102,異端者
「……」
わたしはゆっくりと立ち上がり、息絶えた戦士のことを見下ろした。
少しの間じっと眺めた後――傍にしゃがみ込んで、見開かれたままの戦士の両目をそっと閉じた。同時に、わたしの生み出した
改めて女と子供に向き直る。
どちらもわたしを見て脅えていたが、そのまま構わず近づいて――倒れている男の傍にしゃがみ込む。
「……やはり、まだ息がある」
男は死んでいなかった。
かろうじで息が残っている。
どうやら腹部を深く刺されたようだ。
このままでは間違いなく死ぬだろう。だが……息が残っているのであれば、まだ何とかなるかもしれない。
傷口に両手を当てて、そこに魔力を集中させる。
魔力を使えば使うほど、さらに頭痛が増していく。痛みも右手だけじゃなくなっている。すでに左手にも感覚がない。
それでも両手に魔力を込めた。
わたしが魔力を注ぎ始めると、傷口は目に見えて塞がっていき、すぐに血が止まった。
苦痛に歪んでいた男の顔が安らかなものへと変わる。その顔は、ただ眠っているだけのようにしか見えなかった。
「お、お姉ちゃん、いま何したの……?」
気が付くと、女の腕の中にいた子供が驚いたような目をわたしに向けていた。
その時だった。
「そこに誰かいるのか!?」
ガシャガシャと、鎧を着た集団が騒がしく近寄ってきた。
騎士だ。
どうやらようやく騎士団がやって来たらしい。
「魔族だ! 魔族の戦士が倒れているぞ!」
「お前たち、こいつに襲われたのか!? おい、この魔族をすぐに取り押さえろ!」
「待て、こいつはすでに死んでいるぞ!」
警戒が困惑に変わる。
「なに? いったい誰がこの魔族を殺したんだ……?」
「胸に刺されたような傷痕がありますね」
「そ、その女です!」
子供を抱いていた女が、いきなりわたしのことを指差した。
「――」
女を振り返る。
まっすぐに目が合う。
わたしを見るその目には――はっきりとした脅えがあった。
それは間違いなく〝化け物〟を見る目だった。
「そ、その女は〝魔法〟を使いました! この目で見ました! きっと〝異端者〟に違いありません!」
「なんだと?」
騎士たちの雰囲気が一変し、わたしに殺気の籠もった視線を向けた。
腰の剣に手を当て、警戒した様子で問いかけてくる。
「これは貴様がやったのか?」
「わ、わたしは……」
すぐに言葉が出なかった。
違うと言えば良かった。
言い逃れしようと思えば出来ただろう。
なのに……わたしの口からは、一つも言葉が出てこなかった。
「言え! どうなんだ!? これは貴様の仕業なのか!?」
「……ッ!」
わたしは踵を返し、その場から走り出した。
「逃げたぞ! 追え!」
すぐに騎士たちが追ってくる。
狭い路地に逃げ込み、物陰に隠れる。
「くそ、どこへ逃げた!?」
「どうした、何があった!?」
騎士の気配が増えた。騒ぎを聞きつけて他の連中も集まってきたようだ。
「〝異端者〟の疑いがある女を発見した! 黒い髪の女だ!」
「なに!? 〝異端者〟だと!?」
「それは確か別の場所でも目撃情報があったぞ! 騎竜兵の攻撃に乗じてそいつも街を破壊していたらしい!」
「そいつをすぐに捕らえろ! 抵抗された場合はその場で殺しても構わん!」
騎士たちが慌ただしく走り去っていく。
気配が遠ざかるのを待ってから、物陰から出て行く。
「……くそ」
すでに意識が朦朧としかかっている。
満足に走れもしない。
それでも、わたしはとにかく気配のする方向を目指した。
【おやおや、可哀想に。せっかく命を助けてやったのに、恩を仇で返されちまったな?】
気が付くと〝影〟が目の前に立っていた。
わたしは足を引きずりながら〝影〟の横を通り過ぎる。
だが、〝影〟は再びわたしの目の前に現れた。
【どうしてあの男の命を助けた?】
立ち止まった。
壁に寄りかかり、息を整えながら答えた。
「……別に意味などない。助けられると思ったから、助けただけだ」
