第8章

45,昔の思い出

 ……懐かしい夢を見た。

 それはまだ、わたしが〝ミオソティス〟で、周りからは『姫様』と呼ばれていた頃の夢だ。

 あの頃のわたしは、とにかく我が侭なクソガキだった。

「姫様! まだお勉強のお時間は終わっておりませんぞ!」

「げ!? マルコシアス!?」

 こっそり魔王城を抜け出そうとしているところを、教育係のマルコシアスに見つかってしまった。

「くそ、マルバスのやつめ!? 下手を打ったな!?」

「姫様! マルバスを変身させて身代わりにするのはやめるようにと何度言えば分かるのですか!?」

「ひー!」

 マルコシアスは古くから父上に仕える側近の一人で、父上の右腕であると共に穏健派の筆頭でもある重鎮だった。

 マルコシアスは妖狼族リュコスなので、二本足で歩く狼のような見た目だった。身体も大きくて、体毛も生えている。わたしは人間に近い見た目だが、こいつは狼に姿が近い。妖狼族は大きな狼に変身することもできるという特徴もあった。

 普段はとても穏やかな性格で、わたしも子供の頃からマルコシアスにとてもよく面倒を見てもらっていたが、厳しく叱るところは叱るやつだった。

 厳めしい顔をしたマルコシアスが、まるで壁のようにわたしの前に立ちはだかる。元々マルコシアスは図体のでかいやつだったが、子供の頃のわたしから見れば本当に歩く壁のようなやつだった。

 年齢は二百歳を越えているので、さすがに長命の魔族とは言っても〝年寄り〟だ。口元の体毛が長いのでそれが蓄えた仙人のヒゲのようにも見える。

「姫様、もうこれでいったい何度目ですかな。その日の決められたノルマはちゃんと全てこなして頂かないと困りますぞ」

「う~! あんなにいっぱいノルマなんてこなせるか! そんなことしてたら日が暮れてしまうではないか! 日が暮れてしまっては遊べなくなるぞ!」

 日が暮れてしまってはヴァージルと遊べなくなってしまう。だからわたしは必死だった。もちろん人間の子供と遊ぶとは言っていなかったが。

 しかし、マルコシアスはもちろん頑として譲らない。

「姫様、あなた様はいずれ魔王の座を受け継ぐお方です。その時になって困るのはあなた様自身なのですぞ?」

「そんなのまだまだ先のことだろう。今からこんなに詰め込んだって無駄だ、無駄」

「いいえ、そんなことはございません。この先、何が起こるかなど誰にも分かりません。もし父君の身に何かあれば、姫様はすぐにでも魔王の座を継がなければならなくなります。魔王になれるのはあなた様だけです。年齢など誰も考慮はしてくれません」

「はっ、父上は最強の魔族なのだぞ? そんな父上にのことなんてあるものか。わたしが魔王の座を継ぐのなんて、どうせ50年後とか、下手したら100年後とか、それくらいだろう」

 と、まだ小さかったわたしは高を括っていた。

 まさかこれから1年後には自分が魔王になっているなど、この時はもちろん想像すらしていないし、もちろん戦争が始まるなど思ってすらいなかった。この頃のわたしは、色んな意味で本当に子供だったのだ。

 普通なら、こんな生意気な子供がいたら大人は怒鳴るだろう。いいからさっさと言われたことをやれ、と。

 だが、マルコシアスはそうじゃなかった。

 彼は大きな身体を丸めてしゃがむと、小さかったわたしに視線を合わせた。

「……姫様。誰も姫様に遊ぶなと言っているわけではないのです。大いに遊んでください。遊ぶのもまた学びのうちです。ですが……いま姫様がお勉強なされていることは、全て姫様の今後に必要な知識なのです。今は使いどころが分からなくて退屈かもしれませんが、それが将来、姫様自身を助けることになるのです」

 我が侭な子供相手に、マルコシアスは真摯に言った。

 頭ごなしにあれこれ命令されると反射的に反発していたわたしだったが、こいつにこんなふうに言われると、何だかうまく反論できなかった。

「そ、それはそうだが……しかし……」

 それでもわたしが渋っていると、

「では、こうしましょう。今日のノルマは少し減らします。きっちりやれば、お昼過ぎには全て終わるでしょう。そうしたら、遊びに行ってくださってもかまいません」

 と、マルコシアスはそう続けた。

 わたしは途端に目を輝かせた。

「本当か!?」

「ええ。なので昼過ぎまではちゃんとお勉強いたしましょう」

「さすがマルコシアスだ! 話が分かる!」

 嬉しさがいっぱいになって、わたしはマルコシアスに抱きついた。

「ほほほ、姫様。嬉しいのは分かりますが、ヒゲを引っ張るのはやめてくだされ――って、いたたたた!! いや姫様! 本当に痛い! 痛いですぞ!?」

 マルコシアスは本当に優しくて、わたしはあいつのことが大好きだった。

 ……しかし、あいつは父上が人間に殺された後、まるで別人のようになってしまった。

 穏健派の筆頭だったマルコシアスは、誰よりも人間を憎むようになり、誰よりも多く戦場に立ち、誰よりも多くの人間を殺した。

 魔王軍幹部〝殺戮のマルコシアス〟と言えば、人間たちに知らぬ者はいなかっただろう。

 子供の時代のわたしを取り巻いていた全ての優しさは――あの戦争の始まりと共に、全て消え去ってしまったのだ。

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