140,膝枕

 ――その日の夜。

 昼間、異端審問会に先を越されたシャノンは、再びマギル邸へと戻って来ていた。

 もちろん、王城に戻るようなことはしなかった。

 いま、シャノンの立場は非常に危うい状態だ。下手に王城に戻れば、異端審問会に身柄を押さえられてしまう可能性がある。

 現在、シャノンを魔族の〝協力者〟と見るのか、それとも〝被害者〟と見るのか、国内では意見が真っ向から分かれている状態だった。

 異端審問会側はシャノンを協力者であると主張しているのに対し、騎士団側は彼のことをあくまでも被害者だと擁護していて、完全に意見が対立しているのである。

 騎士団の主張の根拠はエリカ・エインワーズ本人の供述によるものだ。彼女が自分で罪を自白し、その上でシャノンのことを洗脳していたと供述しているので、騎士団側は彼のことをあくまでも被害者として保護している。

 だが、異端審問会側はそうではない。あくまでもシャノンは自発的に襲撃事件に加担しており、エリカ・エインワーズの供述は騎士団によるねつ造だと主張している。そのため騎士団側は「ならば両者の立ち会いの下でエリカ・エインワーズに尋問を行ってはどうか」と提案したが、なぜかこれは拒否された。

 その矢先に、向こうはエリカ・エインワーズの身柄を強奪した。これはどう考えても、彼らが何らかの強制的な手段で本人に自白を強要させようとしていると考える他になかった。自分たちにとって都合のいい供述を自白させるつもりなのだ。

 シャノンをどうしても魔族の協力者に仕立て上げたい人物が、裏で異端審問会を操っていることは明白だった。

 その人物が誰であるのか――それはもちろん、言うまでもない。

「……そんなにオレが憎いか、ウォルター」

 シャノンは一人ごちた。

 窓辺に立つ彼の視線の先にあるのは、世闇に沈む王城だった。

 彼にとっては、あそこはすでに敵地である。ウォルターとの対立はもはや決定的で、どうしようもない状態だ。もはや話し合いで穏便に済むような段階ではない――シャノン自身も、そのことを理解していた。

 ……どちらかが勝利し、どちらかが敗北する。はっきりと勝敗が決まらぬ限り、この状況が変わることはあり得ない。

 向こうはそのための切り札として、エリカ・エインワーズの身柄がどうしても必要だった。彼女にシャノンが不利になるような自白をさせれば、向こうはすぐにでもシャノンを異端者として捕らえに来るはずだ。

「ああ、くそ……」

 シャノンは落ち着きなく部屋の中をぐるぐると歩き始めた。さきほどから忙しなく歩いては窓辺で立ち止まり、再びまた歩き出す――ということを繰り返している。連中に捕らえられたエリカがどんな目に遭わされるのか、それを考えたらとてもではないが横になって休むなどということはできなかった。

(いや、落ち着け……ここで焦って事をし損じれば、本当に誰も救えなくなってしまう。それじゃダメだ――)

 例え強硬手段でエリカを救ったとしても、シャノンは逆賊の汚名を着せられることになる。そうなれば、シャノンに近しい立場の者たちはみな、王位に就いたウォルターに酷い目に遭わされるはずだ。そして、この国はウォルターによって完全に支配されることになる。

 ……それが頭で分かっていても、彼は今すぐにこの場から駆け出していきたいという衝動に駆られ続けていた。

 ヴァージルとしての自分と、シャノンとしての自分。二つの自分自身の間で、彼は激しく葛藤していた。

 その時、部屋にノックの音が響いた。

 現れたのはブリュンヒルデだった。

「シャノン、みんなが揃ったわ」

「……ああ、そうか。ありがとう。すぐに行く」

 相手を振り返ってそう返事をする。その顔は土気色だった。

 シャノンがあまりにひどい顔色をしているので、ブリュンヒルデは心配そうになった。

「ねえ、やっぱり少し休んだ方がいいんじゃない? 話し合いは明日の朝にでも延ばして――」

「いや、それじゃダメだ。一秒でも早く手筈を整えなきゃならない。いまこうしている間にも、あいつが連中に酷い目に遭わされているかもしれないんだ。とてもじゃないが寝てなんていられない。すぐに行く」

