三月八日 朝 (一)
八月七日 朝
「なあ、今日学校で泊まんね?」
天木紅(こう)が、自分が所属するグループのメンバーに爛々とした目を向け誘う。
「泊まるってどうやって?」
優等生として教師の間で通っている、遠野藍(あい)は不安そうな顔を天木に向ける。彼女は、県下で有名な私立女子校に推薦で進学することが決まっている。
「そりゃあ、あそこの窓の鍵を開けておくんだよ。」
「ああ、あそこか」
新田玄(げん)は、少し笑みを浮かべて天木の方を見る。天木はそうだとでも言うように目を開く。
「どこなの?」
藍はまだ不安を抱いている様子だ。勝手に納得している男子二人に怪訝な表情で尋ねる。
「一階にある美術室の鍵だよ。前、掃除の担当だったときに開けておいて、玄と一緒に夜来たんだよ。ほら、あそこの担当サト爺なんだよ。」
な?と天木と新田は顔を見合わせて笑う。
サト爺とは、六十代前半ぐらいの美術の非常勤教師である佐藤先生のことだ。四十五分の授業がもう限界なのだろうか、生徒らの作業中に居眠りをしている姿が度々目撃されている。
「えー、でもなぁ」
それでも、藍の不安は解消されない。
「紫(ゆかり)はどう思う?」
ここまで腕を組んで話を聞いているだけだった千原紫に藍は意見を聞く。
「私は、面白そうだし参加しようかな。どうせ明日で卒業だしね。」
紫は、さっきまで組んでいた腕を解き藍の肩に手を置く。
「えー、帰りまでに考えとくよ。」
藍は、自分の後ろにいる紫、首だけ上を向きそういう。
「お?藍の〝考えとく〟は、ほぼ同意だからな」
天木、新田、紫の三人は、互いにしたり顔を見合わせる。
「あれ、なんでみんな集まってんの?」
通学用かばんを背負っている小松茜(あかね)が目を丸くしながら、四人の集団に加わろうとする。
「今日、みんなで学校に泊まろうって話をしてたんだよ。茜はどうする?この四人は決定だぜ。」
天木が周りを気にしながら茜を誘う。
藍は、「ちょっと、私はまだ」と口ごもるが「やろうぜ藍」と新田に爽やかな笑顔を向けられ否定の言葉を飲み込み下を向く。
「私は―」
「来るよな?」
藍は、まだ下を向いているが、それ以外の三人は活き活きとした表情を茜に向ける。
「もちろん、行くよ」
「じゃあ、決まりだな」
天木が手を叩く同時に、教室の扉が開き教師が入ってくる。そして、各々のグループで雑談を楽しみ、ゆるんだ雰囲気を作っていた中学生らは自分の席に戻り、静かな空気を教室に作り出した。
**************
授業は高校受験が近いため自習だった。とっくに進路を決めた推薦組は居眠りをしたり進学先の高校から出された課題を行ったりとそれぞれだ。
遠野藍は、高校からの既に大学受験を意識させる課題を行っているが、外を見たり、前髪を手で梳いたりしながら全く集中することができない。
終了の予鈴が鳴り、二時間目が終わった。遠野藍は、英単語をいくつかノートに書き写したが、全く暗記できなかった。
「藍は、この時間何やってたんだ?」
二つ後ろの席の新田が、ズボンのポケットに手を突っ込みながら藍の席に来る。ズボンには、白い汚れが付いている。
「高校からの課題だよ。」
藍は、机の奥に手を伸ばし伸びをする。そして、プリントを自分と新田の視線の間に差し込む。
「さすが、有名進学校は違うねー」
新田は、藍の手にあるプリントを上からすっと抜き取り、そこに書いてある英文を流し見する。
「玄なら読めるでしょう?」
新田玄は、勉強ができる。藍よりも毎回テストの順位は上だ。それに、新田が受験する高校は県で最難関の公立高校であるG高校だ。
「読めないよ。マジで」
藍は、ため息を吐き出し、新田の手からプリントを奪い取る。新田は「おっ」小さく声を漏らしたが、手をポケットに戻し、微かな笑みを浮かべる。
「そんなことより、夜は楽しみだよなあ」
「ち、ちょっと」
新田が思ったより大きな声を出したので藍は周りを見渡す。
次は、理科の授業で移動教室だ。教室にいるのは、理科実験教室へ向かう友人がいない生徒のみだ。彼ら彼女らは、伏せていた顔を上げ、一度周りをきょろきょろとし、予定が書かれている黒板を一目見てから席を立つ。机の上には、理科の教科書とノートが既に置かれていたのに。
「聞かれてヤバい奴は、今いねえよ。」
藍の行動の意図を読み取り、新田はさらに大きな声でそう言った。
机で伏せていた彼らは、教室から出て行こうとしていた。一度新田の方を見た気がした。
「私は、まだ不安だよ。」
藍は、引き出しから理科の教科書とノートを取り出す。その教科書には、付箋が上と横から飛び出ていた。
「藍は本当に真面目だな。今日で最後だよ?」
新田も、自分の席に戻り、引き出しからノートを一冊だけ取り出す。そして、教室の後ろへ向かい、ロッカーから教科書を取り出す。ロッカーの上には『教科書類は持って帰ること!置きっぱなしにしない』と書かれた張り紙がある。
「最後の日に学校に泊まるって何か良いじゃん。」
藍は新田の待つ扉へ向かい、二人は共に教室から出て行く。
「それは、分かるけど。」
「俺は、藍が来たら嬉しいよ?」
新田は、自分の肩より下にある藍の一重で下にくまのある目を見つめる。藍の瞳には、新田の女子のようにまつ毛が長く、二重ではっきりとした目が映っているだろう。
そして、藍はすっと視線を薄汚れた廊下の床へ移し、「私も行く」と小さくつぶやいた。
予鈴が鳴る。
二人は少し遅れて理科実験教室へ入る。
藍は、初めて授業に遅刻をした。
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