130,裏切り

「ミオ、待ってよー!」

「早く来い、ヴァージル!」

 ミオが目の前を駆けている。

 彼はその背中を必死に追いかけていた。

 いつもの風景だ。

 ミオは楽しそうに笑っていて、きっと自分も、何だかんだ言いながら笑っているのだろう。

 楽しい。

 ああ、何て楽しいんだろう。

 ずっとこのまま、二人で遊んでいたい。

 もう他に何も考えなくていい。

 ずっと――ここでこうやって、二人で楽しく遊んでいればいいのだ。

「ねえ、。それでいいの?」

「え?」

 不意に声をかけられた。

 振り返ると、小さな女の子――らしき〝影〟が立っていた。

 ミオではない。雰囲気も、声も、全然違う。

 ちょうど向こうから夕焼けの光が差していて、逆光で女の子の姿はよく見えなかった。本当に〝影〟のようにしか見えない。

「君は……だれ?」

「わたしが誰かなんて、別にどうでもいいのよ。どうせ今はもう誰でもないんだから。ただの亡霊よ」

「どういうこと?」

 女の子はよく分からないことを言った。

 ヴァージルが首を傾げていると、女の子はくすくす笑ってから、こう続けた。

「それよりお兄さん、このまま眠っていていいの?」

「え? ぼく寝てないよ?」

「いいえ、あなたは寝ているのよ。だってこれは夢だもの。あなたを守るための夢」

「ぼくを、守る……?」

「おーい、ヴァージル! 何してるんだ、早く来い!」

 遠くでミオが呼んでいた。

 ヴァージルは慌てた。

「あ、ミオが呼んでる……行かなきゃ」

「本当に行っていいの?」

 走り出そうとした彼を、女の子は呼び止めた。

 ヴァージルは迷うように足を止めた。

「でも、ミオが呼んでるから……」

「あそこにいるを追いかけてしまったら、あなたは本当に手に入れたかったものを、また失ってしまうことになるわよ?」

「……どういうこと?」

「おーい、ヴァージルー!」

 遠くでミオが呼んでいる。

 でも、彼は動けなかった。

 ……何だか、胸の内がざわついていたのだ。

 何か忘れている。

 急にそんな気がしてきて、でも何を忘れているのか分からなくて、その不安が胸中に渦巻いていた。

 やれやれ――と、女の子は仕方なさそうに溜め息を吐いた。

「こんなのは本来、のやるべきことではないんだけどね。でも――ちょっと見てられないから、ちょっとだけ助けてあげる。ちょっとだけね。後は、自分で何とかしてね。大丈夫、あなたならきっとできるわ。〝勇者〟さん?」

「勇者……?」

 その名で呼ばれた時、不意にヴァージルは全てを思い出していた。

「そうだ、ぼくオレは――」

 ぱちん、と女の子が指を鳴らした。

 その瞬間、世界の全てにひびが入り――そして、砕け散った。


 μβψ


「……あ、れ?」

 シャノンはふと目を覚ました。

 少し寝ぼけていた。

 何か夢を見ていたような気もするが、内容はまったく思い出せなかった。

 視線を動かす。

 彼はすぐに、彼女の姿がないことに気が付いた。

「ミオ!?」

 跳ね起きた。

 慌てて周囲を確認するが、やはり彼女の姿はない。

 そもそも、近くにまったく気配がなかった。

 彼は慌てて洞窟から飛び出した。

「ミオ、どこだ!?」

 呼んでも返事はなかった。

 とんでもない焦燥感に襲われる。

 嫌な予感がした。

 その時、遠く離れたところで爆発音がした。

 ハッ、とシャノンはそちらを振り返った。

 なぜか分からないが、すぐにそこへ行かねば――と、そう思った。

「ブヒヒン」

 気が付くと、すぐ近くに愛馬マキウスが控えていた。

「――ッ!」

 彼は愛馬マキウスに飛び乗り、すぐにその場から駆け出していた。


 μβψ


「エリカ! 良かった、無事だったのね!」

 アンジェリカはエリカの姿を見つけて、すぐに機械馬マキウスから降りた。

 ヨハンとエリオットの二人も、すぐに後ろから追いついてきた。

 すぐ近くで二人を捜索していた彼らは、近くで爆発が起きたので、慌てて様子を見に来たのだ。

 すると、そこにエリカの姿があった。

 アンジェリカはとにかく嬉しくて、すぐに駆け寄ろうとしたが――

「貴様、それ以上近づくな」

 鋭い声がして、アンジェリカは慌てて足を止めた。

「……え? エリカ?」

 思わず戸惑ったような声を出した。

 そこにいるのは確かにエリカだった。アンジェリカが彼女のことを見間違えるはずなどないのだ。

 だが……どこか、様子がおかしかった。

 エリカが、まるで〝敵〟を見るようにアンジェリカのことを睨みつけていたのだ。

「ど、どうしたの、エリカ? わたし、アンジェリカよ? 分かるでしょ?」

「話しかけるな、汚らわしい人間風情が」

 エリカは吐き捨てるように言った。

 アンジェリカはますます混乱した。

 そこで、彼女は地面に倒れている男の姿に気付いた。真っ黒な鎧ということは異端審問会の人間だろう。

 それを見たアンジェリカは、ハッとしたように再びエリカに話しかけた。

「待って、エリカ! わたしたちはあなたを助けに来たのよ! シャノン殿下も! わたしたちは敵じゃないわ! 異端審問会の連中とは無関係よ!」

「だからどうした? そんなもの、わたしには関係ない。人間どもの理屈など知ったことか」

 エリカの様子は変わらなかった。

 警戒を解くどころか、顔を歪めて悪意のある笑みを見せた。

「ったく、どいつもこいつも使えんやつばかりだ……おかげで〝計画〟は失敗だ。うまく行けば、いまごろ王都は陥落していたものを」

「……え? 計画? 計画って何のこと?」

「王都を陥落させる計画だ。せっかく長い時間かけて準備していたものを……無能どものせいで全てパーだ。おかげでこのザマだ。はははッ!」

「……」

 皮肉げに顔を歪めて笑うエリカを、アンジェリカは呆然と見ていた。

 まるで別人のようだった。

 アンジェリカの知っているエリカではなかった。確かに裏表が激しくて、外面だけはやたらと良かったが、自分には〝素〟の自分を見せてくれている――それがエリカと自分の関係だった。

