第43話 亡者の神 ―モルディギアン―


「神よ! 偉大なる亡者の神『モルディギアン』よ! 我が呼びかけに応えたまえ!」


 モルディギアン? 聞いたことない名の神だな。崇拝者が少ないマイナーな神なのか?

 すると私の隣に立つルルイエが、何かを察したような何とも言えない同情と憐憫の声を漏らした。


「あ、あぁー……」

「どうしたのだ、ルルイエ? モルディギアンという名の神を知っているのか?」

「ええ、まあ。有名ではありませんが、力のある冥界の神です。ですが、よりにもよってモルディギアンですか……」

「どういうことだ?」

「見ていればわかりますよ」


 ふむ。ルルイエがそう言うのなら黙って眺めていよう。


 ナグーブの呼びかけによって、地下墳墓カタコンベの空間に重苦しい威圧感が漂い始めている。それは、以前出会った冥界の使者『忌まわしき狩人』が放っていた濃密な『死』の気配によく似ていた。


 しかし、密度や濃度が桁違いだ。『忌まわしき狩人』の踊子風の女性は強者の風格が強かったが、今回は明らかに次元が違う。超越的な重圧プレッシャーに圧し潰されそうで、踏ん張っていなければ膝を屈してしまいそうだ。重力も増している気がする。深い水の底に沈んでいるかの如くずっしりと体が重い。


 まるで周囲一帯に冥界が顕現したかのように総毛立つ恐怖と体の芯まで凍える冷気が広がった瞬間、男とも女とも区別ができない雄大な『音』が響き渡った。



『――如何な用か?』



 こ、これが神の声か……。

 理解できない『音』であるのに、なぜか意味を理解できる。私という存在そのものに概念で語り掛けてくるような不思議な感覚。


 生物は死を恐れ、最期には死に魅入られる――それを体現した存在が死神である。


 モルディギアンは死神に属する冥界の神ゆえに、神性が宿るその『音』には、身の毛もよだつ根源的な恐怖と魂が惹かれる独特な魅了で満ち溢れていた。


「偉大なる亡者の神よ! お応えいただき感謝申し上げまする! 敬虔な信徒たるワタシが貴方様に供物を捧げましょうぞ!」


 高らかに声を張り上げたナグーブが両手を上げて合図をすると、地中からゾンビやスケルトンが這い出てきて、捕らわれた人間たちの前に並ぶ。

 アンデッドたちの手に握られているのは、冷たく光る鋭利なナイフや剣――


「う゛ぅ……だ、誰か……!」

「た、助け……て……! 助けて……!」

「い、いや……いやぁ!」

「あぁ、神よ」


 彼らは殺されて供物として捧げられた他の人間を知っているからか、次は自分たちの番になったと理解して顔が恐怖に歪み、どうにかして必死に逃れようとするものの、手足は枷が嵌っていてほとんど身動きが取れない。


