107,新しい故郷
(……言葉が片言にしか分からねえな。いったい何の話をしてるんだ……?)
シャノンはエリカの後ろで、じっと両者の話を聞いていた。
ゲネティラ語はほとんど分からない。断片的に単語が聞き取れる程度だった。
そのため、緊張感はかなりのものだった。
なぜなら、目の前にいるのはあの〝殺戮のマルコシアス〟なのだ。
戦時中からも人間たちから怖れられ、そして魔王亡き後もアサナトスを率い、この100年という年月をつねに最前線で戦い続けた狂戦士だ。
こうして近くに立っているだけで、その気配に圧倒されそうになる。シャノンはなまじ魔力の気配に敏感なため、感じている圧迫感は本当に凄まじいものだったのだ。
恐らく、エリカはいま何とかマルコシアスを説得しようとしているはずだ。だが……それがいつ、決裂して襲ってくるかも分からない。
話がどう転ぶのか、まったく予想ができない。
それでも彼がこの場にいて、逃げ出さずにいるのは――エリカがいるからだ。
もし何かあれば、シャノンは全力でエリカを守るつもりだった。
(もしもの時は――オレがこいつを全力で守る。今度こそ)
例え相手がマルコシアスであろうと、シャノンは一歩も引くつもりはなかった。
そう……彼は相手が誰であろうと、絶対にエリカを守るつもりだった。
エリカのことを――いや、彼女のことを害そうとする存在がいるのであれば、それは全て自分にとっての〝敵〟だ。
相手が魔族であろうが、それこそ人間であろうが――そんなことは、何も関係ない。
彼女を絶対に守る。
いまのシャノンには、ただそのことし頭になかった。
μβψ
『――なん、ですと?』
マルコシアスが困惑した声を出した。
信じられない、という顔をする。こいつの顔は人間と違って毛むくじゃらだが、それでも困惑している様子は手に取るように分かった。
『魔王様、それはどういうことなのですか? 魔王様は、再び我らを導いてくださるためにここに現れてくださったのではないのですか?』
『残念ながら、それは違う。わたしはただ……この争いを止めるために来たのだ』
『そ、そんな……』
マルコシアスは愕然とした顔をしてから、すぐに多少声を荒げて言いつのった。
『魔王様、まさか先代様の無念を、我ら同胞の無念をお忘れになったわけではございますまい!? そもそも、これは全て向こうから仕掛けてきたことなのですぞ!?』
『ああ、そうだな』
『我々が戦うことをやめてしまえば、この〝戦争〟は我々の敗北になってしまいます! そのようなこと、許されるはずがない!』
『マルコシアスよ、もうすでに〝戦争〟は終わっているのだ』
『いいえ、終わってなどおりませんッ! 我々が戦い続ける限り、ゲネティラは敗北しておらぬのですッ! 我々が戦い続ける限りッ!! 敗北とは、それを認めた瞬間に訪れるのですッ! 我々は決して敗北していないッ! 死ぬまで戦い続け、そして死した後も戦い続けるのですッ! それが真の〝戦士〟なのですッ!!』
マルコシアスは咆えるように言った。
それはまるで、何かに取り憑かれているかのような表情だった。
今のこいつには、もう戦うことしか見えていないのだ。
他の道などないと、心の底からそう思っているのだろう。
その狂気じみた双眸の奥を、わたしはじっと見つめた。
『……すまなかった』
自然と口から言葉が漏れていた。
頬を涙が伝っていく感触があった。
魔王たるものが誰かに涙など見せるものではない。
決して許されることではない。
けれど……わたしは、溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
『ま、魔王様……?』
わたしの涙を見たマルコシアスが困惑した様子を見せた。
狂気じみた光を放つ双眸の中に、わずかに理性のようなものが見えた気がした。
わたしはただ、涙と共に、胸の内を吐き出した。
『わたしが死んだ後も、お前はずっと戦い続けて来てくれたのだな。ゲネティラのために、同胞のために、そして――わたしや父上のために。だというのに……わたしは、お前たちを見捨てて、一人だけ逃げてしまった』
