112,懐かしい呼び名

「おい、おい、しっかりしろ!?」

「……」

 ゆっくりと眼を開けると、すぐそこにシャノンの顔があった。

 泣いている。

 その泣き顔は、本当にあの頃のヴァージルそのままだった。

 わたしが眼を開けたことに気付くと、シャノンは縋り付くみたいにして抱きついてきた。

「ああ、良かった……ッ! 生きてたッ……!」

 全身の感覚がほとんどない。

 でも、何となく状況を思い出してきた。

 ありったけの魔力を使ったせいで、意識を失っていたようだ。

 ……生きてる、のか?

 どうやら辛うじて死ななかったらしい。

 けれど、意識はもうほとんど朦朧としていた。

 気を抜くとすぐにでも意識が途切れてしまいそうだった。

「……マルコシアスは、どうなった?」

 何とか声を出した。自分でも驚くほど声は掠れていた。

 シャノンはわたしから身体を離し、目元を拭った。

「あいつなら、そこで死にかけてる。でも、あれならもう動けないだろう。だから大丈夫だ」

「……まだ、生きているのか?」

「多分……」

 さすがに驚いた。

 あの魔法を真正面から食らって、まだ生きていられるのか。

 ……いや、それだけ今のわたしの力が劣っていたということか。

 だが――まだあいつが生きているのであれば、わたしにはまだ言うべき言葉があった。

 〝王〟として――最高の忠臣に、下賜かしすべき言葉が。

「……すまない、わたしをマルコシアスの傍に連れて行ってくれないか?」

「ば、馬鹿言うな。そんな危ない真似できるか。さっきだってそう言って、向こうが襲いかかってきて――」

「お願いだ」

 何とか声を絞り出して、シャノンに頼む。

 シャノンは少し迷った様子を見せてから、わたしの身体を抱き上げてくれた。

「ありがとう」

「……そんな顔でお願いされたら断れねえよ」

 シャノンはわたしを抱きかかえて、マルコシアスの近くで下ろしてくれた。

 シャノンの腕に掴まりながら、わたしは何とか自分の足で立つ。

 確かに、マルコシアスは辛うじて生きている様子だった。だが、その身体は見るからに満身創痍だ。そう長くはないだろう。

 しかし……先ほどとはどこか様子が違った。

 すでに殺気は失われており、あれほどギラギラしていた双眸にも、もう激しい光は一つも浮かんでいなかった。

 わたしの気のせいでなければ……それは、かつてのまだ優しかった頃のマルコシアスの雰囲気によく似ているように思えた。

「……マルコシアス」

 わたしが呼びかけると、目だけが動いてわたしを捉えた。身体はもうほとんど動かないようだ。

『――魔王様、申し訳ございませんでした』

 とても静かな声だった。

 わたしはハッとした。

 今のマルコシアスは、どうやらのようだった。

『正気に、戻ったのか?』

『……さて、どうなのでしょうか。ただ、何だか突然に……悪い夢から覚めたような心持ちでございます』

 声は掠れている。だが、響きは本当に穏やかだった。

『何やら、ずっと悪い夢を見ていたような気がします。覚めることのない悪夢の中を、延々と彷徨っていたような……でも今は、不思議な感覚でございます』

 悪夢。

 確かに悪夢だっただろう。

 こいつは100年もずっと……悪夢を見続けてきた。

 それからようやく覚めた。

 ……死ぬ間際に、こいつはようやく悪夢から覚めたのだ。

 だから、わたしはこう言っていた。

『マルコシアスよ、お前が今までずっと見ていたのは、ただの悪夢だ。安心するが良い』

『……そう、なのですか? わたしが見ていたのは、ただの悪夢だったのでございますか?』

『ああ、そうだ。お前はただ、、悪夢にうなされていたに過ぎない。でも……それももう、これでお終いだ。悪夢はもう終わったのだ』

『……そう、ですか。それは――何と言うか、ほっとしたような気持ちがいたしますね』

 わずかにマルコシアスが微笑んだ。