 唯一供物の対象となっていないのは、私たちに対する人質として扱われているアッハンだけだ。彼女は彼女で誰よりも早くアンデッドに刃物を突き付けられていたが……。


「助けてくれ! ボクは死にたくない! 死にたくないよぉ! こんなはずじゃなかったのに……! 助けて、パパ! マ――」

「やれ、下僕たちよ」


 ここにはいない父と母に助けを求めて泣き叫んでいた御曹司のお坊ちゃんの声が、途中で途切れた。

 他に聞こえていた人間たちの声も消えてしまう。

 血を吐き出すようなくぐもった呻き声と最期の呼吸音が静かに儚く消え、地下空間は異様な静寂に包まれた。血臭と死臭が濃さを増す。


「偉大なる亡者の神モルディギアンよ! 供物たる新鮮な死体を受け取りたまえ!」


 すると殺された人間の死体が薄らと輝いて様々な色の光の球体に変化し、音もなく黒い円柱に吸い込まれていく。


 あの黒い円柱を通して彼らの死体が、冥界及び亡者の神モルディギアンのもとへ送られたのだと、私は本能で理解した。


 この場に捕らえられていた人間を生贄として捧げた――それすなわち、ナグーブがモルディギアンに100万人の供物を捧げ終えたことになる。


『……確かに受け取った』

「おぉ……! それはそれは! これで貴方様に捧げた供物は100万を超えましたぞ!」

『……その通りだ。100万と5人だ』


 神モルディギアンが認めた。ナグーブは本当に100万人もの人間を殺してモルディギアンに捧げたのだ。

 コホンと咳払いをして逸る気持ちを抑えたナグーブは、家族を蘇らせるために奮闘した約50年もの時間を噛みしめながら、万感の想いを込めてモルディギアンに申し出る。


ワタシは貴方様に言われた通り、100万人もの死体を捧げました。亡者の神モルディギアンよ! 契約通り、我が妻シャウラと我が息子ラッシュを蘇らせてくだされっ!」


 悲願が叶う。ようやく再び妻と息子に会うことができる――長年の苦労で目は落ち窪み、シワが深く刻まれた顔で、ナグーブは晴れやかに笑う。

 しかし、




『――そんな契約は結んでいない』




 返ってきたのは、心底無関心で興味なさげな冷たく淡々とした否定の言葉だった。


「は、はい? 貴方様はワタシと契約を結んだはずでは!? 神が契約を破るのですかっ!?」

『……なぜ命ある者と契約を結ばねばならんのだ? なぜ我が元へ辿り着いた死者の魂を手放せばならんのだ? 我が死者の魂を奪うつもりかっ……!?』


 黒い円柱から放たれる純粋なる怒りの波動。

 神モルディギアンが苛立っている。神の力と表現するしかない魔力とは違う異質な力が、神の不機嫌さが高まるにつれて地下空間内に轟々と吹き荒れる。


 神を怒らせた者の末路は悲惨だ。本人だけでなく、周囲にまで甚大な被害を引き起こすが多い。国が滅んだという記録や昔話は数えきれない。

 全宇宙の数多の世界に今なお伝説や教訓として語り継がれているように、のだ。


「し、しかしっ! 供物として100万人捧げれば、妻と息子を蘇らせてくれると貴方様は――」


 尻餅をつき本能で後退りしながらも、ナグーブは懸命に抗議するが、亡者の神モルディギアンは彼の言葉をバッサリと切り捨てた。


『死者二人分の魂は100万人の死体に匹敵すると述べただけだ。一度も蘇らせるとは言っておらんし、契約をした覚えもない』

「な、なぁっ!?」

『要件は以上か? ならば、命ある者が神に対して愚かにも分をわきまえぬ要求を告げた罰として、そこにある二人分の死体を寄越すがいい』

「ま、待てっ! いや、お待ちください! その遺体は供物ではございませぬっ! あっ! あぁっ!?」


 ナグーブの目の前で、死体安置台に似た祭壇に横たわっていた彼の妻と息子の遺体がゆっくりと浮かび上がると、血肉が溶け、50年経過したような茶色く古びた骨になり、モルディギアンの声が響いてくる黒い円柱へと吸い込まれていく。


「待て! 待てぇぇえええっ! それは違う……それは違うっ! せっかくこの日のために細胞を培養したのに! 二人の肉体を取り戻したのにっ! ワタシから妻と息子を奪わないでくれぇぇえええええっ!」


