第7話 橘田胡桃に起きた異変

***


「そろそろ死んだかしら」


 橘田きちだ胡桃くるみの最近の日課は、朝刊のお悔やみ欄を見ることだ。目当ての名前が載っていないかと、今日も胸を高鳴らせながら新聞を開く。


「お前最近やけに熱心に新聞読むよな」


 夫の昌朋まさとものその言葉に、曖昧に返事をし、見逃すまいと指で一つ一つなぞっていく。憎き憎きあの女の名は、ハヅキ、というのだ。あの時、頭に血が上って名字を確認するのを忘れたが、問題なかった。あそこの神社と付き合いの深い年寄り数人を捕まえて、根気よく聞き込みを続けた結果、『ヨモギダハヅキ』という名であるという情報を得たのである。


「山田✕✕(96)……、三宅✕✕(83)……ちっ、まだ生きてんのね、あの女。全く、しぶといったら」


 ぶつぶつとそう呟いて、新聞を閉じる。


 情報によれば、あの女は別に恋人というわけでもないらしい。以前、二人でいるところを偶然見かけた佐島さじまという神社の常連の話では、「先日一緒にいた方は奥様ですか? 随分と仲のおよろしいことで」と後日土御門の次男坊に尋ねたところ、珍しく境内にいた彼は「とんでもないです」と顔を真っ赤にして否定したのだという。


 付きまとわれて、迷惑がっているのだ。そりゃそうだろう。見たところ、特別美人というわけでもなかった。ただ、胸だけは大きかったから、純情な彼をその肉体でもって誘惑しているに違いない。なんて卑しい女。胡桃はそう思っている。


 神社の若い子達まで手懐けて、何が『若女将』だ。良い気になりやがって。本当にムカつく。


「とっとと死ねば良いのに」


 そう呪詛を吐くと。


「――ゥオエッ!?」


 口の中から、どろりとしたものが出てきた。びちゃ、と床に落ちたそれは、生きているのか、ゆるゆると動いている。


「どうした? 大丈夫か?」


 げほげほと咳き込む胡桃のもとに駆け寄った昌朋が、その背中を擦る。


「何よこれ」


 にちゃにちゃとしたどす黒い塊は、依然としてゆるゆると波打つように動いている。


「何だ? 何かあるのか?」

「は? 見えないの? ここ、ここに――!」


 そう指差すと、その塊は跡形もなく消えていた。だけれども、見間違いのはずはない。喉を通過する、あのなんとも言えない生臭さであるとか、気持ち悪さを身体が覚えている。何かを吐いたのは、確実なはずだ。


 その日胡桃は、その後も数回、同じようなものを吐いた。


 胡桃に起きた異変は、それだけではなかった。

 翌朝目を覚ますと、どうにも腹が重いのである。夕食がそんなに重たかっただろうかと腹に手を当ててみると、それは大きく膨らんでいた。臨月、とまではいかないが、かなりの大きさだ。太ったにしても急すぎるし、腹だけが膨らむというのは異様である。


 妊娠しているはずはないのに、と思いつつも何となくそれを撫でていると、中のモノが、ぴくり、と動いた。

 

 普通に考えれば、口から得体のしれないものを吐いたり、朝いきなり己の腹が異様に膨らんでいれば、ましてや、中で動いていれば、病院に駆け込むものである。


 けれど胡桃はそうしなかった。

 別のからだ。


「胡桃? どうした? 具合でも悪いのか?」


 七時を過ぎても起きて来ない妻を心配した昌朋が、ドア越しに声をかける。


「ご、ごめんなさい、ちょっと具合が悪くて。ご飯は適当に食べて」

「わかった。無理するなよ」


 夫は優しい。

 腹も出た四十過ぎのおじさんで、恋愛感情などとっくになくなっているが、家族としての情はある。昌朋の方に原因があり、子どもは諦めざるを得なかったが、その引け目があるためか、胡桃のやることに一切口を出さない。優しい――というか、弱いのだ。


 この夫なら、土御門神社の若い男となったとしても、何も言ってこないだろう。その気持ちも多分にあった。だって、アンタのせいで子どもを諦めなくちゃいけなかったんだから。身体の関係までは高望みかもしれないが、彼本人を愛でるだけでも、あわよくば、触れ合うくらいなら、と。


 そんなことを思っていた矢先の、葉月であった。

 

 自分にはもう戻ってこない若さが妬ましい。こっちは一目見る、声をかけることすら運頼みなのに、彼の生活圏内に土足で上がり込んでの若女将面までしているのも腹立たしい。妬ましい。腹立たしい。


 どうにか追い出せないものかと思案を巡らせている時、道に捨てられている怪しげな雑誌が目に留まった。呪いだの、黒魔術だのという言葉が、おどろおどろしい書体で並べられているそれを、胡桃はこっそり持ち帰った。そしてそこに載っていた方法を実行し、いまに至るというわけだ。


 当初の目的は追い出すことだった。ちょっと懲らしめてやろう、くらいの気持ちだったのだ。が、直接手を下すのとは訳が違う。ただ、それらしい札やら陣やらを書いたり、藁人形の額に五寸釘を打ち込むといったようなことばかりなので、手応えがない。だから、罪悪感もない。明確な目的があったにせよ、それでもどこか憂さ晴らしのような気持ちもあった。所詮は雑誌に載っているような、『子ども騙し』だ。こんなもので人が死ぬわけがないと思っていた。


 だからこそ、やるうちにエスカレートした。そのうち、「死ぬわけがない」から「死ねば良いのに」に変わった。一度でもそう思うと、もう止まらなかった。やがて、死ね、死ね、と強い思いを乗せながら、その『子ども騙し』の呪いをかけ続けていたのである。


 机の引き出しの奥にしまってあるそれを慌てて取り出し、すっかり折り目のついたページの下の方にある、【※注意事項】の部分を指でなぞっていく。


『尚、呪いや黒魔術は、相手に届かなかったり、あるいは破られた場合、術者本人に跳ね返ってきますので、くれぐれも自己責任で』


 その一文で指を止め、胡桃は嗚咽を漏らした。

 

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