 シャノンはきっぱり言い切って歩き出したが、すぐにふらついてしまった。

 すぐにブリュンヒルデが彼のことを支えた。

「ほら! そんなふらふらで何が出来るのよ! あんたがそんなんじゃあの女のことを救うどころじゃないでしょ!」

「だが――」

「ああもう! じゃあ三十分! 三十分だけ横になるのよ! それくらいならいいでしょ!?」

「いやでも――」

「い い か ら 休 め」

「うお!?」

 ブリュンヒルデはシャノンを無理矢理引っ張って、ベッドに座らせた。

 それからなぜか横に座り、自分の膝をぺしぺしと叩いた。

「ほら」

「……え? な、なにが『ほら』なんだ?」

「わたしが膝を貸してあげるって言ってるの。ほら」

「ほら、と言われても……」

「早くしなさいよ!」

 ブリュンヒルデにぐいぐい引っ張られて、シャノンはようやく観念した。

「分かった、分かったよ! じゃあ、ちょっとだけ……」

 シャノンは横になり、遠慮がちにブリュンヒルデの膝に頭を乗せた。

「……」

「……」

 部屋に沈黙が舞い降りた。

 そのまま妙な沈黙が続きそうな気配だったので、シャノンはその前に口を開いた。

「……おい、何か言えよ」

「……ごめん。思ったより恥ずかしかったから……」

「じゃあ、やらせるなよ!?」

「い、いいでしょ!? 最後に一回くらい、わたしの我が侭聞いてくれたって……」

「最後?」

「ええ、そうよ。これがわたしの、あんたへの……これでもう、きっぱり、わたしはあんたのことは諦める」

「ブリュンヒルデ……? いでっ!?」

 シャノンが思わずブリュンヒルデの顔を見上げようとしたら、手で押さえつけられて阻止された。

「いま、わたしの顔見たら殺す」

「わ、分かった。見ないから。押さえつけるのはやめてくれ」

 手が離れた。

 シャノンはほっと一息ついていると、彼女の方から問いかけてきた。

「……あんたさ、あの女のこと好きなのよね?」

「……ああ、そうだ」

「そう、そうなのね……まぁそうよね……分かっちゃいたけどさ……はぁ、好きな相手がいるんじゃ、仕方ないわよね。だって好きなものは、どうしようもないものね――」

 彼女はまるで自分に言い聞かせるように言ってから、シャノンの頭にそっと手を乗せた。

「……あんたの前世の話だとさ、大昔は人間と魔族が共存してた時代ってのがあったのよね? 今じゃとても信じられないけど」

「あったよ。そういう時代が、確かにあったんだ。もう誰も覚えちゃいないだろうが……確かにあったんだ」

「その頃、あんたは前世であの女に出会ったのよね?」

「そうだ。オレがミオと――前世のエリカと出会ったのは、オレが本当の意味で子供の頃のことだ。あの時のことは、今でもよく覚えてるよ」

「……その頃から、もうあいつのことが好きだったわけ?」

「好きだった」

「告白とかしたの?」

「いや……しなかった。いつか言おう、いつか言おうと思っている内に戦争が始まって、それっきりだ。次に会ったのは15年後で、もうあいつが魔王になった後だった」

「……そう。なるほどね。あいつが言ってた〝昔〟の話っていうのは、そのことだったのね」

「ん? 何の話だ?」

「何でもないわ。それで――あんたは、何も知らずにあの女のことを自分の手にかけてしまった」

「……そうだ。オレが全てを知ったのは、何もかも手遅れになってからだ。そして、あの戦争が人間側が仕掛けたものだと知ったのも、晩年のことだ。前世のオレは本当に……何もかも、いつも手遅れになってから間違いに気付いていた。本当に馬鹿なやつだった。だから――」

 シャノンは無意識に自分の胸元を右手で押さえていた。

「今度は絶対に間違えない。オレは――今度こそ、あいつに伝えるべき言葉を伝えるんだ。オレはきっとそのために生まれ変わったんだ」

 ぐっ、シャノンは自分の握り込んだ拳を見ていた。

 その様子を見ていたブリュンヒルデが、

「……なら、あんたは今すぐにでもあの女を助けに行くべきよ」

 と、そんなことを言い出した。

 シャノンは驚いて、思わず身体を起こしていた。

 ブリュンヒルデは決意が籠もった目で、シャノンを真っ直ぐに見ていた。

「あんたなら、やろうと思えばあの女を一人助けるくらいならできるでしょう? 異端審問会のやつらなんてみんな蹴散らしてさ。あいつ、相当ヤバイ状況なんでしょ? 時間がないんでしょ? だったら、今すぐに助けに行くのよ」