 必死に手を伸ばして妻と息子の骨を掴もうとするものの、人間に対して神は非情だった。骨のひと欠片も残さず、神は神罰を執行する。


『……確かに受け取った』


 淡々と告げ、黒い円柱から輝きが失われる。もう用はないと言わんばかりに神は去ったのだ。

 ねっとりと重苦しかった大気が軽くなり、心なしか明るくなった気がする。

 当てにしていた神の助力はない。充満していた魔力もほぼ霧散してしまった。蘇生に必要な依り代も失われた。これではもう死者蘇生はできない。


 ――第一級魔導犯罪者『屍使い』ナグーブ・ホーが執り行った死者蘇生の儀式は失敗に終わった。


 黒い円柱に手を伸ばしたまま、ナグーブ・ホーは呆然と立ち尽くしている。

 人生をかけた死者蘇生が失敗し、家族の遺体が奪われてしまったことを、なかなか受け入れられないのだろう。

 それも無理はない。狂うほど執念を燃やし、50年もの長い月日をかけてようやく実を結ぶと確信した矢先にこれだ。彼の想いは計り知れない。


「おわかりになりましたか、マスター?」


 神が去った余韻と悲痛な静寂で満ちる中、ルルイエの淡々とした説明だけが地下墳墓カタコンベに響き渡る。


「宇宙全土を基盤とする亡者の神モルディギアンは、別名『納骨堂の神』や『死体安置所の神』とも呼ばれ、『死体』や『死者』を司る冥界の神です。墓の中から埋蔵品をいくら盗んでも気にも留めませんが、死体を持ち出すことは絶対に赦しません。それは死者の魂も同じです。モルディギアン崇拝のなかで死者の蘇生は絶対の禁忌。冥界の神の中でも特に厳格で謹厳実直なの神が、死者蘇生を赦すはずがないのです」


 なるほどな。ルルイエが発した何とも言えない声にも納得だ。同情と憐憫の声音にも……。


「しかもモルディギアンは生きている者に全くと言っていいほど興味がありません。契約を結ぼうなどと考えるだけ無駄です。モルディギアンが関心があるのは死者のみ。ある意味、最も冥界の神らしい神と言えるでしょう」

「モルディギアンという神と接触した時点で、ナグーブの望みが叶わないことは確定していたのか……」


 哀れな男だよ、ナグーブ・ホー。同情はしよう。私もツバキが殺されて同じ想いを抱いたこともあるから気持ちはよくわかる。しかし残念だが、運に見放されたようだ。

 もし家族が殺されてからすぐに儀式を行なっておけば、もしくは他の神と契約をしておけば、蘇生させることができたのかもしれない。


「なぜだ……なぜ上手くいかなかったのだ……?」


 ルルイエの言葉が聞こえなかった……いや、言葉を聞いていなかったナグーブは、激しく血の涙を流しながら自問自答を繰り返す。


「儀式は完璧だった……あとはモルディギアンが魂を渡してくれれば上手くいったのだ……! なのになぜ神は裏切った……? 100万もの供物を捧げたというのにっ! 契約を結んでいないだと……? 50年……50年も待ち望んでいたのだぞ! ふざけるなふざけるなふざけるなぁあああああっ! どうしてどうしてどうしてどうしてどうして! どうしていつも上手くいかない!? どうしてワタシから何もかもを奪う!? 一体ワタシが何をしたぁぁあああああっ!?」


 血が出るほど激しく頭を掻き毟るナグーブは、突如カッと目を見開く。


「そ、そうか……生贄が足りなかったのだな……! 供物が足りなかった……そうに違いない! 違いない違いない違いない! そうだそれだっ! 100万人を殺しても足りなかったのだ! ならば200万! それでも足りなければもっと、もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっとぉぉおおおおおっ! 1000万でも1億でも捧げよう! そうすれば神モルディギアンも妻と息子を蘇らせてくれるはずだっ! なんだ簡単なことではないかっ! アハッ! アハハハハハハッ!」


 響き渡る老人の哄笑は、どこか壊れかかっているようで、酷く痛々しく虚しい。


「ハハハッ……アハハッ…………ハハ…………」


 徐々に声を小さくしていったナグーブは、アンデッドのようにゆらりと立ち上がると、アッハンへ向けてスッと人差し指を向ける。


「――死ね」

「アッ……」


 撃ち放った魔弾が寸分違わずアッハンの心臓を貫き、彼女の体が力なく床に崩れ落ちる。


 ――すべては一瞬の出来事だった。


 アッハンが倒れるのを見届ける前にナグーブは振り返り、半分感情が喪失した虚ろな笑みをニヤリと浮かべてみせる。


「アンデッドでも死体は死体……次はお前たちだ! 妻と息子のために死ぬがいい――!」

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