『逃げたなどと……魔王様は最後まで勇敢に戦い、我々を率いてくださいました。全てはあの憎き〝勇者〟が――』
『違う、違うのだ、マルコシアスよ。わたしは……自分から死ぬことを望んだのだ』
わたしは
あの時、わたしは本当に死ぬことしか考えていなかった。
これでようやく〝魔王〟という重責から解放される。
もう戦争なんてしなくて済む。
そんなことしか考えていなかった。
ゲネティラのことも、同胞のことも、あの時のわたしは――何一つ、考えていなかった。
逃げることしか頭になかった。
だから、あんな言葉が口から出たのだ。
『わたしはずっと、人間との戦争をやめてしまいたかった。魔族の勝利よりも、目の前の争いが消えてなくなることだけを望んでいた。わたしはその程度の器だったのだ。到底、父上の後を継げるような存在ではなかった。魔王などになれる器ではなかった。わたしは……本当に、つまらない小娘だった』
『そのようなことは――』
『いいや、それが事実だ。わたしにそれだけの器があれば、そもそも戦争は起こらなかったかもしれない。もしかしたら、我々は敗北せず、ゲネティラの大地を守り切ることもできたかも知れない。最後の最後まで徹底抗戦し、人間たちを諦めさせることも、出来たかも知れない――けれど、わたしには何も出来なかった。たくさん道はあったはずなのに、そのどれもが、わたしが愚かなせいで潰えてしまった。全てはわたしのせいだ。大勢の者達があの戦争で苦しみ、そして今なお、お前たちが苦しみ続けているのは……全て、このわたしのせいだ』
『……魔王様』
『わたしが諸悪の根源だ。そんなわたしが、今さらお前たちにこんなことを言うのは、あまりにも都合が良いことは分かっている。でも、頼む。お願いだ。もう、争うのはやめてくれ』
『……』
『すでに王都はお前たちが来ることを警戒して、万全の迎撃態勢を整えているはずだ。このまま突撃したところで、全滅するのは分かりきっている。お前たちはそれでもいいと言うだろう。そのつもりでここにいるのだと言うだろう。だが……わたしはお前たちに死んで欲しくない。誰にも……死んで欲しくないんだ』
わたしは目元を拭って、何とか涙を止めて、懸命にマルコシアスのことを真正面から見つめた。
『今のわたしはもう魔族ですらない。身体は人間だが……じゃあ人間かと言われれば、きっとそうでもない。わたしはもう何者でもない。それでもお前がわたしのことを〝魔王〟と呼んでくれるのであれば、わたしは喜んでお前たちと共にいよう。そして、我らで再びどこかに〝
『新たな〝
『ああ、そうだ。だから……もう戦うのはやめてくれ。もう――〝戦争〟は終わっているんだ』
『〝戦争〟が――終わっている?』
『そうだ。だからもう、戦わなくてもいい。戦う必要はない。わたしはこの身の全てを、新たな〝
『……』
マルコシアスは半ば呆然と、わたしのことを見ていた。
しばしそのままだったが……やがて、ぽつりと言った。
『わたしは……また魔王様のお側に仕えてもよろしいのでしょうか?』
『ああ、当たり前だ。お前以外に、わたしの右腕はいないのだからな』
『……わたしは何も出来ませんでした。先代様のことも、そしてあなた様のことも、お守りすることができませんでした。なのに……このわたしを、お許しくださると言うのですか?』
『許すも許さないもない。お前でなければダメなんだ』
『魔王様……』
マルコシアスはじっとわたしのことを見ていたが、やがてゆっくりと頭を垂れた。
『……このマルコシアス、今のお言葉は本当に望外の喜びにございます。わたしのような奸臣ごときを、そのように言ってくださるとは……本当に、感謝の念に堪えませぬ』
不意に、マルコシアスの気配が小さくなっていくのを感じた。
あれほど溢れだしていた殺気だらけの魔力の気配が、少しずつ穏やかになっていく。
その気配を感じて、わたしは自分の思いが通じたのだと思った。
これで、もうこれ以上誰も死ななくて済む――
……などと、本当にそんな都合のいいことを、本気で信じてしまったのだ。
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