78,呪い

 そう、本当にはっきりと、わたしの目にはが映っていたのだ。

 無数の〝黒い手〟が、シャノンの背後の暗闇から這い出して、蠢き、その指先がゆっくりとシャノンに近づいていた。

「――」

 思わず悲鳴が出そうになった。

 でも、悲鳴は出なかった。出せなかった。口さえ開かなかったのだ。わたしはそれほど――目の前の光景に本能的な恐怖を覚えていた。

「――ッ!」

「え、うお――!?」

 反射的にシャノンを引っ張り、身体で庇った。

 もし〝黒い手〟がこいつに触れたら、こいつは恐らく

 母親ティナ父親ダリルと同じように。

「お、おい? どうしたんだよ? 何か虫でもいたのか?」

「……え?」

 シャノンが困惑したようにわたしを見ていた。

 わたしはシャノンの身を庇いながら、改めて後ろを振り返った。

 

「……」

 何も、ない。

 だが――わたしには確かに、その場に残る気配を感じ取っていた。

 何でもないただの足元の影が、底なしの暗闇のようにさえ見た。今すぐにでも、再びそこから〝黒い手〟が無数に這い出してきそうな寒気があった。

「……」

 呆然としていた。

 ……気のせい、だったのか?

 そう思った。

 けれど――すぐにいや、違うと思った。

 気のせいなんかじゃない。

 は――は、いま確かにそこにいたのだ。

 全身から冷や汗が吹き出した。

 ――まずい。

 まずいまずいまずいまずいまずい――

 だ。

 が来たのだ。

 来てしまったのだ。

 わたしは絶望的な気分でシャノンを振り返っていた。

「お、おい、どうしたんだよ?」

 もちろん、シャノンは何が何だか分からない、という顔をしている。

 その顔を見ながら、わたしはとんでもない後悔に襲われていた。

 ……しまった。

 わたしは再び、とんでもない間違いを再び犯してしまった。

 わたしは、こいつに――

「い、いや……何でもない。気にするな。てっきりネズミがいたような気がしたんだが……気のせいだったみたいだ」

 何とかそれだけ口にした。たぶん、声は少し震えていたと思う。

「なんだ、ネズミかよ。ネズミくらいで大袈裟だな」

 シャノンはそう言って笑ったが、わたしは愛想笑いを浮かべる余裕もなかった。

 ……ああ、まずい。

 このままこの場にいれば、またが現れるかもしれない。

 経験上、がわたしにしか見えていないことは分かっている。

 だったら、普通は幻覚の類いと思うだろう。

 だが、違うのだ。は幻覚でも何でもない。

 あの〝黒い手〟は――を〝死者の世界ニヴルヘイム〟に引きずり込むためのそのものなのだ。

「なぁ……オレさ、実はお前に一つ言っておかなきゃならないことがあるんだ」

「……え?」

 気が付くと、シャノンが先ほどのように真っ直ぐわたしを見ていた。

 それはまるで何かを決意したかのような表情だった。

「オレ、実は――」

 と、シャノンが口を開き、何かを言いかける。

 もちろん、わたしはこの時、こいつが何を言おうとしたのかなんて分からない。

 でも、その顔を見ればとても大事なことを言おうとしていることだけは分かった。

 だから――わたしは、とっさにと思った。

 これ以上、こいつをわたしに近づけさてはいけない。

 これ以上、こいつがわたしに近寄れば、今度こそ本当にに巻き込んでしまう。

 ダメだ。

 それはダメだ。

 それだけはダメだ。

 これ以上、わたしがこいつに心を開いてしまったら――こいつまで、母親ティナ父親ダリルのようになってしまう。

 あんな光景は、もう二度と見たくない――ッ!

「あ、あー! そうだ! 思い出した!」

 わたしはわざとらしく大声を出して手を叩いた。

 シャノンが面食らったような顔をした。

「な、なんだよ急に?」

「そ、そうそう、実はわたしも、お前に言っておかねばならんことがあったんだ」

「な、何だよ?」

「い、いやぁ、それがなぁ……実は今日な、ヨハンに結婚を前提に付き合って欲しいと言われてしまってな」

「……は? ヨハンに?」

 シャノンはぽかん、としてしまった。

 まぁいきなりそんなこと言われたら、そんな顔にもなるだろう。

 わたしはなるべく平静を装いながら続けた。

「うむ。いやぁ、あれには驚いたな……まさかいきなり告白してくるとはな……ははは、奥手なやつだと思っていたが、存外に攻めるやつだったのだな」

「……今日、ヨハンと会ってたのか?」

「ああ。実はそうなのだ。一緒に演劇を見て、食事に行っていた。まぁようするにデートってやつだな。さっきは少しお茶を濁したが、そもそもわたしがこんな格好しているのもヨハンとデートをしていたからだ。告白されたのは食事をしている時だったな」