 その顔は、わたしがよく知るかつてのマルコシアスそのものだった。

 懐かしくてまた泣きそうになってしまった。

 でも、ここで泣いてはならない。

 わたしは涙をこらえ、マルコシアスに〝王〟として言った。

『我が忠臣、マルコシアスよ。そなたの忠義は、この魔王たるわたしが最後までしかと見届けた。お前ほどの忠臣は他にいない。ご苦労だった。だから――しばし休むが良い』

 マルコシアスはわずかに眼を見開いた。

『……忠臣? このわたしが? わたしは……魔王様に忠義を尽くせたのでございましょうか?』

『当たり前だ。十分過ぎるほど尽くしてくれた。だから、もう良いのだ』

『……そう、でございますか。ああ、それは――よかった。わたしは……ようやく忠義を果たすことができたのですね。それは本当に良かった』

 マルコシアスの身体から力が抜けていくのが分かった。同時に、生きるのに必要な〝何か〟も消えていくように感じられた。

 同時に、周囲から〝黒い手〟が再び這い出してきた。

 ゆっくりとマルコシアスの身体にまとわりついていく。

 ……ああ、死んでしまう。

 マルコシアスが死んでしまう。

 いや、違う。

 わたしが殺した。

 わたしが――この手で、殺したのだ。

『……魔王様、最後に、一つだけご無礼をお許しいただけないでしょうか?』

 マルコシアスがゆっくりと手を動かした。

 シャノンはすぐに警戒した様子を見せたが、

「……シャノン。すまない。これが最後の我が侭だ。わたしを――マルコシアスの傍に座らせて欲しい」

 わたしがそう頼むと、諦めたような溜め息を吐いた。

「……分かった」

 シャノンがわたしをマルコシアスの傍に座らせてくれる。

 わたしは自分の体重を、大きな毛むくじゃらの身体に預ける。とても懐かしい感触だった。

 懐かしさを堪能していると、マルコシアスの手がゆっくり動いて、わたしの頭を撫でた。

『……、ご立派になられましたな』

 懐かしい呼び名だった。

 それはまだ、わたしが本当にクソ生意気なクソガキで、好き放題遊び回っていて――そして、最も幸福な時代の呼び名だった。

 あらゆる記憶が、鮮明によみがえってくる。

 途端、わたしは〝王〟の威厳などかなぐり捨てて、子供のようにマルコシアスにしがみついていた。

 本当はずっとこうしたかった。

 その気持ちを、わたしはもう抑えられなかった。

『マルコシアス、すまない……ッ! わたしが、わたしが魔王になんてなったばっかりに……ッ! 全部わたしのせいだ、全部……ッ! ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい――』

『ほっほっほ……姫様、痛いのでヒゲを引っ張るのはやめてくださいませ』

 マルコシアスは穏やかに笑いながら、わたしの頭を優しく撫でてくれた。

 その感触は、ティナやダリルに撫でられた時の感触にとてもよく似ていた。

『姫様は何も悪うございません。悪いのは、全てわたしでございます。あの時のわたしが愚かだったのです。先代様の無残な死を目の当たりにして、我を忘れて、先代様の遺志を見失っておりました。姫様は何も悪うございません。悪いのは――全て、このわたしでございます』

『違う、悪いのはわたしなんだ。わたしさえ、あそこで戦争を止めていれば、誰も苦しまなかったのに……』

『……姫様、最後に、この老いぼれの頼み事を聞いてはくれませぬか?』

『……頼み?』

『はい。最後の無礼のです。一つだけ、姫様にお頼みしたいことがございます』

 マルコシアスの大きな指が、わたしの涙をそっと拭ってくれた。

『ああ……本当に、今のあなたは人間なのですね。でも、確かに姫様です。このマルコシアスにはそれが分かります。であるならば――きっと、これはあなたにしかできないことなのでしょう。むしろ、を成すためにあなたは人間として生まれたのかもしれません』

