第11話 毒と薬①

 ヒノが風邪を引いた。

 幸い、大病ではなかったが、一週間は安静を余儀なくされた。

 という訳で、私たち二人はここ数日、この宿での生活を余儀なくされている。


「ヒノ、調子はどう? 辛くない?」

「うん、だいじょーぶ」

 

 部屋へ入ると同時に尋ねる。ヒノは力なく答えた。

 彼女がちゃんと布団に入り、ベッドに横たわっているか、手探りで確認。


「マーちゃん、くすぐったいよ」

「っと、ごめんね」

 

 どうやら脇をなぞってしまったらしい。慌てて手を離す。 

 目が見えていた頃から、他人の看病なんてしたことがないから、いまいち勝手が分からない。

 でも、やるしかない。今、彼女が頼れるのは私だけなのだ。


「お薬、棚の上に置いておくね。自分で飲める?」

「だいじょーぶ」


 ヒノが手を伸ばせば取れる位置に、棚を移動させて、その上に薄紙で包まれた薬を置く。

 心なしか、ヒノの吐息は苦しそうだ。

 そこで気づいた。いつもヒノが明るく喋ってくれるから、場の雰囲気も明るくなっているのだ。私一人では、気の利いたこと一つ言えない。情けない。

 自己嫌悪に駆られていると、ヒノが言った。


「……ごめんね。マーちゃん。ヒノが風邪なんか引いたせいで……迷惑かけて……」

「そんなこと気にしなくていいの。体調不良なんて、誰にでもあることなんだから」

「……うん、ありがと」


 それでも、ヒノの声音からはある種の遠慮が窺える。

 子供っぽい言動から、普段一緒にいる私さえ忘れがちだが、ヒノの精神性はかなり大人だ。

 より正確には、子供らしくない。周囲に迷惑をかけることを、過剰なほど嫌う。勿論、そこには生い立ちが関係してるんだろうけど。


「お薬、飲む」

 

 ヒノが言うと同時に、ベッドが軋んだ。薬を取るため、身体を起こしたのだろう。


「知り合いに腕の良い薬屋がいてね、その人の調合した薬だから、効くと思うよ」

「何て名前の人?」

「キリコ」

「ドクター・キリコ……。痛みも苦しみもなく殺されそう……」

「何か言った?」

「何でもないよ」


 小さな声で返事したヒノが、コップに水を注ぎ、服薬。


「美味しくない」

「薬ってそういうものだから。ちゃんと飲まなきゃダメだよ?」

「……頑張る」


 うん、偉い。ヒノはいい子だ。私には勿体ないくらいだ。いや私の子供じゃないけど。

 ヒノの看病をしている間、ずっと私は彼女の隣に座っている。

 手持ち無沙汰になったら、自前の紙と鉛筆で、記憶を頼りに絵を描いてみた。ヒノが苦しそうだったら手を握ってあげたり、頭を撫でてあげたりした。どうしても取りに行けないものは、代わりに取ってきてあげた。

 そうやって、静かな時間を過ごしていると、不意にヒノが言った。


「マーちゃん、お話してほしい」

「お話?」

 

 何の話をご所望か。聞かずともヒノは教えてくれた。


「マーちゃんのこと、色々と教えてほしい。ヒノ、マーちゃんのこと、もっと知りたいから」

「私の話なんか聞いても、面白くないよ?」

「そんなことないもん」

 

 まるで自分を否定されたかのように、ヒノは不満を声に滲ませる。

 仕方ないので、私は自分の生い立ちを語り始めた。



「長くなるかもしれないけど、許してね」

「私、紛争地帯で生まれたらしいの」

「断言できない理由はね、物心ついた時には、もう紛争の跡地で生活してたから」

「不幸中の幸いは、その地域に、子供を皆で育てる文化があったこと。そのおかげで、孤児の私も衣食住には困らなかった」

「その頃から絵を描くのは好きでね、毎日のように、壁や地面に、ゴミ箱から拾った鉛筆やチョークや絵の具で絵を描いてた。たまに外部から人が来た時は、その人たちの持ってる紙や服に絵を描いてあげて、お金を稼いでた」

「そうやって描いていた絵の一部を、師匠が見かけたらしいの」

「自分で言うのも何だけど、私、天才だったみたい。だから師匠が拾ってくれたの。私の身元引受人になってあげると言ってくれた」

「一緒に育った皆と離れるのは悲しかったけど、『もっと素晴らしい絵を描けるようにしてあげる』っていう師匠の言葉に、私は抗えなかった」

「それから、良くも悪くも人生は一変した。師匠の家に住むことになった私は、毎日絵を描いて、毎日絵の勉強をした。他のことは何一つやらなくなった。やらせてもらえなくなった。絵を描くことだけで、私の人生が埋め尽くされた」

