第52話 僕は家主との関係を修復できない


「博士のお嬢さん? ……もう一時間くらい前に起きて出て行ったよ」


 僕が悪夢(本当に五日前にさかのぼったのかどうかはわからない)の名残で重い身体を引きずりながら実験室に行くと、五瀬さんは杏沙がとっくに動き出したことをさらりと告げた。


「七森は『ジェル』から幽霊に戻って外に出たんですか?」


「そう、その通り。君たちの計画通り「自分」の中に入るのなら幽霊の状態じゃないと無理だからね」


 そう言って五瀬さんは、『ジェル』に意識を移す時に使う透明容器の蓋を開けた。


「さて、君もいったんここで意識と『ジェル』の身体を分離する必要がある」


「わかりました……」


 僕は机の上をずるずると這って容器の中に入ると、「分離」の恐怖を紛らわせるため今日の行動を頭に思い描いた。


 ――今日の「僕」はいったい、どこで何をしているのだろう……そうか、学校か。

 

 僕は学校がある時の自分の日常を思い返した。九時になって授業が始まったら乗り移るのは難しくなる。やるなら始業前だ。僕は容器を通して壁の時計を見た。八時十分。うまくすれば間に合いそうだ。


「それじゃあ、スイッチを入れるよ」


「お願いします」


 僕は容器の中で、ほんの少しの名残惜しさと共に『ジェル』の目を閉じた。


                ※


 始業前の教室には、授業の準備をする生徒とぎりぎりまで喋っている生徒とが同居する懐かしい風景が広がっていた。


 僕は窓の近くで難しい顔をして腕組みをしている「僕」に近づくと、背後から「えいっ」と気合を込めて身体の中に飛び込んだ。


「――うっ?」


 僕に入られた「僕」はひと声呻いて身体を弓なりに反らすと、そのまま床に崩れた。


「おい真咲、どうしたんだ?」


 いきなり倒れた「僕」に気づいたクラスメートたちが心配そうに周囲を取り囲み、僕はびくびくと苦し気に手足を動かす「僕」からはじき出されないよう必死でしがみついた。


 しばらくすると廊下にいた別のクラスの先生がやってきて「大丈夫?保健室に行きましょう」と僕に声をかけた。


 僕はよし、思った通りの展開になったぞとほっとしていたが、家主である「僕」は身体の内側で全く違うことを叫んでいた。


『待ってくれ、確かに気分は悪いけど、おかしいのは体調じゃない、手足が何かに乗っ取られて動かないんだ!』


 僕は「僕」の訴えを心苦しく思いつつ、乗っ取った身体を強引に立たせ先生に付き添われる形で保健室へと移動を始めた。


                 ※


 保健室を使うことを許された僕は、ベッドの中で隣の診察室にいる校医の先生が席を外すタイミングを待った。


 やがて椅子の動く音がして人の気配が消えると、僕は身体を起こしてベッドから降りた。


 ――トイレだろうか。……どちらにせよ今がチャンスだ!


 僕は靴を履くと休養室から診察室へ移動し、そのまま扉の前に進んだ。


 ――廊下に人がいなければ、そのまま玄関まで行けるぞ。


 僕は思い切って扉を開けると、廊下に顔を出した。始業直後のせいか、廊下には生徒の姿はもちろん職員の姿もなかった。


 ――よし、こうなったら一気に外まで行こう。


 僕は保険室を飛びだすと、足を止めることな一気に下駄箱の方へと向かった。


『やめてくれ、エスケープなんかしたら、怒られる! 誰かが身体を乗っ取ってるんだ、助けてくれ!』


 僕は「僕」の訴えを振り切るように靴を履き替えると、そのまま玄関を抜け校門から外に飛びだした。


 だが学校前の通りを歩き始めてほどなく、僕は自分の足がふらついていることに気づいた。


 ――まずい、ここまで「家主」の拒否反応が大きいとは。


 僕は動かない腕に力をこめて携帯を取り出すと、記憶を頼りに杏沙の番号をタップした。杏沙の番号がアドレスに入っていないのは、「まだ出会っていない」からだ。


 五月の「僕」の頭には杏沙の名前も番号も何ひとつ、入っていないだろう。でも十一月から来た幽霊である僕の頭には、強気の口調も怒ったような眉もすべてが刻みこまれている。


 僕が頑張って脚を進めながら杏沙の返事を待っていると、しばらくして携帯から杏沙の――幽霊ではない生の肉声だ――が飛びだしてきた。


「もしもし、真咲君?」


「……七森、なんとか自分の身体を借りること成功したよ。でも……かなり抵抗されてるんだ。脚が思うように動かない」


「そうなの……じゃあどこかで待ちあわせましょう。私、今五瀬さんの所にいるの。あなたの分のブレスレッドを持ってそっちに行くわ」


「了解だ。学校の近くで落ち合えそうな場所と言ったら……そうだ、時美公園がいいな。七森、少し遠いかもしれないがこっちまで来てくれないか。頼む」


「わかった、できるだけ早く行くから待ってて」


 ――『僕」よ、苦しいだろうけど一日だけだから許してくれ。


 杏沙との通話を終えた僕は、「五月の僕」に謝りながら待ち合わせ場所の公園へと向かった。




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