第4話 親と子①

「とーちゃく!」

馬車が止まった瞬間に、ヒノは勢いよく外へ飛び出した。

私は彼女に声を掛ける。

「はしゃいでどっか行っちゃダメだよ? 私一人じゃ探せないかもしれないし」

「マーちゃんがどこにいたって、ヒノが見つけてあげるよ!」

一切のてらいなく、笑いながら言ってのけるヒノ。

思い出す。この明るさに、私は救われたのだ。

「……ありがと、嬉しい。けど、無茶は止めてね?」

「うん! 無茶しない! 無茶苦茶むちゃくちゃする!」

「ダメ。どっちも止めて」

無茶苦茶しないと約束させた上で、まず私たちは、付近のレストランに入った。

良い意味で、実に凡庸ぼんよう。気兼ねなく食事を楽しめる、大衆向けの店だ。

適当なテーブル席に腰を下ろし、メニューが記された厚紙を広げる。

「カレー食べたい! このナンみたいなやつ食べたい!」

「ナン? モッチーニのこと?」

「うん!」

そういえば、カレーのルーツは未だ明らかになっていないらしい。一説によると、異世界からやってきた人間が広めたとも言われている。ありえない与太話よたばなしだけど、嫌いじゃない。そう言われても納得できてしまうくらい美味しいし。

カレーについての深淵なる思索は、隣席での会話によって一時中断される。

「母さん、これ、すごく美味しいよ」

すごく美味しい? 何がだろう。気になる。見たい。見れない。ぐぬぬ。

匂いから判断しようと、鼻をひくつかせる。デミグラスソースの焼ける芳香。ハンバーグかな? 

……ハンバーグカレー食べたい。

おそらく隣のテーブルでは、少年と母親が食事していると思われる。

母親らしき女性が張りのある声で応じた。

「あら、本当ね。こっちのステーキも美味しいわよ。食べてみて」

「いいの? ありがとう」

「当たり前じゃない。私、貴方の母親よ?」

「美味しいなぁ。幸せだなぁ」

穏やかで、和やかな、親子の食事風景。

聞き耳を立てていると、店員のおばさん(多分)が、お冷とおしぼりを持ってきてくれた。

「お嬢ちゃん、気になるの?」

「え? あ、えっと、はい。そうですね。若干」

 そんなに露骨だったかな。恥ずかしい。

 私のはしたなさを気にすることなく、おばさんは教えてくれた。

「あそこの親子は本当に仲良しでね~。あんな感じで、いつも一緒なのよ~」

「マーちゃんとヒノみたいだね!」

元気よく返す隣にヒノ。おばさんがヒノを見やる。

「ヒノたちもね、仲良しなんだよ! すっごくすっごく仲良しなんだよ!」

彼女の嬉しそうな面持ちに、おばさんは柔らかい声を発した。

「あらあら、素敵な妹さんねぇ」

「あ、ありがとうございます」

嬉しいけど、こういう時、どういう顔をすればいいのか分からない。自分が今、どんな顔をしているのか分からないのも困る。

どうにか真顔を作ろうと努力していたのだが、徒労とろうに終わった。

店内に怒鳴り声が響いたせいで、それどころではなくなった。

「おい! テーブルにひじを置くな! 行儀ぎょうぎが悪いぞ!」

「うっさい! そっちこそ、お店の中で大きな声出さないで! 迷惑でしょ!?」

酒とたばこで潰れた、男性のダミ声と、刺々しく甲高い、少女の声。なかなかの迫力だった。

野次馬気分で言葉の続きを待っていると、指先に温かい感触を覚えた。

「……ヒノ?」

すぐにヒノの手であると気づき、どうしたのかと尋ねる。

彼女は少し上擦った声で答えた。

「急に大きな声がしたから、ビックリしたでしょ? 怖いでしょ? だから、握っててあげるね」

彼女の震えが、胸中が、小さな手を介して伝わってきた。

「……ありがと。ヒノは優しいね」

「うん、優しいよ。だから離さないよ」

きゅっと、手の力を強めるヒノ。

無理もない。男性の大声は、ヒノにとってトラウマそのものだから。

励ましの代わりに、手を握り返した。

そうこうしている間に、ケンカが再開。

「あーあ、あんたの顔を見てると、料理が不味くなる」

「何だとぉ! それが親に対する口の利き方かぁ!」

 愚痴る少女。がなる男性。何というか、これまた絵に描いたような仲の悪い親子である。

 これ以上、店内で揉めるようであれば、軽く注意してみるか。ヒノを怖がらせるような相手に、ただただ黙っているのはしゃくだし。

 幸か不幸か、その決意は無駄に終わった。

「もういい! オレは先に帰る!」

言い捨てて、テーブルを叩き、男が店を出て行った。出入口の方から、荒々しく扉を開閉する音が聞こえた。

それから五分と経たず、女性は店員さんに声を掛ける。

「……すいません。お会計お願いします。おつりは結構です。あいつと話したくないので」

ふむ。つまり、お釣り云々の会話すら億劫おっくうということか。

音を頼りに、退店する女性を見送っていると、店員のおばさんがまた話しかけてきた。

「あそこの親子は、いっつも喧嘩ばっかりしてるのよ~。もう少し、何とかならないかしらねぇ~」

心底うんざりしたような嘆き。無理もない。店からすれば大迷惑だし。

同情の念を抱いていると、ヒノが何気なく呟く。

「何で、あんなどうでもいいことで、あんなに喧嘩するんだろうね」

「争いって、大抵そういうものだと思うよ」

人はどうでもいいことで怒るし、他者を傷つけるし、割と簡単に命を奪う。そういうものだ。

ネガティブに傾いた気持ちを、スパイスの馥郁ふくいくたる香りが引き戻す。店員のおばさんが嬉しそうに言った。

「お待たせ~。はい、カレー」

よっしゃ。全ての思考は瞬間的に吹っ飛んだ。


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