第57話 僕らは五月の自分に別れを告げる


 僕がおそるおそる顔を上げると、四家さんを初めとする「乗っ取られた人たち」が床に折り重なって倒れているのが見えた。


「うわあ……一体、何が起きたんだ?」


 ふいに離れたところから声が聞こえ、顔を向けるとボンちゃんを抱きあげようとしている未知男さんの姿が見えた。


 僕は明人と四家さんを抱き起こしている五瀬さんの前に移動すると、「あの、五瀬さん……乗っ取られたんじゃなかったんですか?」と尋ねた。


「ん?ああ、これのことかい?」


 五瀬さんは目をぱちぱちさせて言うと、目から小さな物体を外した。点滅する赤紫の光を放つその物体はどうやらコンタクトレンズの一種らしかった。


「敵の特徴に合わせて光の色を調節するのが難しかったよ。何しろ時間がなかったからね」


「四家さんに噴きつけたのは、何だったんです?」


「ただの芳香剤だよ。四家君は香料に弱くてね。ついでにシトラスの成分も含まれているから侵略者にも効果を発揮するってわけさ」


 僕は感心するとともに、心の中で五瀬さんに同情した。なぜなら世界が元に戻ったら二か月後、今度は五瀬さんが四家さんにアルコールで仕返しをされるからだ。


「さあ『バックスペーサー』もいなくなったことだし、八十万博士を助けなくちゃ」


 五瀬さんはそう言うと「泉」の中に入り、椅子にくくりつけられた八十万博士の元に近づいていった。


「私たちも手伝いましょう、真咲君」


「あ……うん」


 僕と杏沙も「泉」の中に入ると、八十万博士の自由を奪っているベルトを外す手伝いを始めた。


「大丈夫ですか博士」


 僕が尋ねると博士は自由になった首を動かし、「私は大丈夫だが……あれを見たまえ」と言って頭上の一角を目で示した。


「――あっ!」


 僕は思わず声を上げた。像の顔のあたりにまだ『不確定時空』が小さな渦となって残っているのが見えたからだ。


「あれを完全に消滅させるまでは、世界を安定させたとは言えん」


 博士がそう言って渦を睨み付けると、小さくなった『不確定時空』はまるで捕まるのを怖れているかのようにどこかへ逃げ始めた。


「……あっ、待て!」


 フロアの壁に『不確定時空』が吸い込まれた瞬間、僕は絶望的な気分になった。


「あと半日しかないのに、あれをつかまえるなんて……無理だ」


「いや、無理ではない」


「無理じゃないですって?」


 博士の言葉に、僕は我が耳を疑った。


「この街にはおそらくここの他にもう一か所、『不確定時空』が安定して存在できる場所があるはずだ。そこに行ってもう一度、渦を逆向きにさせるのだ」


「でもその場所の手がかりがひとつも……」


 そこまで言いかけて、僕ははっとした。いや……あるぞ!


 僕が杏沙の方を見ると、杏沙も同じことに気づいたのか僕の方を見返した。


「――公園だ!」


 僕らが同時に叫んだ瞬間、何かを告げるように僕らの身体に異変が現れた。


「う……力がっ」


 僕は反射的に腕の『ジェルブレスレッド』に目を落とした。ブレスレッドは知らないうちに溶け始め、半分ほどの細さになっていた。


「だめだ、タイムリミットだ。……七森、もう身体を返そう。このままだと「五月の僕ら」が帰る身体がなくなってしまう」


「……わかったわ。でも「幽霊」になってしまったら『渦想コイン』を持って行けなくなるわよ」


「あっ、そうか……」


 僕が「泉」の底に落ちているネックレスに目をやった、その時だった。裏返っているチャームが光り始めたかと思うと、小さな光が現れてゆっくりと上昇を始めた。


 ――あれは……コインに充填されていたエネルギーが『渦想チップ」に戻ったんだ!あれなら「幽霊」の僕でも持って行くことができる!


 僕と杏沙は自分の身体から抜け出すと、再び「幽霊」の状態に戻った。


「行こう七森。僕らが出発した場所へ」


「……そうね、そろそろ時間切れだわ」


 僕は僕らに短い休日を与えてくれた「身体」に感謝しながら、空中で輝いている『渦想チップ』を掴んだ。

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