 けれど、今のエリカは……アンジェリカも知らない〝誰か〟のようにしか見えなかった。

「ね、ねえ、エリカ? 嘘よね? あんたが異端者なわけないよね? だって、わたしたち子供の頃から〝親友〟だったでしょ?」

 一歩、アンジェリカは彼女に向かって踏み出した。

 その瞬間、何かが頬を掠めた。

 何が頬を掠めたのかは分からない。だが、そっと自分の頬に触れると、べっとりと血がついていた。

 気が付くと、エリカが左手を軽くかざしていた。

 、と遅れて気が付いた。

「アンジェリカッ!?」

 すぐにヨハンが前に飛び出してきた。

 この時、アンジェリカははっきりと視認していなかったが……エリカの放った〝何か〟が、彼女のすぐ横を掠めて、背後の木に突き刺さっていたのだ。その物体はアンジェリカの背後にいたエリオットの頭も少し掠めていた。

 〝敵意〟を感じたヨハンは、とっさに剣を抜いて飛び出していた。

 彼は戸惑いつつも、エリカに厳しい視線を向けた。

「……エリカさん、いまのはどういうつもりですか? あれは……当たれば死んでいましたよ?」

「ああ、悪い悪い……手元が狂った。

 エリカはますます笑みを深めて、次の標的をヨハンに定めた。

 空中にいくつもの〝刃〟が生じた。

 まるでやじりのような物体がいくつも生み出されて、それが浮遊している。

 〝魔法〟だ。

 ヨハンは驚くと共に、すぐに身構えた。

「待ってください! 我々はあなたに危害を加えるつもりはありません! あなたから話を聞きたくて――」

 その瞬間、刃が撃ち出された。

 ヨハンはとっさに避け、剣で弾いた。

 火花が散る。

 ヨハンを寒気が襲った。

(――今のは、動かなければ死んでいた)

 否応なしにそれを悟ったのだ。

「何も話すことなどない。第一、このわたしが汚らわしい人間などと話すわけがなかろう。虫唾が走る」

 エリカは笑みを消し、ヨハンたちに憎悪の籠もった目を向けていた。

 明確な〝攻撃〟を受けたヨハンは、先ほどより強く剣を握って相手に向けた。

「……今のは、何のつもりですか?」

「何のつもり? そんなもの、聞くまでもあるまい。貴様を殺すつもりだった。それだけだ」

「……」

「ああ、人間どもに紛れて生活するのは本当に苦痛だったよ。我らから全てを奪っておいて、なぜ貴様らはのうのうと生きていられるのか……本当に理解に苦しむ。貴様らの平和は、我々から奪った平和だ。それを何も知らずに、脳天気に当たり前だと思っている貴様らを見ていると、本当に反吐が出そうだった」

「……あなたは、本当に〝魔族〟なのですか?」

「そうだ。いまの〝魔法〟を見て理解しただろう? 人間どもを欺くために、姿を偽装していたに過ぎない」

「嘘よ! あんたが魔族なわけないでしょ!? わたしと子供の頃から一緒だったじゃない!?」

「それが異端者というものだ。人間にバレないように擬態して、人間社会に紛れ込む。そして、内側から人間たちに〝攻撃〟を行う……本物のエリカ・エインワーズはとっくに死んでいる。わたしが殺して入れ替わった」

「嘘よ! そんなの信じないわ!」

「なら、勝手にそう思っておけばいい。どこで本物と入れ替わったのか気付かない程度で、よくもまぁ〝親友〟などと言えたものだとは思うがな」

「……う、嘘よ。そんなのあり得ない。そんなの――」

 アンジェリカは相当なショックを受けたのか、その場にへたり込んでしまった。

 代わりに、ヨハンはますます警戒を強め、一歩前に出た。

「……一つ訊ねる。シャノンはどうした?」

 ヨハンの口調と目付きが変わっていた。

 エリカは口端を歪めた。

「ああ、あの無能か……もう用は済んだから殺そうと思ったんだが、洗脳が解けて抵抗されてしまってな……逃げられてしまった。もう少し利用したかったが……まぁ仕方あるまい」

「洗脳? どういうことだ?」

「あいつはずっと、わたしが魔法で洗脳していたのだ。まぁ元々かなりの女好きだったようだから、洗脳するのは容易かったよ。おかげで必要な情報は全て手に入った。だが……アサナトスがあれほど無能な集団だとは思わなかった。あれだけわたしがお膳立てしてやったというのに、よもや失敗するとはな。おかげで、今までの時間が全て無駄になってしまった」

「……いつからだ?」

「ん? 何がだ?」

「いつから、お前はエリカさんと入れ替わっていた?」

「さてな……もうかなり前だ。具体的なことなど覚えていない」

「僕やアンジェリカを騙していたのか?」

「そうだ。わたしはずっと――お前らを騙していた」

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