺を見る。
「もしかして火種って俺のこと?」
「そうよ。神崎夏菜が彼氏と破局したって言っても疑惑はつきまとうわ。だからいっそ、火種をみんなの注目を受けるような場所に移して神崎夏菜を守ることにした。その人身御供に選ばれたのが私」
夏菜と一緒の雑誌でモデルをやっている神原と同じ学校に俺が転校したという情報が回れば、噂はそのまんま神原さんへと移る。
「ごめん」
「そんなの気にしないでいいわよ。元からあそこは信用ならなかったし、これで辞めてやる決意も固まったわ」
神原は『Light-moon』のモデルを辞めるらしい。
俺のせいではないと言ってくれたけど、きっかけが俺なのだからやっぱり申し訳ない気持ちが湧いてくる。
「それに神崎夏菜のいない『Light-moon』なんか興味ないしね」
神原さんの言葉にぴくりと眉が動く。
「……夏菜がいない?」
「あれ、聞いてなかったの? 神崎夏菜は新しくモデル事務所と契約したのよ」
神原さんはニュースサイトを見せてきた。「神崎夏菜がモデル事務所『Verkleiden』に所属することを正式に発表! 今後の動向に注目!」とサイトの見出しにデカデカと書いてある。
「この『Verkleiden』っていうのはどんなとこなんだ?」
「超有名所よ。日本のバラエティよりは海外で活躍するガチガチの本物が多く所属してるわ」
棘がある言い方だったが、実力派揃いであることは分かった。
「海外か。絵に描いたようなモデルだな。夏菜も海外に引越すことになるのかな」
「いきなり海外挑戦は無理ね。でもいつかはあり得ない話じゃないかも。専属のトレーナーがついて猛特訓すれば……って、元彼からすれば嫌な話かもね」
確かに神崎夏菜という素材は海外向きなのかもしれない。
中学生になっても伸び続けた身長は170cmを超えている。
昔は猫背で背骨が丸まっていたから低く見えたけど、たぶん男子の俺よりも背が高い。
夏菜が男子だけではなく女子にもモテた理由だった。
「……いや。いいさ。夏菜には飛躍してくれた方がいっそ清々しい」
……どうせなら引く裾なんか残さずに。
未練を断ち切れない俺はもどかしさを惨めな強がりに変えるしかなかった。
「俺さ、夏菜の笑ってる顔好きなんだよ。写真だけでもずっと拝んでたいね」
「……そしていつか番組の企画か何かで出演して『神崎夏菜の元彼です』って自慢したい。どうせそんな陳腐なこと考えてるでしょ?」
「いいねそれ」
そんな意趣返しが叶う機会が何十年後かにあるとすれば、盛大にピエロを演じてやろうと思った。
「と、ところで……牧、古文単語帳持ってる?」
「? 持ってるけど?」
「忘れたから見せて欲しい。隣の席だし」
最初からそれ目当てかよ。
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