108,まぼろし
『――ですが』
一気にマルコシアスの気配が膨れ上がった。
ほんの一時だけ凪いだように思えた殺気の波が、再びとてつもない大きな波となってそこら中にまき散らされた。
「……え?」
わたしは、すぐに動けなかった。
「危ねえッ!!」
急に、ぐっと身体を引っ張られた。
気が付くと、わたしはシャノンに抱えられていた。
直後、地面が揺れるほどの鈍い音がした。
さきほどまでわたしたちが居た場所には――とても大きな穴が空いていた。
それは――マルコシアスが地面を殴りつけたことで生じた
攻撃されたのだ。
遅れてそのことに気が付いた。
シャノンがわたしを抱えて後ろに跳んでいなかったら……たぶん、わたしは死んでいたと思う。
『……やはり貴様、相当な手練れだったようだな。たかが人間風情が、魔術鎧も無しに生身でその身のこなしとは――恐れ入る』
マルコシアスが言葉を発した。
その目は明らかにシャノンを睨みつけていた。
『ま、待てマルコシアス!? なぜだ!? わたしの言葉を受け入れてくれたのではなかったのか!?』
わたしはシャノンに抱えられたまま、慌てて言葉を発した。
だが、こちらの言葉はマルコシアスには届いていなかった。
マルコシアスは、わたしではない誰かを見ているようだった。
『……ああ、そうだな。お前の言うとおりだ。わたしも愚かな夢を見たものだ。今さら目の前に魔王様が現れ、このわたしにそのような望外なお言葉をかけてくださるなど……本当に、我ながら都合の良い夢――いや、これはもはや妄想の類いか。我ながら愚かなことだ。そうだ、その通りだ――』
「マルコシアス……?」
マルコシアスはくぐもった嗤いを上げた。
それは自分自身を嘲るような、そういう類いのものに見えた。
その様子は、まるで本当に誰かと話しているかのようだった。
誰か分からない。
周りには誰もいない。
それでも誰かと話しているというのであれば……その相手というのは、もしかするとマルコシアスにしか見えていない誰かなのかもしれない。
マルコシアスはゆっくりと立ち上がり、背後を振り返った。
『戦士たちよッ!! 進軍を再開せよッ!! 悪しき〝敵〟の中枢はもう目の前だッ!!』
叫んだ。
直後、全ての戦士たちも呼応したように叫び、すぐさま進軍を開始した。
わたしは一気に絶望のどん底に突き落とされたような気持ちになった。
『待て、マルコシアス!? すぐに進軍をやめさせろ!? このまま突撃しても死ぬだけだぞッ!?』
「あ、こら! おい、暴れるな!」
「下ろしてくれ、シャノン! こ、このままじゃ、このままじゃあいつらが――ッ!」
わたしはすぐにでもマルコシアスに駆け寄りたかったが、シャノンが離してくれなかった。
その間に、マルコシアスは〝
その姿は、長年にわたって人間たちが怖れ続けた〝殺戮〟の忌名に相応しい禍々しさだった。
「……残念だが、説得は失敗したみたいだな」
と、シャノンが苦々しい表情で言った。
けれど……わたしは、その事実がまだ受け入れられなかった。
「ま、待ってくれ! ま、まだ間に合う! まだ――」
「来るぞッ!」
シャノンがわたしを抱えたまま、再び後ろに跳ぶ。
マルコシアスはその巨体には似合わないほどの速さで、わたしたちに襲いかかってきた。
「ちぃ――ッ!?」
わたしのせいで両手が塞がっているシャノンは、思うように反撃が出来ない。避けるだけで精一杯だ。
その間に、アサナトスの戦士たちは王都に向かって進撃を開始していた。戦っている我々を避けるようにして、そのまま王都を真っ直ぐ目指していく。こちらにはまったく目もくれない。まるでわたしたちだけ川の中洲にでも取り残されたかのようだ。
「ま、まずい……ッ!? シャノン、軍勢が王都に向かい始めたぞッ!?」
「悪いが、そっちの相手をしてる暇はねえッ! 避けるだけで精一杯だッ!」
マルコシアスは一方的に、問答無用で襲いかかってきた。
でも、わたしはまだ諦めきれなかった。
魔力で身体強化して、無理矢理にシャノンの腕を振りほどいた。
「あ、おい――ッ!?」
シャノンが慌てたような声を出す。
わたしは再びマルコシアスの前に立ち、両手を広げた。
『待て、マルコシアスッ! なぜだッ!? なぜ攻撃をやめないッ!? 早く進軍を止めろッ! 全員死ぬぞッ!?』
『元より、我らはそのつもりです』
目の前でマルコシアスが止まる。
その顔はすでに鎧に覆われていて、表情が一切見えなかった。
すぐにシャノンが剣を構えてわたしの前に立った。
「待ってくれ、シャノン! もう少しだけ話をさせてくれ!」
「だが……」
「頼む、お願いだ!」
「……分かった。だが、相手が攻撃してきたら……すぐに反撃するぞ」
わたしが必死に懇願すると、シャノンは警戒したまま、わずかに横にずれた。
再び、わたしはマルコシアスの目の前に立つ。
鎧を纏って立ち上がっているマルコシアスは、本当に見上げるほどの大きさだった。
『マルコシアス、なぜだ!? わたしの言葉が信じられないのか!?』
『これはきっと〝まぼろし〟なのです』
『……は? ま、まぼろし、だと?』
『左様です。この100年、わたしはもはや自分が
『そんなことはない! お前の魂は必ず
『ふんッ!!』
マルコシアスが大剣をわたしに向かって振り下ろした。
すかさずシャノンが動き、それを受け止める。