『こんなわたしに、まだ何か出来ることなどあるのか……?』

『あります。世界中に散った我が同胞たちを――あなたが救ってください』

『わたしが……?』

『今の姫様であれば、きっと出来ます。まだ、世界中に同胞はおります。怒りと憎しみに取り憑かれた愚かな我々とは、たもとを別った者たちが、まだこの世界には大勢いるのです。今はただ、彼らの声をちゃんと聞かなかったことだけが悔やまれます。彼らは〝戦争〟は終わったのだと言っていました。ですが、我々はどうしてもそれが受け入れられませんでした。ああ、本当に……わたしは、何と愚かであったことか』

 マルコシアスの手が地面に落ちる。

 〝黒い手〟が動き出す。

 ティナやダリルの時のように、亡者たちの手は貪るようにマルコシアスから〝何か〟を奪っていく。

『マルコシアス!?』

『最後に、あなたのおかげで悪夢から覚めることができました。本当に……感謝いたします――』

 マルコシアスの目から光が消えた。

 それでもまだ、亡者たちの手はマルコシアスの身体に群がっていた。

 それを止めることはわたしには出来ない。

 わたしはただ、それを見ていることしかできない。

「――ぐっ!?」

 突然、頭が割れるような痛みに襲われた。

「ど、どうした!?」

 シャノンが慌てたように駆け寄ってくるが、わたしは声を出すことすらできなかった。

 とんでもない痛みだった。

 痛みだけで死んでしまいそうだ。

 だが……わたしはそんな状態だと言うのに、〝黒い手〟はまるでわたしには何の興味も示さない。

 ……まだ、わたしからは奪わないのか。

 いつになったら、お前たちはわたしから奪ってくれるんだ。

「な、何だこの高熱……ッ!? おい、すぐ王都に戻るぞッ! 早く医者に診せねえとッ……!」

 シャノンがわたしを抱きかかえようとしたが、何とかそれを止めた。

「……やめろ。いま、わたしと王都に戻ったらお前まで捕まってしまう」

「は? な、何の話だよ?」

「さっき、街中で魔法を使った。それを大勢に見られた。すでにわたしは〝異端者〟だとバレている」

「な――」

「だから……わたしの首だけ持っていけ」

「な、なに言ってんだ!?」

。お前はそれを討ち取った――そういう筋書きにするんだ」

 シャノンがわたしと一緒に行動しているのは、すでに大勢の人間が知っているはずだ。

 そして、わたしはもう〝異端者〟なのだ。

 本当に人間なのか、それとも魔族なのかなんて、もはや関係ない。魔法を使った時点で、それを見られた時点で、わたしはもう〝異端者〟でしかない。

 なら、一緒に行動しているシャノンはわたしの協力者だと思われてしまう。今回の事件にだって関与しているのだと疑われるのは確実だ。

 だから、わたしの首をシャノンが持って帰れば、その疑いを晴らすことができる。むしろ、シャノンはこの事件を食い止めた英雄になれるのだ。

 かつて、わたしを倒して〝勇者〟となったように――こいつは再び、大勢を救った英雄となれるのだ。

 シャノンが生き残るためにはそれしか道はない。

 せめて、最後くらいは、この身がこいつの役に立ってくれたら、わたしはそれで良かった。

 けれど――

「ふざけるなッ!!」

 シャノンは怒号を上げると、わたしの身体を抱え上げた。

 わたしは戸惑った。

「お、おい、何を――」

お前を殺せだって? そんなのは絶対に御免だッ! オレが――オレがを守るんだッ! 他の連中のことなんて知ったことかッ!!」

「――」

 一瞬、懐かしい呼び名が聞こえたような気がした。

 ミオ。

 かつて、わたしのことをそう呼んでいたのはただ一人しかない。

「お前――ぐっ!?」

 再び、頭痛に襲われた。

 凄まじい痛みだった。

 いや、頭痛だけじゃない。

 身体の内側から、無数の針が皮膚から飛び出しているような感覚だった。

 一気に意識が遠のいていく。

「お、おい!? 、大丈夫か!? ――ッ!?」

 ……遠ざかる意識の中で、シャノンは何度もわたしを懐かしい名で呼んだ。

 ミオ――と。

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