63,婚約者
(……はあ、結局あいつ帰って来なかったわね)
さすがにブリュンヒルデも帰らねばならない時間になってしまった。
勝手に入り込んでいたシャノンの部屋の中で、彼女はそっと息を吐く。
今日は三冊も本を読んでしまった。
最初はそわそわして落ち着かなかったブリュンヒルデだったが、今はそれもなかった。
むしろ、会えなくてほっとしている面もあった。
だが、彼女はすぐにそんな自分を叱咤した。
(って、なに安心してるのよわたしは。覚悟決めたんでしょ。あいつにちゃんと気持ち伝えるんだって)
気持ちを奮い立たせる。もう少し待ってみようかと思うが……でも、やはりこれ以上は無理だ。
複雑な気持ちを抱えたまま、ブリュンヒルデは部屋を辞して、待たせている馬車へと戻った。
この時、シャノンはすでに王城には戻っていたが、自室には戻っていなかった。彼はいま、渡り廊下でぼんやりと景色を眺めているところである。
後もう少し……それこそ十分でも待っていれば、シャノンは自室に戻っただろう。
だが……ブリュンヒルデは諦めて帰ってしまったのだった。
馬車に戻ると、すでにテオが待機していた。
テオにエスコートされて馬車に乗り込む。
馬車はすぐに動き出した。
「はあ……」
「どうしたんですか、溜め息なんてついて?」
「別に何でもないわ」
「そうですか? いざ意気込んで来たはいいけど結局シャノン様には会えなかった……みたいな顔してますけど?」
「……分かってるならいちいち聞かないでくれる?」
「おや? 今日はシャノン様に会いに来たことは否定しないんですね?」
テオは珍しいという顔をした。
ブリュンヒルデは肩を竦めた。
「どうせ否定しても無駄なんでしょ? じゃあ無駄なことはしないわよ」
「……あれ? なんか本当にいつもと違いますね?」
テオは訝しげな顔になった。
「それに何やら今日は最初からいつもと違う様子でしたし……もしかしてとうとうシャノン様に思いを伝える決意をなされたのかと思っていましたが……なんて、それは考えすぎですかね。ははは」
「そうね。言うつもりだったわ。でも、会えなかったわ」
「そうなんですか、それは残念で――え?」
テオは一瞬固まった。いつものノリを期待して冗談を言ったつもりだったが、ブリュンヒルデから予想外の答えが返ってきたからだ。
「……え? 本当にそのつもりだったんですか?」
「そうだけど?」
「……」
テオは非常に困惑した。ブリュンヒルデはどうも冗談を言っている様子ではない――というのが中々信じられなかったのだ。
それでも彼は半信半疑だった。
「……ええと、どうして急に? つい先日まで、自分から言うのは無理だと仰っていたのに」
「気が変わったのよ」
「何かあったんですか?」
「別に、何もないわ」
と、ブリュンヒルデは車窓の景色を眺めながら言った。
何も無いわけがなかった。
彼女は明らかにいつもと違う。
あまりに急な主の心変わりに、テオは困惑するしかなかった。
だが……ある意味では、もっとも困惑しているのはブリュンヒルデ自身だった。
自分でもどうしてこんなに言わねばならないと感じるのか、よく分からなかったからだ。
でも、あの女――エリカ・エインワーズの言葉を思い出すと、どうしてかそういう気持ちが強くなって、抑えられなくなったのだ。
『ブリュンヒルデ様。だったら、こう考えてください。もし、明日からいきなり、もうずっとシャノン殿下に会えなくなってしまうかもしれない――と』
そんなことは考えたこともなかった。
これまで続いてきた毎日は、ただ漠然と、これからも続いていくものだと無意識に思い込んでいた。
だが……もし、ある日突然そうではない日が来るかも知れないと思うと、急に怖くなったのだ。
(あの女――いったい何なのかしら。わたしより年下のはずなのに、なぜか不思議と、まったくそう見えなかった。成人前の小娘なのに、どうしてあんな――)
