第10話 僕は透明な身体で新たな旅を始める


 僕はふわふわした身体を持て余し、久しぶりに心もとない気分を味わった。


 幽霊にもいい所はある。どこにでも入れて誰にも――さっきの犬みたいな能力がなければだが――気づかれないという点だ。


 僕は自分が見える人間がいるとしたら、それは杏沙だけだろうという確信があった。もちろん、この世界に杏沙がいるという保証はない。


 それでも同じ体験をした僕ならば、見えない力が杏沙の元に導いてくれるのではないか――そう思わずにはいられないのだった。


 仮に僕の身体がどこかに運ばれたとして、探せそうなところと言ったら病院か自宅しかない。だったら手がかりを得るためにもいったん、家に行くしかないんじゃないか。


 僕がそんなことを考えはじめた時だった。ふと身体のどこまで何かが震えるような感覚を覚え、僕ははっとした。


 ――この感覚は、まさか……


 僕は直感に従って触ることのできないポケットに手を伸ばした。そして気がつくとポケットの中から『渦想チップ』をつまみ上げることに成功していた。


「――つかめるぞ!」


 僕は興奮した。この世界の物には何ひとつ、触れることができない身体なのにこの物質だけは唯一、幽霊でもつかむことができる。これほど心強いことがあるだろうか。


 『渦想チップ』は僕の手の中で強く震えたかと思うと、突然、ある方向に向けてサーチライトのような光を放ち始めた。光の方向は気のせいか、僕の自宅方向を示しているように思えた。


「この光は……次に僕が行くべき方向を指してるのか?」


 光は十秒ほど放たれ続けた後、唐突に消えた。僕は幽霊には存在しない、心臓の鼓動が早まるような錯覚を覚えた。


               ※


 僕は触れることのできない地面をイメージの中で思いきり蹴ると、誰にも見とがめられないのをいいことに空中をすいすいと泳いだ。


 四カ月前、『アップデーター事件』の時に身体の操り方をマスターしておいたお蔭で、僕はどんどん加速してあっという間に自宅前の通りに到着していた。


 僕は玄関前の電柱に身を隠すと(隠さなくても幽霊だから、誰からも姿は見えないのだが)自宅の様子をうかがった。


 外から雰囲気を探っていた僕は、何となく変だなという印象を抱いた。僕が四家さんと杏沙の身体を七森博士の研究室に運んだように僕も自宅に運ばれた可能性があるのだけれど、それにしてはあまりに静かすぎる。もっと大騒ぎになってもいいんじゃないだろうか。


 そんなことを考えながら玄関を見つめていると突然、ドアが開いて思いもよらない人物が姿を現した。


「えっ?」


 玄関から現れたのは兄の理と、ガールフレンドの夢未ゆみさんだった。


 ――変だな。彼女は今海外にいるはずだ。


 仮に戻ってきているとしても、弟の僕がたった今運ばれたのだからあんな笑顔でいるのはおかしい。

 

 ――いったい、何があった? いや、それ以前に僕の身体はどこにある?


 僕は混乱した。だが、それに続く光景は僕を混乱どころではない状態に陥れた。


 二人を見送りに玄関に現れたのは妹の舞彩と――「僕」だったのだ。


                ※


 僕と舞彩は兄貴たちを送り出すと、笑顔のまま家の中へ引っ込んでいった。


 僕は変だ、と思った。なぜなら僕の「中身」はここにいて、あの身体は抜け殻に過ぎないからだ。


 杏沙がいわゆる昏睡状態であることを考えれば、本来なら僕もベッドの上に横たわっていなければならない。ましてや兄貴のガールフレンドを玄関まで見送りに行く、なんていう判断や動きができるはずがない。


 だとすると……『アップデーター』のような侵略者がまたしても僕の身体を乗っ取っているのか?


 あの笑顔の「僕」が、侵略者に乗っ取られた僕だとすると、『不確定時空』も新たな侵略者(あるいは過去に現れた侵略者)が発生させたものなのだろうか。


 ――よし、なんとかに入らずばなんとかだ。


 こういう時、杏沙ならすぐ言葉が出てくるのだろうが、あいにくと僕は映画の台詞に使えそうな言葉を「なんとなく」覚えているだけなので、いざ使おうとするとこんな風にふにゃふにゃになってしまうのだ。


 僕は幽霊のまま自宅の庭に入り込むと、ウォークインクロゼットの外側に当たる壁の前に立った。


 なぜ玄関ではなくこの場所なのかと言うと、さっき見た「僕」が侵略者だった場合、奴らが「幽霊」を感知する機械を持っている可能性があるからなのだ。


 僕は誰にも姿が見えないのにあたりを見回し、それから思いきって壁の中に飛び込んだ。僕の部屋はウォークインクロゼットの真上にあり、ここから上に「上がれ」ば最短距離で自分の部屋に辿りつけるのだ。


 ――懐かしいな、この感じ。あの時もこうやって、ウォークインクロゼットから自分の部屋に入ったんだっけ。……ただ、あの時は七森が隣にいたけど。


 僕はクローゼットの床をとん、と軽く蹴ると二メートルほど上昇した。僕の頭はクローゼットの天井を突き抜け、上半分だけが二階の床から突き出す形になった。


 僕は立ち泳ぎのような格好で空中にとどまると、二階の床から目だけを出した状態で目線を左右に動かした。


 動いている人間の足は見えず、僕は部屋に人がいないことを確信した。


 ――よし、本格的に侵入するか。


 僕はいったんクローゼットの床に降りると、今度は勢いをつけて床を蹴った。


 三メートル以上飛びあがった僕は二階の床からすぽんと飛びだすと、床から数ミリという絶妙な高さで動きを止めた。


 ――僕のベッドに「僕」はいないようだ。やっぱり普通に動き回ってるんだな。


 「僕」の様子をずっと観察していれば、『アップデーター』か『IDデリーター』だった場合はすぐにわかる。なぜなら奴らは時々、目の色が変化するからだ。




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