目の前で大きな火花が散った。
「……そんな、マルコシアス」
わたしは――ただ一歩も動けず、その場にへたりこんでしまった。
マルコシアスは大剣でシャノンを押し込みながら、まるで独白するように続けた。
『ああ……本当になんと都合の良い〝まぼろし〟であることか……魔王様が生まれ変わって再びわたしの前に現れる? そのようなこと、有り得るはずがない。これは〝まぼろし〟なのだ。魔王様は死んだ。わたしのせいで死んだ。わたしはまた、お守りすることが出来なかった……もうこの世界にはおられぬのだ。
「いつまでも独り言ばっか言ってんじゃねぇッ!!」
シャノンが腕力だけでマルコシアスの大剣を振り払った。
すかさずシャノンが懐へ斬りかかるが、マルコシアスは大剣を軽々と振るってそれを受け止めた。
弾かれた反動をそのまま利用してシャノンは後ろに跳び、地面に着地する。
すぐに向こうから襲いかかってくるかと思ったが……なぜか、マルコシアスはすぐには動かなかった。
ただ亡霊のようにそこに立ち尽くしていた。
その姿に、わたしはどうしようもなく悟ってしまっていた。
――ああ、ダメだ。
こいつはもう……ここではないどこかに魂を置いてきてしまったのだ、と。
『いや、そうなのか? これも人間どもの〝攻撃〟なのか? だとすれば、彼奴らめは本当に小賢しい……憎い、ああ、憎い――人間は本当に、度し難いほどに、憎いッ!! わたしの、唯一の、かけがえのない記憶まで利用するか――ッ!!』
憤怒と共に、再び動き出したマルコシアスが大剣を振るう。
シャノンはそれを剣でさばいて、自分から懐に飛び込んで斬りかかった。
「逃げろッ!! こいつはもう――正気じゃねえッ!!」
シャノンが叫んだ。
でも、わたしは動けなかった。
「……どうして」
マルコシアスとシャノンは戦い始め、アサナトスの戦士たちはこちらに構う様子もなく、命じられるがままに王都に向かって進んで行く。
……まただ。
また止められなかった。
ただ絶望の底にたたき落とされる。
「わたしのせいだ、わたしの――」
【ああ、そうだ。これも全てお前のせいだ】
気が付くと、〝影〟が目の前に立っていた。
ニヤニヤと嗤いながら、わたしのことを見ていた。
〝影〟は続けた。
【聞こえるか? お前を憎む全ての亡者どもの〝声〟が】
風が吹いた。
それに乗って、屍臭と怨嗟が届いた。
――死ね。
――死ね。
――何もかも死んでしまえ。
――我々が死んだように。
――お前のせいで我々が死んだように、こいつらもみんな、お前のせいで死ぬのだ。
わたしは思わず叫んでいた。
「そんなにわたしが憎いなら、わたしから奪えばいいだろうッ!? なぜ周りから奪おうとするッ!? 悪いのはわたしなのだろうッ!? だったら他の者は関係ないだろうッ!!」
――それではお前への〝罰〟にはならぬ。
――お前の〝罪〟は、その程度では贖えぬ。
――苦しめ。
――もっと苦しめ。
――お前が苦しむことこそが、我々への〝救済〟なのだ。
あらゆる
すぐに進軍する戦士たちにまとわりついていく。
それはもうまるで――彼らがみんな死ぬのが確定しているのだと、それを示しているかのようでもあった。
植物のツタがまとわりつくかのように、彼らの姿はあっという間に〝黒い手〟によって覆い尽くされてしまった。
けれど、彼らはそれを意に介さない。
いや、見えていないのだ。
自分たちが、屍臭に群がる〝黒い手〟にまとわりつかれていることに、彼らは気付いていない。
「あ、ああ――」
ダメだ。
死んでしまう。
あいつらはみんな、このままでは死んでしまう。
止めなきゃ、何とかして――
「――あ、ぐッ!?」
その時、急に胸が苦しくなった。
力が入らなくなって、その場に倒れ込む。
凄まじい頭痛が襲ってきた。
反動だ。
それも、これまでの比ではなかった。死んだ方がマシだと思えるような痛みが、全身に襲いかかってきた。
「――ぐ、くそ、こんな時に……」
その場から動けなくなった。
何も出来なかった。
マルコシアスを止めることも、戦士たちを止めることも、そして――シャノンを守ることも。
わたしは、何も出来ない。
……まただ。
わたしはまた、何も出来ない。
〝黒い手〟は、マルコシアスとシャノンの周囲にも現れていた。
けれど、すぐに動こうとはしない。
それはまるで、どちらかが死ぬのを待っているかのようだった。
あいつらにとっては、別にどちらが〝
「やめ――ろ」
わたしは手を伸ばした。
しかし、届かない。
どこにも届かない。
わたしがどれだけ手を伸ばしたところで――何も掴めはしない。
【ああ、無様だねえ……だから言っただろう。何をしても無駄だってな。お前は何も出来ない。お前は限りなく恨まれ、呪われている。あいつらは決してお前を赦しはしないだろう。その恨みの深さが、これほどの凄まじい因果の歪みを引き起こしている。そして――その中心にいるのが、お前自身だ】
影は楽しそうに続ける。
その言葉さえ、わたしにはもうほとんど聞こえなかった。
「頼む……奪うなら、わたしから奪ってくれ。頼むから――」
もしかしたら、今のわたしなら何かを変えられるのかもしれない――なんて。
そんなものは――本当に、都合のいい
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