69,嘘
「ブリュンヒルデ、くれぐれもウォルター殿下に無礼なことを言うんじゃないぞ」
「……」
馬車の中には二人しか乗っていなかった。
いつも彼女の傍にいるテオも、今日はいない。
家を出てから一言も喋ろうとしない娘に対して、カールは大きく溜め息を吐いた。
「まったく……お前は何が不満なんだ。ウォルター殿下と婚姻を結べば、お前はこれから王族なんだぞ? それがどれだけ恵まれたことか分かっているのか?」
「……わたしは別に、王族になりたいと思ったことなんて一度もないですから」
と、ようやくブリュンヒルデは言葉を発した。
カールは怒るよりも、むしろ言って聞かせるような顔になった。
「まぁ最初は境遇の変化に戸惑うこともあるかもしれん。だが、この婚姻は必ずお前の幸せに繋がるんだ。だからわたしもこの話を受け入れたんだぞ」
「……どうしてわたしに黙って勝手に話を進めたのですか? 一言くらい相談してくれても良かったじゃないですか」
ブリュンヒルデはカールを睨みつけた。
カールはあくまでも優しくこう言った。
「事前に話をすれば、間違いなくお父上が口を挟んできたはずだ。お前だってお父上に相談しただろう?」
「当たり前じゃないですか。お爺様はわたしの望む婚姻は絶対にしないって言ってくれてたんですもの。昔から、わたしのことを本当に考えてくれているのはお爺様だけでしたから」
「そんなことはない。わたしだってお前のことをちゃんと考えているよ。だがな、お父上はお前を案じるあまり、少し過保護になりすぎなんだ。それでは結局、お前のためにはならないんだよ」
「娘が望んでない結婚をさせようとしてるくせに、わたしのこと考えてるですって? 冗談はよしてください。お父様は家のことしか考えてないでしょう?」
「もちろん家のことも考えている。だが、それ以上にお前のことも考えている。分かってくれ、ブリュンヒルデ。これが全てにおいて最良の選択なんだ」
「最良? いったい何が――」
ブリュンヒルデは思わず声を荒げそうになったが……父親の自分を案ずるような顔を見て、怒気がしぼんでしまった。
それは親心の一端を垣間見たから、というわけではない。
単純に、この人には何を言っても無駄だ――と思ったからだ。
ようするに、カールはどっちも本気で言っているのだ。
これは家のためにもなるし、ブリュンヒルデのためにもなることだと、彼自身が自分の言っていることを心から信じているのである。それが理解できたから、ブリュンヒルデも言葉を引っ込めたのだった。
(……いまさら、お父様に何をどうこう言っても無駄だわ。ようするに、これはお父様もうまいこと利用されているだけってことなんだから)
そう、カールはうまいように利用されているに過ぎないのだ。
誰に利用されているのか。
そんなのは言うまでもない。
(……この話がまとまったら、お父様は本当の意味でディンドルフ家の当主になれるでしょうね。これまではお爺様の意向には逆らえなかったけど……それが変わる。それはようするにディンドルフ家が中立派から王権派になるということ――)
この婚姻を画策した相手の真意はブリュンヒルデには分かっていた。
ヨハンの警告が実際に形になって現れたということだ。
「着いたぞ」
馬車は王城に到着した。
これまで何度も足を運んだ場所だが、これほど足が重いのは初めてだった。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
入り口では見覚えのあるウォルターの側仕えが二人を待っていた。
側仕えに続いて、王城へと足を踏み入れる。
王城内の通路は勝手知ったるブリュンヒルデだが、今日はあまり通ることのない通路を通った。
行き先は――ウォルターの部屋だ。
やがて一つの部屋に到着すると、側仕えがドアをノックした。
「ウォルター様、お客様をお連れしました」
「入れ」
中からウォルターの声がした。
側仕えが扉を開いて、ブリュンヒルデたちは室内へと入る。
中に入ったのはカールとブリュンヒルデだけだった。側仕えは慇懃に頭を下げつつ、自らは中に入ることなくドアを閉めた。
「よく来られた、カール殿」
ソファに座っていたウォルターが、二人を出迎えるように立ち上がった。
まずはカールに近づく。その顔にはとても友好的な笑みが浮かんでいた。これまでブリュンヒルデが見たことのない顔だ。
「これはウォルター殿下。この度は大変栄誉あるお話を頂き、とても感謝してございます」
カールは恭しく頭を垂れた。
ウォルターは微笑みながら言った。
「まぁとりあえず話は座ってからしようではないか。そちらへ座るといい。ブリュンヒルデも――な」
一瞬、ウォルターの目が薄く開いた。
だが、それは本当に一瞬だった。
「はっ、失礼いたします。ほら、ブリュンヒルデもご挨拶するのだ」
「……失礼します」
ブリュンヒルデは少しだけ頭を下げて、カールと並んでソファに腰掛けた。
「いやはや、しかしながら、まさか殿下の方からこのようなお話を頂けるとは思ってもおりませんでした」
ウォルターが座るなり、カールは上機嫌に話しかけた。
「これまで我がディンドルフ家は、何と言いますか……陛下や殿下に対して少し距離を取っておりましたし、てっきり遠ざけられていくものかと思っておりましたが……」
