42,ブリュンヒルデ・ディンドルフ

 シャノンはようやく自室までやって来た。

 彼はロクに着替えもせず、ベッドの上に身を投げた。

「あー……疲れた」

「お疲れ様」

「……ん?」

 するはずのない声がした。

 シャノンが怪訝な顔して身体を起こすと、なぜかソファに当たり前のような顔で座っている女の姿があった。

 さすがのシャノンも驚いて、ベッドから飛び上がった。疲れていたせいもあってか、まったく警戒していなかった。

「うお!? ブリュンヒルデ!? 何でここにいる!?」

「そりゃアンタの帰りを待ってたのよ。時間がありすぎて本を二冊も読んでしまったわ。そしてこれは三冊目」

 ぱたり、とブリュンヒルデは分厚い本を閉じた。見たところ、それは歴史の本だった。

 彼女はブリュンヒルデ・ディンドルフだ。以前、式典でエリカと揉めた相手である。

 赤く輝く長い髪に、同じように赤い眼をした、見るからに気の強そうな女だった。年齢はシャノンと同じで二十歳だが、実年齢よりは少し下に見える。身長は平均よりは少し低い。

 彼女は大貴族、ディンドルフ家の長女だった。現在のディンドルフ家の当主であり、ブリュンヒルデの父親――カール・ディンドルフは国務尚書こくむしょうしょを務めている。ようはこの国の文官たちのトップのような立場だ。ようするに彼女はとても家格の高い家の〝ご令嬢〟なのである。

 特に先代当主にして先代国務尚書を務めていた祖父のガルフ・ディンドルフという傑物の影響力はいまもなお大きく、隠居してなおディンドルフ家の威光はガルフによって支えられているといっても過言ではない。そして、孫のブリュンヒルデはガルフにとんでもなく溺愛されているので、それもあって彼女に逆らえる人間はほぼ存在しないのだ。

 結果、ブリュンヒルデは非常に我が侭に育った――というわけだった。

 そんな彼女と対等に話せる相手は非常に限られているが、シャノンはその内の一人だった。

 シャノンは呆れた顔をした。

「おいおい……結婚前の淑女が勝手に男の部屋に入ってくんじゃねえよ。貞操を疑われるだろうが、お互いに」

「あら? そんなの今さらじゃない? 昔からこの部屋にはよく出入りしていたのだし」

 と、ブリュンヒルデは涼しい顔で答えた。

 シャノンはつい溜め息が出た。

「そりゃガキの頃の話だろ。お互い成人したのに、昔の感覚のままでいられるかよ。少なくとも周りはそうは見ねえぞ」

「わたし、常々思うんだけどね、成人年齢なんて二十歳くらいでいいと思わないかしら? 正直、十五歳で大人になったなんて言われても、まったく実感湧かないのよね。ぶっちゃけ今も実感なんてないし……あ、じゃあ二十歳が成人でもダメね。いま二十歳だし」

「何だ? そんな話するためにわざわざ待ってたのか?」

「そんな訳ないでしょ。わたしはアンタにありがたい忠告を持ってきてやったのよ」

「忠告?」

「アンタ……また妙な女に入れ込んでるでしょ?」

 スッ――とブリュンヒルデの目が鋭くなった。

 シャノンは少しドキリとしたが、顔には出さなかった。

「……女? 何のことだ?」

「とぼけてもダメよ。あんたの噂なんて、わざわざ調べなくても、勝手に風にのってこっちまで届いてくるんだからね。今度の相手はエリカ・エインワーズって女よね?」

「……」

 シャノンは溜め息を吐いて、頭を掻いた。まぁとぼけても無駄だろうな、と観念したような顔だった。

「……で、それがどうかしたかよ?」

「どうかしたか、じゃないわよ。あんな失礼な女はやめておきなさい。礼儀も知らない小貴族なんて相手にしてたら、あんたの品性まで疑われるわよ?」

「そう言えば、式典の時、お前と揉めてたんだっけか……ありゃ結局何が原因だったんだ?」

「あの女がわたしに無礼を働いたのよ。ただそれだけだわ」

「そんなこと言って、どうせお前が一方的にイチャモンつけて絡んだだけじゃないのか? 特に理由も無く」

「そ、そんなことないわよ」

 ブリュンヒルデはぎくりとした顔をして、すぐに話を誤魔化した。

「だ、だいたいねえ、あんただってもういい加減、いい歳でしょう? 今までは若気の至りで済んでたような話でも、そろそろそれじゃ済まなくなってくるわ。ここいらでその女癖の悪さを治しておかないと、近いうちに困ったことになるわよ?」

「困ったことってなんだよ?」

「え? そ、そりゃあ……婚約者を決める時とか……」

「なんでそこでお前が照れるんだ?」

「う、うっさいわね! デリケートな話だからよ! あんたって女のケツを年中追っかけてるわりに、女心ってもんがまるで分かってないわね! そういうところはガキの頃から変わってないのね、ほんと!」

「大貴族の令嬢が〝ケツ〟とか〝ガキ〟とか言うな。そんなに口が汚いと、オレよりもお前の婚約者が決まらなくなるぞ」

「ふん、余計なお世話よ。あんたなんかに心配されなくても、わたしはディンドルフ家の長女よ? 見合いの話なんて掃いて捨てるほど来てるっての」

「そうなのか? そのわりには、お前が見合いをしたって話は全然聞かない気がするが……」

「そりゃ当然よ。だってわたしに釣り合うほどの男が現れないんだもの。見合いの話はたくさん来てるけど、わたしが見合いをするに相応しい男からの話は来てないの。それだけだわ」

 ふぁさ~、とブリュンヒルデは自分の髪を掻き上げた。彼女のつややかで美しい髪が、部屋を照らす魔力灯の明かりを受けてきらきらと輝く。その動作一つだけで、随分と念入りに手入れされている髪であると分かる。むしろそれを見せつけるかのような仕草でもあった。

「まぁ~、そうねぇ。わたしと釣り合う男って言ったら、そりゃディンドルフ家よりも箔のある家じゃないとダメよね? でもディンドルフ家よりも箔のある家なんて、この国には本当に数えるほどしかないしねぇ……まぁマギル家か、もしくは――」

 ちら、とブリュンヒルデはシャノンをさりげなく見やった。

「それこそ王族ぐらいのレベルじゃないとねぇ、なーんて……」

「ふぁっくしょんッ!!!!」

 シャノンは思いきりくしゃみをした。

「あー、やべ。風邪でも引いたかな……え? いま何か言ったか?」

「うらぁ!!」

 ブリュンヒルデは手元にあった本をぶん投げた。

 うお!? とシャノンは慌てて避けた。

「いきなり何すんだてめぇ!? そんな鈍器みたいな本投げんじゃねえよ!? 当たったら死ぬぞ!?」

「そういうところよ! あんたのそういうところ! ほんとガキの頃から気に食わないのよ!」

「何だよ!? なんでいきなり怒ってんだよ!?」

「あーもうムカツクわね! わたし帰るから!」

 ブリュンヒルデは急に怒って立ち上がると、およそ大貴族の令嬢とは思えない大股な足取りで部屋から出て行った。

 バン!! とドアが乱暴に閉じられる。

「……いや、だから、お前は何しに来たんだよ?」

 後に残されたシャノンは、ただ首を捻ることしかできなかった。

 ……非常に我が侭に育ったブリュンヒルデは、自分から相手に気持ちを伝えるのがものすごく下手だった。

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