第14話 松本くんは元中年

 学校から少し離れた場所に5階建てのマンションがある。最近出来たばかりのおしゃれなマンションだ。ここがこの『世界』での自分の家だった。転生前の住居と比べると雲泥の差がある。


 高校生がこんな暮らしをしていたら心配されるはずだが、両親の教育方針ということで話がまとまっているらしい。こういう部分はアニメの世界だなと感じる。


「ただいま…」


 誰もいない部屋だが、この挨拶をしないと不思議と落ち着かない。


「うむ、おかえり」


「いやいや、樹木も『ただいま』って言う立場だからな」


 今日は樹木と一緒に帰宅した。毎日とは言わないが、結構な頻度で自宅に遊びに来る。


「いいじゃないか。それより腹が減ったな。早く作ろう」


「あんまり急かすなよ。ちょっと疲れたから休ませてくれ」


 放課後の屋上で開催された密会は、教師の下校を命じる声によって唐突に終わりを迎えた。


 ――『市井 ゆう』役の『葵 聖』、職業『声優』――。『佐藤 芳佳』という名前は彼女の本名らしい。『葵 聖』は芸名ということだった。


 「また今度お話しよ。返事はその時に聞かせてー」という彼女の言葉もあって、僕はあまり多くを聞き出すことが出来なかった。


「ハンバーグ! ハンバーグ! ハンバーグ! ハンバーグ! ハンバーグ!」


「ああ! うるさいなっ! ベータのことが気になって、まだそんな気分になれないんだ」


「ぐぬう……」


 樹木は口を膨らませて怒っている。そして、僕の肩からピョンと飛び降りると、ゴロゴロと前転しながら元の大きさに戻った。元の大きさといっても、小学生高学年くらいの身体なので、たいして大きさは感じない。逆に小さく感じる。白いワンピースが子供っぽさを強調させているのかもしれない。


 樹木はまだ口を膨らませて、僕に怒りの目を向けている。


「…………サイン、貰ってる暇があるならもっと色々聞けば良かったじゃないか」


 そう言って僕のカバンを指差した。残念ながらこれには反論の余地がない。


「くっ……。いや、大ファンだったから! 生の声を聞かせてもらったら、身体が勝手に動いてしまって…」

 

 ベータは証拠として『市井 ゆう』の声を出してくれた。この『ひまわりでいす』の世界で散々『市井 ゆう』の声を聞いていたはずなのに、逆にベータが演じる『市井 ゆう』のが本物なんじゃないかという錯覚に陥ったほどだった。


「私も以前にサインをもらっていたからな。その気持ちは痛いほど分かる。できれば『ひまわりでいず』を知っていた状態で出会いたかった。それだけが悔しい。ほらほら、お前が料理をしないなら私が作ってしまうぞ」


 樹木は買い物袋を漁り始めた。彼女の手料理はまさに『死の味』だ。また三途の川を見たくない。


「分かった分かった! 僕がやるから。樹木はいつも通りお米を洗ってくれ」


 僕自身、料理はそこまで上手ではない。自炊はしていたが、これぞ『男飯』という大雑把な料理しか作れない。僕は貰ったサインを本棚の一番目立つところに置き、ハンバーグを作る準備を始めた。


「なあ樹木、いつ『葵 聖』だって気付いたんだ? まだ出演作が少ない声優さんだし、それに元々作品を見ていなかったんだろ?」


 一生懸命にお米を洗っていた樹木は手を止める。いつの間にかピンクのエプロンを着ていた。初めて見る格好だ。どこで調達したのだろう。


「死を与える人間の個人情報はしっかり見るからな。取り違えたら後戻りができないから、最後の最後まで慎重に見る。お前をこの世界に送った後に『ひまわりでいず』の文字に気付いたんだ。すごい偶然じゃないか! 思わず彼女に話してしまったよ。まさか、この世界に来たいと言い出すとは思わなかったがな」


「ああ……自分からその情報を喋ったのね……一つ謎が解けたよ」

 

 大事な情報は他人に話してはいけない、という決まりがないのだろうか。少し呆れてしまう。


 僕は合挽き肉をしっかりと捏ね始めた。


 しかし、ベータが『この世界に来ることを強く望んだ理由』はまだ分からないままだった。なにやら深い理由があるような感じだった。多分、それが市井さんと一ノ木達を引き離したい理由でもあるのだろう。彼女に協力するかどうか。僕は、その答えをまだ決められないでいた。

 

 隣を見ると、僕の手をジッと見ている樹木に気付いた。


「混ぜるの、やりたいな」


 やっぱり言うと思った! 前にハンバーグを作った時もそうだった。しょうがないので立ち位置を交換する。


「へへへっ! やった!」


「指先で混ぜる感じでな。ころあいを見て僕が卵を入れるから」


「おお! まかせたぞ! へへへっ」


 はち切れんばかりの笑顔と共に勢いよく混ぜ始める。子供が粘土遊びをしているようだ。楽しいという気持ちが身体全体から溢れ出ている。色々と面倒事を持ってくる子ではあるが、きっと悪気はなんじゃないかと最近になって思うようになった。単純にまだ子供なのだろう。


 不思議と力が抜けていく。僕は、今度の休みに行く遊園地のことを考え始めた。この後、アルファと日程を話し合う約束をしているからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る