「ははは、まぁ確かにそうだ。父上も、正直なところあまりディンドルフ家に良い印象はなかったようだからな」
「は、はは……まぁそうでしょうな……」
カールはハンカチで額の汗を拭いた。
一方、ウォルターは涼しげに続ける。
「だが、それはあくまでも先代当主であるガルフ殿のご意向だったとわたしは理解している。しかし、現在の当主はカール殿……あなただ。あなたがガルフ殿と違う考えをお持ちであったことをわたしはよく知っているからな」
「お、おお、そうでありましたか」
「ああ。ディンドルフ家はこの国にとって必要不可欠な存在だ。遠ざけるのは簡単だが、それで一度でもそちらの信用を失ってしまったら、それを取り返すのは非常に困難だ……故に、わたしは王家の信用を自ら示すため、ディンドルフ家との婚姻を申し出させてもらったというわけだ」
「なんと、殿下自らそこまでディンドルフ家のことを……」
カールは感銘を受けたような顔になり、それから頭を垂れた。
「ありがとうございます、殿下。本来であれば、こちらがこれまでの無礼を詫びなければならない立場だというのに……このカール・ディンドルフ。これからは陛下や殿下のために、粉骨砕身の働きをご覧に入れて見せましょう」
「うむ、期待しているぞ――それで」
つとウォルターがブリュンヒルデへと視線を向けた。
いつもと違って表面こそ取り繕っているが……ブリュンヒルデはやはり感じた。
ウォルターがまとう、あの蛇のような気配を。
「一つ確認したいのだが……この話、そもそもブリュンヒルデは承諾しているのだろうか?」
「……」
「これは現時点ではあくまでも〝提案〟に過ぎない。無論、本人が望まないというのであれば断ってもらっても構わないのだが……」
「そ、そそそそそんな滅相もない!? 本人もこの婚姻にはとても喜んでおりますともッ!」
「そうだろうか? あまりそのようには見えないのだがな?」
「ほ、ほら、ブリュンヒルデ! ウォルター殿下にお前の気持ちをお伝えしてさしあげるのだ!」
カールは焦ったようにブリュンヒルデを急かした。
一方、ウォルターは明らかに彼女のことを試しているような様子だった。
……ここでこの話を断れば、その先どうなるかは考えなくても分かる。
(……もしここでわたしが話を断ったら、ウォルターは間違いなくうちの家を潰す。こいつはわたしが断れないのを知っていて、それでもあえて聞いてきてるんだわ……あー、やっぱりむかつくわね、こいつ)
仮にディンドルフ家が有力な大貴族とはいえ、敵になるなら潰すだけのこと。ウォルターはそういう男だ。使えるものは使うが、邪魔になるのなら排除する――それがこの男のやり方だ。
(……何で? 何でいきなりこんなことになってるの? どうしてわたしが、こんな目に遭わないといけないの――)
ブリュンヒルデは何だか、無性に悔しさがこみ上げてきていた。
同時に、これまで自分はいったい何をやっていたのだろうか、とも思っていた。
随分とつまらないことに時間を使っていた。
そのことをようやく自覚した。
だから、それじゃあダメだと思った。
思いを告げなければ、と思った。
とにかく、まずは思いを告げなければならない。
仮にそれが届かなかったとしても……自分はちゃんと告げなければならない。そう、告げなければならなかったのだ。
そのことにようやく気が付いた。
なのに――気付いた途端、どうしてこんなことになっているのだろう?
まだ、自分は告げるべき思いを、告げようと思っていた相手に届けてすらいない。
そうすることのチャンスさえ、今まさに目の前で潰えようとしている。
『ブリュンヒルデ様。だったら、こう考えてください。もし、明日からいきなり、もうずっとシャノン殿下に会えなくなってしまうかもしれない――と』
あの言葉を言われたときのゾッとするような寒気が、ブリュンヒルデに襲いかかっていた。
ウォルターは別に自分と結婚したいからこの話を進めているのではない。ディンドルフ家という障害物を取り除くため、ともすれば自分の派閥に引き込んで利用するために、この婚姻を政略結婚として利用しようとしているだけだ。
理由はどうあれ、婚姻を結べば自分はウォルターの
だが、それ以上に彼女が怖れているのは――もしかしたら本当に、これから一生、シャノンに会えなくなるかもしれないということだった。
ウォルターはシャノンのことを心から嫌っている。目の敵にしている。
なら、そのウォルターの妃になったら――本当にシャノンに会えなくなるのではないだろうか?
少なくとも、これまでのように気軽に会うことは不可能だろう。ウォルターがそれを許すはずがない。
……そんなの、絶対にイヤだ。
イヤだ。
イヤだ。
イヤだ。
イヤだ――ッ!!
「わ、わたしは……」
ブリュンヒルデは何とか口を開いた。自分が思っていた以上に震えた声が出た。
恐怖に追い詰められていた彼女は――気が付くとこう言っていた。
「わたしは、シャノン殿下とすでに婚約しています。ですから――この話は受けられません」
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