第46話 僕は捨て犬になった直後に拾われる
――ひょっとして、警戒が必要なのは『マイナデスの泉』の周りだけじゃなく、この建物全体なんじゃないか?
遠ざかってゆく背後の景色にちらほらと赤紫の光を見た僕は、ボスを探って帰るどころかここでおしまいなんじゃないかという予感に身体を震わせた。
「だめだ、前にもいる!」
飯来さんの声が響くと同時に、杏沙が再び足を止めた。
「あっちは人がいないわ」
杏沙の叫ぶ声と共に景色がぐいんと急角度で曲がり、僕らは予定のコースから外れた細い通路を走り始めた。通路を出た先で二人は足を止め、しばし沈黙が続いた。
「右がキッズルーム。左がATM。……ということは、こっち側からは抜けられない」
「途中に階段みたいな物が見えたわ。こうなったら最短距離じゃなくて上か下に避難してからぐるっと回って目的地を目指しましょう」
「君は……本当に中学生か?」
追われている人間のふるまいとは思えない杏沙の冷静さに、飯来さんは明らかに絶句していた。僕は二人の表情が見えないリュックの中で、僕は驚かないよ飯来さん。こんな場面は嫌って言うほど見て来てるからねと思った。
「……よし、上から回ろう。二階に出たらまっすぐ真ん中の吹き抜けを目指すんだ」
飯来さんがそう言うと、杏沙がその場で身を翻した。するとさっきまで杏沙を先導していた飯来さんが慌てたように「ちょっと待ってくれ、僕が先に行く」と駆けだす姿が目に入った。
逆方向に向かって走り出した杏沙は少し行ったところで九十度曲がり、『上るわよ』と言うと軽快に階段を上がり始めた。
『わ、わ、揺れる、揺れるってば』
『ここで降ろしてく?』
僕は非情な杏沙の返しに「くうん」と抗議の泣き声を上げた。
二階に出た僕らは走っては曲がるという迷いのない動きを繰り返し、幸い一人の『バックスペーサー』と遭遇することもなく吹き抜けと思しき場所にたどりついた。
『いい眺めよ。あなたにも見せてあげる』
立ち止まった杏沙はそう言うと、その場でくるりとターンした。
『わあー』
うしろ向きになった杏沙が手すりにリュックを押しつけると、テラスから真下のイベントスペースが見えた。
――あれか、『マイナデスの泉』は!
左手に観葉植物に囲まれた丸い物体が見え、僕はその枯れた泉の中に何とも言えない不気味な物がわだかまっているのを感じた。
「よし、一番近い階段から下りよう」
飯来さんが杏沙に声をかけて歩き出した、その直後だった。
「――うっ!」
先を歩く飯来さんが急に足を止め、呻き声を上げた。
「飯来さん!」
杏沙の足が止まった次の瞬間、僕の視界に目を光らせた人たちが迫ってくる様子が見えた。
「&%☆@※★!」
『バックスペーサー』語を口にしながら近づいてくる人たちに向かって僕が威嚇の唸りを上げると、杏沙が体を反転させたのか別の景色が飛び込んできた。それは僕の知っている人たちが飯来さんの動きを封じている光景だった。
――まさか、そんな!
左右から飯来さんにしがみついていたのは、トシキとチサトだった。そして二人の近くに立って『バックスペーサー』語で指示を出しているのはなんと、ヨーコさんだった。
「――きゃっ!」
僕がリュックの中でおろおろしていると、杏沙の悲鳴と共に視界が激しくぶれ始めた。杏沙が背後から襲われたのだと気づいた途端、視界が急降下して僕はリュックごと床に落下した。
「――ぎゃんっ」
闇の中で尻もちをついた僕は思わず「犬の」悲鳴を上げた。
一瞬「まずい」という思いが頭をかすめたがどうやら『バックスペーサー』たちには気づかれなかったらしく、リュックに手が伸ばされる気配はなかった。
僕が耳を立てて様子をうかがっていると「止めろ、僕らをどうする気だ」という飯来さんの怒鳴り声と杏沙の悲鳴とがリュックの生地を通して僕の耳に突き刺さった。
『七森っ』
僕がリュックの中から呼びかけると、携帯から杏沙の『あとで……助けに来て』という今にも消えそうな声が返ってきた。
僕は口を閉じると、リュックの中で縮こまった。杏沙は逃げ切れないと悟った瞬間、わざとリュックを落としたのだ。
やがて物音が少しづつ遠ざかってゆき、僕は静まり返った通路の上で「おおおん」と無念の雄叫びを上げた。
――『バックスぺーサー』め、二人をいったいどこへつれていったんだ!
僕がなんとかしてリュックから出ようともがいていると、やがて一つの足音がこちらに向かってやってくる気配があった。
――誰だ?
「みんな、急にどうしちゃったんだろう……あっ、落とし物」
足音が僕のすぐ傍で止まったかと思うと、少女の物と思われる声が頭上から降ってきた。
僕が敵でも味方でもどちらでもいいとばかりにもがくと、「きゃっ、なにかいる!」という声が外から聞こえてきた。
――しめた!
僕はリュックの横から鼻先を出すと「くうん」という今までで一番、犬っぽい声を上げた。
「えっ、まさかこの中に犬っ?」
声の主は「ちょっと待ってて」と言うと、リュックの蓋を開け中の紐をゆるめた。
「くうーん」
僕がリュックから顔を出すと、「あっ、本当に子犬だ。可愛い」という声と共に見覚えのある顔が僕を覗きこんだ。
――リサ! ……まだ乗っ取られてなかったのか!
僕はすがるように鼻を鳴らすと、ヨーコさんの生徒で唯一敵ではない少女を犬のまなざしで見上げた。
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