61,もう来なくてもいい

「……あれ?」

 気が付くと、手が真っ赤に染まっていた。

 血だ。

 ぼたぼた――と、大量の血で自分の手が濡れている。

「僕は――何をしてたんだっけ?」

 思い出せない。

 ここはどこだろう。

 周囲は薄暗くてよく見えない。

 さっきまで森の中を駆け回っていたはずだ。

 でも、いつの間にか姿

 彼は急に怖くなり、走りだそうとした。

 その途端、何かに躓いて派手に転んでしまった。

 水たまりに頭から突っ込んでしまった。

「――え?」

 だが、すぐに気付いた。

 それは水たまりではなかった。

 血だまりだった。

「ひ、ひぃ!?」

 慌てて血だまりから這い出そうと藻掻いた。

 ……すると、手が何かに触れた。

 人の手だった。

 彼は恐る恐る――その先を視線で辿っていく。

 薄暗い視界の先に、血まみれになって倒れているの姿があった。

 喉には剣が突き刺さっていた。

 もちろん、死んでいる。

 すでに目に光は亡く、どこも見ていない。

 眼球の表面に反射した景色に、自分自身の姿が映り込んでいた。

 そこには〝勇者〟と呼ばれた男の姿が映っていた。

 それを見た途端――彼は


 μβψ


「うわぁ!?」

 跳ね起きた。

 シーツがベッドから落ちる。

 全身、汗でびっしょりだった。

 いまの光景が夢だと理解したシャノンは、大きく息をついた。

「――くそ、あの夢か」

 思わず悪態を吐いていた。

 自分の両手をじっと眺める。そこにはまだ感触が残っているような気がした。

 シャノンはすぐに洗面台へ向かった。

 第二王子である彼の部屋はとても広く、洗面台や浴室も全て備え付けてあるのだ。

 洗面台でひたすら手を洗い続けた。

 もちろん、手に血などついていない。

 それでも、彼はひたすら手を洗い続けた。

 しばらくして、シャノンはようやく落ち着いた。

 少しの間疲れ切ったようにベッドに腰掛けていたが、室内の振り子時計の鐘が鳴った音でようやく我に返ったように腰を上げた。

「……ああ、そうだ。のところに行かねえと」

 着替えを始める。

 だが、着替え終わってからふと彼は思い出していた。

「……あ、そうか。しばらく行かなくてもいいんだっけ」

 シャノンはふと先日のやりとりを思い返していた。


 μβψ


「明日から、もうここに来なくてもいいぞ」

「……え?」

 いきなり言われた言葉に、シャノンはつい驚いて振り返っていた。

 エリカは慌てたようにこう続けた。

「あ、いや……それがな、しばらくアンジェリカの家に厄介になることになったんだ。だから、わたしもしばらくこの家を離れるんだ」

「そ、そうなのか?」

 そう説明された途端、なぜかシャノンはほっと息をついていた。来なくていいと言われた瞬間、なぜか心臓がドキリとして息が止まるほどの動揺を覚えたが、それがゆるやかに消えていくのを感じた。

 エリカはやれやれという感じでさらにこう続けた。

「うむ。まぁ見ての通りボロい家だからな。最近ちょっと雨漏りもひどくて、さすがに修繕せねばならないと思ってな。その間、アンジェリカの家で寝泊まりすることになったのだ」

「な、なんだ、そういうことかよ……びっくりさせんじゃねえよ」

「びっくり?」

「あ、いや、別になんでもねえ」

 彼は慌てて誤魔化した。

「で、いつまであいつの家にいるんだ?」

「そうだな……たぶん一ヶ月くらいだな」

「え? そんなにか?」

「ああ。なんせボロい家だからな。修繕にも時間がかかるようでな」

「そうか……まぁ、でもそんならしゃーねえな……」

 シャノンは気付いていなかったが、その声はやや気落ちしていた。

 すると、それを指摘するようにエリカは嫌味な笑みを浮かべて見せた。

「……おやぁ? どうしたシャノン? なんだか残念そうだな? もしかしてわたしに会えなくなるのが残念なのか?」

「は、はあ!? んなわけねえだろ!?」

 シャノンは思わず大声を出してしまっていた。

「てめぇがオレの見てないところで怪しいことおっぱじめないか心配してただけだっつの! そもそもオレはお前の〝監視〟に来てんだからな!」

「そうかそうか……そんなにわたしに会えないのが寂しいか……可愛い奴め……」

「ちげぇっつってんだろ!? 話聞け!?」

「ははは、冗談だ。そんなに怒るな。ま、そういうわけだからしばらくは来んでもいいぞ」

 そう言って、エリカは笑った。

 その顔は特に変わったところはなく、いつも通りに見えた。

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