エリカ・エインワーズの顔がどうしても脳裏から離れなかった。
今は不思議と、あの女に対する敵対心もなかった。というより、これまでずっと他人に向けて誤魔化していた自分の気持ちを、ようやく自分自身に向けられているような気がしていた。そんなことをしている場合ではなかった、と思ったのだ。いまはあらゆる気持ちより、そういう気持ちの方がずっと強かった。
やがて、馬車がディンドルフ邸へと到着する。
いつものようにテオを伴って玄関をくぐる。
いつもならば、ここですぐにメイドが出迎えるはずなのだが……今日は違った。
「戻ったか、ブリュンヒルデ!」
慌てたような声がした。
まさかメイドではなくカールが出迎えに出てくるとは思っていなかったので、ブリュンヒルデは思わずテオと顔を見合わせてしまっていた。
「珍しいですね、旦那様がお出迎えなんて。何か急ぎの御用件でしょうか?」
「……何だか嫌な予感がするわね」
「え?」
二人が話しているところへ、カールは慌てたように駆け寄ってきた。
彼はわずかに息を整えてから、
「喜べ、ブリュンヒルデ! お前の婚約が決まったぞ!」
と、いきなりそんなことを言い出した。
息も弾んでいるが、声も弾んでいる。そう、カールは明らかに嬉しそうな様子だった。
だが、ブリュンヒルデはまったくそうではなかった。
最初は何かの聞き間違いかと思った。
「……いったい何の話ですか?」
「婚約だ、婚約! お前の婚約相手が決まったんだ!」
やはり聞き間違いではなかった。
ブリュンヒルデは思わず大きな声を出してしまった。
「決まったって……わたしはそんな話、まったく聞いていませんよ!?」
「それはそうだ。事前にお前に言ったところで、また断ってしまうかもしれないからな」
「な――」
カールは悪びれる様子もなくそう言った。
ブリュンヒルデは一瞬、言葉を失ったが……すぐに口を開いた。
「話が違います、お父様! お爺様はわたしが望まない結婚はさせないと仰ってくれていたはずです! こんなこと、お爺様が許すわけ――」
「いまのこの家の当主はわたしだ!」
ぴしゃり、とカールは言い切った。
ブリュンヒルデは思わず口を噤んだ。
いつもは気が小さく、先代当主である
彼は続けた。
「いつまでもわたしがお父上の言いなりになっていては、この家もそう長くは保たん。お父上は今のこの国の情勢がまったく分かっておらんのだ。そもそも隠居しているくせに、今まで家の方針に口を出しすぎだったのだ。いまのこの家の当主はわたしだ。だから、わたしが決めるのだ。お前のこの婚約はもう決まったことだ」
「そ、そんな……」
ブリュンヒルデは呆然とした。
だが、カールはただ娘が突然のことに困惑しているだけと思ったのか、優しい声音になって続けた。
「そう案ずるな、ブリュンヒルデ。わたしはお前には幸せになって欲しいのだ。この話は、我がディンドルフ家にとっても、そしてお前にとっても、とても良い話なんだ。最良と言っても良い。これで我が家の立場は安泰だ。それはお前自身のためでもあるのだぞ」
と、カールはあくまでも優しい笑みを浮かべながら言った。
それは彼自身が、自分自身の言葉を心から信じ切っているのが分かる顔だった。
彼は本当にこれが〝最良〟だと信じているのだ。
この家にとっても、そして――ブリュンヒルデにとっても。
『ブリュンヒルデ、近いうちに良い報せが届くだろう。その時を楽しみに待っておけ』
不意にウォルターの言葉が脳裏を
ブリュンヒルデは恐る恐る訊ねた。
「……その、婚約相手というのは?」
カールは嬉々として答えた。
「第1王子のウォルター殿下だ」
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