「……それ、本気で言ってるのか? あのヨハンが?」

「本当だとも。何なら本人に聞いて見ろ。わたしは嘘は言っておらんぞ」

「……」

 シャノンはますます呆けた顔をしていた。

 よほど意外――というか、驚いた様子だ。

 ややあってから、ようやくシャノンは口を開いた。

「それで……お前は何て答えたんだ?」

「そんなの決まっているだろう。無論、承諾した」

「――」

 シャノンは黙ってしまった。

 ……この時、わたしはシャノンの顔を見ていなかった。なぜか目を向けることができなかった。

「本当に……承諾したのか?」

 シャノンがわたしに訊ねる。

 わたしは、相手の顔が見られないまま頷いた。

「ああ、そんなの当然であろう? だいたい考えてもみろ、相手は大貴族だぞ? こっちからすれば逆玉の輿というやつではないか。断る理由などあるか?」

「それはまぁ……」

「いやぁ、まさか貧乏貴族からいきなり大貴族となぁ。ははは、これもやはり日頃の行いというやつだろうな。これで貧乏生活ともおさらばだな。ああ、そうそう。それで、これからはヨハンの家に転がり込むことになった。アンジェリカの家から直接そっちへ行くつもりだ」

「……」

 シャノンから呆然としたような気配だけが伝わってくる。

 わたしは、相手の顔がやはり見られなかった。

「……あの家はどうすんだよ?」

 と、ようやくと言った感じでシャノンが口を開く。

 わたしは乾いた声で笑ってから答えた。

「ふん、あんなボロ家、すぐにでも処分するつもりだ。まったく、こんなことならわざわざ金払って修繕なんてするんじゃなかったな。あ、でもどうせこれからたんまり金が手に入るのだから気にする必要もないか。これからのことを思えば金だ。そうそう、それともう明日からすぐにでもヨハンの家に転がり込むつもりだから、これからはもうメシを作りに来なくても大丈夫だぞ」

 わたしはやや早口にまくし立てた。

 これがいつも通りのシャノンなら、きっとこう言い返していたはずだ。

『とうとうシッポを出しやがったな! そうやってヨハンを籠絡して有力貴族に問い言って、内側からこの国を攻めるつもりだろう!? そうはいかねえぞ!?』

 シャノンはそもそも、わたしの〝監視〟に来ていたのだ。

 何もただの善意で、わたしの経済状況と身体を心配して、せっせと料理を作りに来ていたわけではないのだ。

 そのはずなのだ。

 だから……こいつがわたしの言葉にショックを受ける必要なんて、ないはずだった。

 しかし、

「そ、そうだな……ヨハンの家に行くんだったら、もうその必要はないよな……」

 と、シャノンは小さな声で頷いた。

 いつもなら監視がどうこう言い出すのに、そのことについては何も言わなかった。

 ……この時、わたしはようやく、少しだけシャノンの顔を見ることができた。

 シャノンは、まるで急に見知らぬ街に放り出された迷子のような顔をしていた。

 その顔が――わたしにはもう、完全にヴァージルに見えた。

 ずきりとした。

 もう錆びて元の色さえ分からなくなっていた感情に、はっきりとした痛みが走った。

「それは何て言うか……よかったな」

 ……と、シャノンは笑った。

 迷子のような顔を隠して、わたしに向かって微笑んだ。

 いつも以上に下手くそな〝仮面〟だった。

「うむ、良きかな良きかな。わはは」

 わたしは笑った。

 笑うことでしか、気持ちを隠すことができなかった。

 それから、シャノンはわたしにこう言った。

ちゃんと――幸せになれよ」

 ――と。


 μβψ


 ……この後、わたしはすぐにこの場から立ち去った。

 最後にあいつとどういう受け答えをしたのか、自分でもよく覚えていない。

 少しでも早くこの場を離れなければ――いや、シャノンの近くから離れなければという思いでいっぱいだったからだ。

 それほどわたしは焦っていたのだ。

 ただ――シャノンのが、とても優しい口調だったことだけは、はっきりと覚えている。

 なぜ、あいつはわたしに優しいのだろう?

 わたしは〝魔王〟だ。

 あいつにとっては憎むべき〝敵〟のはずなのだ。

 これまでのあいつの行動には、一切の合理性がない。

 ……けれど、ただ一つだけ、思い当たる可能性はある。

 わたしの前世はあの場所で終わったが、あいつの人生はその後も続いたわけだ。

 どれほど続いたのかは分からないが……時間はあったはずだ。

 そう――

 これは以前から薄々思っていたことだ。

 あいつがわたしに優しくする理由なんて、たった一つしかあり得ないではないか。

 あいつが本物のヴァージルで、わたしを魔王メガロスと知っていて、それでも優しくする理由があるとすれば、それは――

 もし、それがわたしの予想通りであるのなら――わたしは、どれほど幸福だろう。

 そして、

 わたしはまた――あいつを、不幸にしてしまう。

 それはわたしにとって、本当に何よりも――とても、恐ろしいことだった。

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