【ふうん? じゃあ、どうして魔族の戦士は殺したんだ?】
「……」
何も答えられなかった。
〝影〟はあの歪んだ嗤いを口元に浮かべた。
【魔族は殺して、人間は助けた……なぜそんなことをした?】
「それは……」
口を開いた。
でも、わたしはやはり何も答えられなかった。
すると、〝影〟はくぐもった嗤い声を出した。
【くくく……やっぱり、おれの言った通りだっただろう?】
「……何の話だ?」
【お前には誰も救えない、という話だ。さっきも言ったように、すでに今回の〝死〟の総数は決まっている。誰かが死ななかったら、その分代わりに誰かが死ぬだけだ。お前はただ、死ぬ相手を変えただけに過ぎない。それを救うとは言わない】
「うるさい」
【お前はなぜ魔族を殺して人間を助けた? やっぱり今はもう人間だから――ということか?】
「うるさい、話しかけるな」
【そもそもだ。あの男が死にかかったのはたぶんお前のせいだと思うぜ?】
「……わたしが?」
【だってそうだろう? お前が本気で魔法を使ってりゃ、騎竜兵は間違いなく確実に殺せたはずだ。なのに、お前をそれをしなかった。ただ時間稼ぎをしただけだ。そんで、撃ち落とされた死に損ないの騎竜兵がさっきの家族を襲った。これってようするに、騎竜兵をちゃんと仕留めなかったお前の〝責任〟なんじゃないか?】
「それは――」
【お前の魔法なら、確実に空中であいつらを殺せたはずだ。なのに、なぜお前はやつらを殺さなかった?】
「こ、殺す必要はないと思ったからだ。攻撃さえ止められれば……」
【違うな。お前は覚悟がなかった。自分の手を穢すことに躊躇いがあった。自分の手で、かつての仲間を殺すことに迷いがあった。だから、殺せなかった。結局、やつらが人間の手で殺されることを分かっていながら、その〝責任〟から逃げた。いや、押しつけた】
「ち、違う。わたしは、わたしはただ……」
【だが、そのせいで別の人間が死ぬところだった】
「う、うう……」
〝影〟の言葉が否応もなく頭の中で反響する。
わたし自身が目を背けていたことを、〝影〟は抉るように突いてくる。
本当は心の奥で自覚していることだからこそ、相手の言葉を否定できない。
【で? これから何をするつもりだ? まさかこの争いを止めよう――なんて思っているわけじゃないだろうな?】
「ま、まだ何とかなるはずだ。わたしが説得すれば、マルコシアスはきっと止まってくれるはずなんだ! そうすれば、双方ともにこれ以上の被害は抑えられる!」
【やめておけ。何をしても無駄なことだ。諦めて受け入れろ。決定した因果を覆すことは不可能だ。すでに〝死〟の総数は決まっている。決まっただけの〝死〟が必要なんだ。お前にできるのは――せいぜい死ぬ相手を変えることだけだ】
「そんなこと、やってみないと分からない! 消えろ、目障りだ!」
怒鳴りつけると、〝影〟は肩を竦めて再び姿を消した。
「……止められるはずだ。わたしなら、わたしならあいつを止められるはずなんだ」
あの時は止められなかった。
わたしは何もできなかった。
だから今度こそ止めるのだ。
これ以上誰も――人間も魔族も、どちらも死ななくてもいいように。
わたしはただ、突き動かされるように、足を引きずって歩いた。
μβψ
……ああ、でも、本当はわたしも分かっていたのだ。
〝影〟が言っていたことが、どうしようもない事実だということを。
街の人たちを守るためには魔族を殺す必要があった。
女と子供を守るためには魔族を殺す必要があった。
誰かを死なないようにするためには、誰かを殺さねばならない。
誰かを殺さなかったら、その誰かが別の誰かを殺すだけ。
死ぬ相手がただ変わるだけだ。
だというのに、わたしは無駄な足掻きを続けようとしていた。
自分の手を穢す勇気すらない臆病者が、それでもまだ、都合のいい愚かな妄想を追い求めていたのだ。
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