70,激高

「な――」

 カールの顎が外れていた。

 彼はしばらく口をぱくぱくさせていたが、ようやく呼吸することを思い出したように大声を出した。

「ブリュンヒルデ!? ど、どういうことだ!? そんな話、わたしは聞いてはおらんぞ!?」

「ええ、それはそうでしょうね、お父様。だって言ってませんでしたから」

「だ、だいたい、シャノン殿下とはただの友人だと言っていたではないか!? あれは嘘だったのか!?」

「それについては申し訳ありません。ですが、まだ発表する段階ではないと殿下と話し合っていたので」

「お、おま、おまままま――」

 カールは焦りすぎて、もはや言葉を発するのも難しい状態になってしまった。

 一方、ブリュンヒルデは自分でも驚くほどに淡々と言葉を発していた。

 最初こそ声が震えていたものの、一度言葉が出てくれば、後は勝手にすらすらと嘘が出てきたのだ。

 だが、この状況で最も困惑していたのは、実は彼女自身だった。

(あ、あれ? わたし、いったい何を言ってるんだろう――?)

 気が付いたら、取り返しのつかない嘘が口からついて出ていた。

 シャノンと婚約しているなんて、もちろん嘘だ。

 世の中には冗談で済む嘘と、そうでない嘘がある。

 これは明らかに――冗談は済まされない嘘だ。

 そして、どう考えても言ってはいけない嘘だった。

 でも、彼女は言ってしまった。

 どうしようもない状況に追い詰められて、逃げられなくなって――とっさに言ってしまったのだ。

「――カール殿? これはどういうことだろう? 事前に聞いていた話と違うようだが?」

 その場に静かな声が響いた。

 ウォルターだ。

 彼の顔はさきほどと変わっていない。友好的な笑顔のままだ。

 だが……雰囲気はさっきとはまるで違っていた。

 ひっ、とカールは思わず悲鳴を上げそうになった。

 彼は慌てて、ウォルターの前に片膝を突いて頭を垂れた。

「ウォルター殿下、これは何かの間違いです! ブリュンヒルデは少し混乱しているのです!」

「ふむ……ブリュンヒルデよ。お前の父はこう申しているが、そうなのか? お前が言ったことは、何かの間違いなのか?」

 すっ――とウォルターの目が薄く開いた。

 そこにはいつも感じるあの嫌な気配すらなく、ただ虚無のような静けさがあった。

 ブリュンヒルデはその虚無のような気配に飲まれそうになったが、もう引き返すことはできないと思い、きっぱりと言い切った。

「いいえ、間違いではありません。申し訳ありませんが、ウォルター殿下。わたしはシャノン殿下との約束がありますので、この話を承ることはできません」

「……なるほど。そうか。よく分かった」

 ウォルターは淡々と頷き、上辺だけの笑みを再び貼り付けると、すぐ傍で傅くカールに目を向けた。

「ということのようだ、カール殿。今回の話はなかったことにしよう」

 表情とは裏腹に、突き放すような言い方だった。

 カールは顔を上げ、目を剥いて懇願した。

「そ、そんな!? 殿下、お待ちください!? 少々お時間を頂けませんか!? か、必ずわたしが娘を説得いたしますのでッ!! どうか、どうかお時間をッ!!」

「カール殿、最初に言っていただろう? わたしはブリュンヒルデが望まないのであれば、この話はなかったことにしようと。まぁ個人的にも非常に残念ではあるが、そういう事情であれば仕方あるまい」

「し、しかし――」

「客人がお帰りだ。送って差し上げろ」

 ウォルターが軽く手を叩くと、すぐにドアが開いた。

 先ほどの側仕えがやってきて、傅いていたカールを無理矢理立たせた。

「お、お待ちください! どうか話を、話を聞いてくださいウォルター殿下! これは何かの間違いなのです!」

「カール様、お帰りはこちらです」

 喚き散らすカールを、側仕えはほとんど問答無用で部屋から連れだした。

 カールが先に姿を消すと、ウォルターの顔から一切の笑みが消えた。

「……ブリュンヒルデ、これでいいんだな?」

「――」

 ゾッとした。

 ……それはこれまで、一度も見たことがない顔だった。

 いつもの冷徹な無表情でもなければ、相手を小馬鹿にしたような嫌な笑みでもない。

 怒り。

 そう、怒りだ。

 ウォルターは、はっきりと分かるほどの怒りを浮かべ、ブリュンヒルデを睨みつけていたのだった。

 普段、感情を見せようとしない男がこれほどまでにはっきりと表情を見せていることに、ブリュンヒルデは本能的な恐怖を感じた。

 しかし、それでも彼女はすでに引き返すことができない場所に足を踏み入れていた。

 彼女は立ち上がると、逃げるように部屋を後にした。

 去り際、背中越しにウォルターが何か言ったような気がしたが……振り返ることはできなかった。

(――ああ、どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう)

 本当に取り返しの付かないことをしてしまった。

 いったいこれからどうすればいいのか、それは彼女自身にも全く分からなかった。


 μβψ


 バタン、とドアが閉じた。

 ウォルターは部屋に一人残された。

 しばらくは音が消えたのかと思うほど静かだったが、やがてくぐもった音が響き始めた。

 それは、彼の笑い声だった。

「くくく……なるほどな。そうか、そういうことか。やはり手を回していたか、シャノン。はは、ははは――ははははッ!!」

 ウォルターは立ち上がって大声で笑った後、

「ふざけやがってぇええええええええええええええええええッ!!!!!!!!」

 喉が張り裂けるほど叫んで、思いきりテーブルを蹴飛ばした。

 テーブルがひっくり返る。

 だが、それだけでは収まらない。

 彼は次から次へと、手当たり次第に部屋にあるものを破壊した。

「お前は――お前はいつもそうだッ!! 何の努力もしていないクセにッ!! 何の責任も負っていないクセにッ!! 俺が、俺が望むものを全て当たり前のように手に入れるッ!! なぜだ、なぜお前ばかりがッ!!」

 それはこれまで心の奥底にため込んでいたものが、まるで全て吹き出したかのようだった。

 ウォルターは昔からシャノンのことが大嫌いだった。

 同じ王子という立場なのに、向こうはいつも楽しそうに遊び回っていた。

 なぜあいつは無責任なのが許されるのに、自分は許されないのか。

 自分が欲しいと思うものは、シャノンには当たり前のように与えられて、自分にはまったく与えられなかった。

 そして――本当に手に入れたいと思っていたものさえ、自分のものにはならなかった。

 汗だくになり、髪を振り乱して息を切らせるウォルターは、まるでいつもとは別人のようだった。

 そこにはもう、冷静沈着に陰謀を巡らせる蛇のような男はいなかった。

「シャノン、お前だけは絶対に許さん……お前だけは――ッ!!」

 ウォルターはありったけの怨嗟を吐き出した。

 そのギラギラした目は、半ば狂気のような光を宿していた。

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