「勿論、それは楽しい時間だった。でも、何ていうか、続ければ続けるほど、心の中にある何かがすり減っていった」

「そうやって、絵を描き続けて、ようやく少しだけ絵が売れるようになった時、師匠は私を放り出した。『明日から、面倒は見ない。二度とここを頼るな』と言われて、家を追い出された」

「それが師匠なりの愛だったっていうことは、今なら理解できる。独り立ちさせて、画家として大成させたかったんだと思う」

「でも、当時の私にとっては、ただただ絶望だった。地獄だった」

「それ以降、私はがむしゃらに絵を描いた。それ以外に出来ることが何もなかった。もう何年も、それしかやっていなかったから。それだけが、私が生きていくための方法だった」

「死にものぐるいで努力したお陰で、画家としては成功した。お金にも困らなくなった」

「……ごめん。訂正する。私は大成功した。絵画の歴史に名を刻んだ。目も眩むほどの大金を手に入れた」

「そうやって、何の不自由もなくなった時に、思ったの」

「これが、私の欲しかったものなのかな? ってね」

「贅沢な悩みなんだと思う。でも、考えれば考えるほど、全てが無意味に思えるの。苦しくなるの。死にたくなるの」

「……そんなある日。次に描く絵のモチーフを探し求めて、私は馬車を二日くらい走らせていた」

「そして、闇深い森を訪れた」

「本能的に、危険な場所だと察知することは出来たけど、作品作りに必要な工程だったから、あえて本能は無視した」

「私ね、作品のモチーフを探す時、恐怖を感じる場所へ行くが多いの」

「ポジティブな感情を描くよりも、恐怖や嫌悪みたいな、ネガティブな感情を描く方が得意だから」

「それに、そういう作品の方が、最近はよく売れるし」

「森の中へ踏み込むたびに、警鐘は大きくなっていった」

「そして、それが最大値に達した時、眼前に広がったのは、禍々しく、毒々しく、おどろおどろしく、湖畔に佇む廃城だった」

「――これだ。これを描きたい。これを描かずして死ねない。そう思った。いや、思わされた」

「気付けば、私は鞄から画材を取り出して、地面に広げて、一心不乱に絵を描いていた」

「なぜ、それほどまでに魅入られたのか。我ながら不思議」

「そして、その絵を描き終わった時。私を包んだのは達成感、ではなく恐怖だった」

「自らが描いたはずの絵に、心の底から畏怖の念を抱いた」

「それはね、普段の画風とは似ても似つかない抽象画だったの」

「廃城とその周囲に漂う醜悪な空気を煮詰めて、キャンバスに流し込んだみたいな仕上がりだった」

「でも、それを手放すことも出来なかった。手放せば、絵の中から怪物が這い出てきて、私を殺しに来るような気がしたから」

「恐怖そのものである絵を抱えて、私は馬車を走らせて、必死の思いで自宅に逃げ帰った」

「後で調べると、あの廃城の絵を発表した画家は、過去に四人いた」

「その四人全員が、廃城の絵を描いた後、悲惨な死を遂げていた」

「迷信だと思った。世迷言だと思った。思いたかった」

「でも、思いは打ち砕かれた。異常はすぐに現れた」

「それ以降、私の目は、日を追うごとに劣化していった」

「まるで、眼球だけが凄まじい速度で老いているみたいだった」

「怖くなった私は、目を瞑って生きるようになった。徐々に光を失っていく日々に、耐えられなかったから」

「それからの日々は絶望だった。文字通り、光の無い日々だった」

「目が見えない私には、もう絵を描けない」

「生きていけない。生きている意味もない」

「家の中さえ、満足に歩けなかった」

「極端に人との関わりを避けてきたから、使用人の類を雇っていなかったの。いざという時に頼れる人もいなかった」

「誤って刃物で指を切った。箪笥に思い切り頭をぶつけた。椅子につまずいて転倒した」

「全身が痛くて、辛くて、苦しくて、悲しくて。涙が止まらなかった」

「それでも私は、食事だけはちゃんと摂った。パンを食べると、ほんの少しだけど元気になれた」

「どうやら私は、常人よりも食い意地が張っているみたい」

「だから、無謀にも一人で、買い物へ出かけてしまった」

「ほんの少し、市街地のパン屋さんに行くだけのつもりだった」

「けど、どれだけ歩いても、パン屋の店主さんの声が聞こえてこない」

「不安になった私は一旦、自宅へ引き返すことにした。

これが最悪の選択だった」

「どれだけ歩いても、どこまで行っても、自宅へ辿り着けない」

「今、自分がどこにいるのか、さっぱり分からない」

「お腹が空いた。足が疲れた。転びすぎて全身が痛い」


「そんな時に、ヒノと出会ったの」


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