「それは……だが――」

「本当は今すぐにだって行きたいんでしょ? でも、それをしないのはよね?」

「……」

「だったら、そんなの気にしなくていい。あんたは、あんたのやりたいことだけやったらいいのよ。わたしたちだってそこまで無力じゃないわ。自分の身くらい、自分で何とかできる。あんたは生まれ変わったんでしょ?」

 ブリュンヒルデの言葉は、本当にシャノンの心を激しく揺さぶった。

 今すぐに立ち上がって、彼女の下へ駆け出すところを、彼自身が想像してしまった。

 ……だが、シャノンは頭を振った。

「いや、それは出来ない」

「それはやっぱり、わたしたちが足手まといだからよね?」

「いいや、それは違う。足手まといなんかじゃない。むしろ逆だ」

「逆?」

「そうだ。確かに、オレが本気を出せばミオのことを取り返すことはできると思う。でも、それじゃあ本当の意味であいつを救うことにはならない。オレは、あいつを連れて死ぬまで逃げ回ることになるだろう。でも、それじゃダメだんだ。オレは――オレは、今度こそ、あいつには幸せになって欲しいんだ。絶対に」

「……」

「でも、今の世界ではそれは無理だ。あいつが本当の意味で幸せになるためには……世界をかつての姿に戻さなきゃならない。人間と魔族が当たり前のように、手を取り合っていたあの頃の世界に。そのために、オレは王にならなきゃいけないんだ。世界を変えるには、〝勇者の国〟の王という立場と権力は必ず必要になる。そうすれば、あいつを本当の意味で救ってやれるはずなんだ」

 シャノンの双眸には強い意志が光っていた。

 彼は自分自身の中にある焦る気持ちを、本当に強い気持ちで抑えつけていた。

 その悲痛なまでの覚悟は、ブリュンヒルデにも嫌と言うほど伝わった。

 ……それと同時に、シャノンがどれほどエリカ・エインワーズのことを愛しているのか、ということも。

 この時、ブリュンヒルデは本当の意味で、自分の恋が散ったことを確信したのだった。

 ああ、自分のこの気持ちは、絶対に実ることはないのだろう――と。

「だから、あいつを本当の意味で救うには、どうしてもお前たちの力が必要なんだ。お前たちの支えがなければ、オレは王にはなれない」

「……なるほどね。まぁお互いにギブアンドテイクってわけよね」

「そういうのじゃない。オレはお前たちのことだって大切で――」

「あー、はいはい。そういうのいいから。ほら、それよりもうちょっと休みなさい」

「え? いでっ!?」

 ブリュンヒルデはシャノンの頭をガシッ! と掴んで、無理矢理膝枕の態勢に戻した。

「お、おいブリュンヒルデ。もう膝枕はいいぞ? 十分に休んだし――」

「……いいから、三十分だけ、三十分だけでいいから。今だけは、ゆっくり休んで。もう少しだけ、このままでいさせてよ。本当に、これを最後の我が侭にするから」

 シャノンの位置からブリュンヒルデの顔は見えなかったが……その声は、ほんの少し涙声になっていた。

 それを察したシャノンは、

「……分かった。ありがとう」

 シャノンは頷いて、軽く目を閉じた。

 部屋の中には、わずかにすすり泣くような声が響いていたが……シャノンは何も言わず、じっと目を瞑っていた。

 シャノンの頭をそっと優しく撫でながら、ブリュンヒルデはこう思っていた。

(はは……恋敵ライバルを助ける手助けなんて、本当はしたくないけどね……でも、わたしはあんたが好きだから、あんたに幸せになって欲しいから、そのためなら何でもするわ。この身を全て捧げたって構わない。それで――が幸せになってくれるのであれば)

 この日、この瞬間、ブリュンヒルデは自分自身の気持ちに、はっきりと別れを告げたのだった。

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