45 月光
翌日、朝。
ヴァン・ヘルシングは期待を胸に伯爵が来るのを今か、今かと待っていた。
いつも通り伯爵が作ってくれたサンドイッチを食してココアを飲み干し、伯爵が来るまでの間ヴァン・ヘルシングは松葉杖の歩行練習をしていた。どうしても落ち着けなかったのだ。今日この日をもってリーケにはギャフンと言わせ――なくとも、彼女のしがらみを断ち切って気持ち良く入院生活を送って退院したい。その思いでいっぱいだった。出来れば伯爵には、リーケより先に来ていてほしいのだが……。
リーケがやって来た時に、“息子”が以前会った男だと思い知った時の愕然とした顔を拝んでやりたい――わけではないが、ヴァン・ヘルシング自身、彼女には嫌な思いをされたことに変わりはないので、やはり少しぐらいギャフンと言わせてやってもいいだろう、と改めて思い、自然と歩行練習に力が入った。
ソワソワしながら時間が過ぎていき、伯爵が来る気配は全くなく、あっという間に正午を迎えてしまった。ヴァン・ヘルシングは焦りを覚えながら窓の外を眺めるが、日常の風景が見えるだけで、心の憂さ晴らしにもならなかった。そうこうしている内に、ヴァン・ヘルシングさぁん! と弾んだ女性の声が病室に響き渡った。ヴァン・ヘルシングは固唾をのみ、声の方に振り向いた。案の定リーケがトランク一つを携え、昨日よりも華やかな出で立ちで――以前見たことのあるドレスに、首元にブローチを着け、異様に白い顔で――佇んでいた。
リーケは駆け寄ってくるとヴァン・ヘルシングにペコペコとお辞儀をしてきた。
「昨日はごめんなさいね? 息子さんの写真があるんじゃないか、って思ったらいてもたってもいられず開けちゃったのよぉ……。もうあの看護師ったら大げさすぎてびっくりだわ!」
ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべ、そうでしたか、としか言えなかった。
……こっちもびっくりだ。
ヴァン・ヘルシングの周りに誰もいないことに気づいたリーケは目をパチクリさせて、ヴラドさんは? と尋ねてきた。ヴァン・ヘルシングは残念そうに首を横に振った。
「生憎まだ来ていないんです……」
本当に“生憎”だ。ヴァン・ヘルシングは大きなため息をついた。するとリーケは表情を一変させ、がっかりした様子で、なーんだ……と呟いた。
「こんなに頑張ってきて損したわ」
リーケは自身のドレスの裾を掴み、ひらひらとはためかせると、ヴァン・ヘルシングの方はどうでもいい、とでも言うように昨日と同じくトランクを持って、モンスが使っていたベッドに我が物顔で座り、入り浸った。ヴァン・ヘルシングは再度大きなため息をつき、何で来ないんだ、アイツ……と心の中で伯爵への愚痴を連ねた。
ヴァン・ヘルシングは失念していたのだ。吸血鬼である伯爵にとって、血が吸えていないということがどういうことなのかを――。
昨日の件があったので看護師たちが時々リーケを退室させようとするが、それをヴァン・ヘルシングが仕方なく制止した。その度にリーケは看護師たちを見下すように嗤うのであった。
……もしかしたら、もうすぐで来るかも知れない。
ヴァン・ヘルシングはリーケの大人げない様子にため息をつきつつ、首を長くして伯爵の来訪を待った。
外はまだ昼間のように明るいが、あっという間に午後の6時を迎えてしまった。リーケは痺れを切らしたのか、ベッドからスクッと立ち上がるとヴァン・ヘルシングの元まで歩み寄ってきた。
「ちょっと、いつになったら息子は来るのよ!?」
ヴァン・ヘルシングは目を泳がせながら、もう少し待ってほしい、と不本意ながらお願いした。リーケは苛立った様子でフン! とそっぽを向くと元のベッドへ戻っていき、ドスン! と勢いよく座った。ヴァン・ヘルシングは胸元を押さえ込んだ。
……穴があったら入りたい。
そう思いながら深呼吸をし、心を落ち着かせようと努めた。
それから数時間が過ぎ、ようやく外は日没を迎え、外は薄明かり色に染まり始めた。一人の看護師がヴァン・ヘルシングに、そろそろ消灯しますよ? と告げるが、ヴァン・ヘルシングは、老人の頼みを聞いてほしい、と言わんばかりに、もう少し待ってほしい、と返し、小声で付け加えた。
「……彼女に紹介したい人がいまして……」
ヴァン・ヘルシングは斜め向かいのベッドでだらりとくつろいでいるリーケを盗み見ながら看護師に言った。看護師は驚いた表情を浮かべ、しょうがないわね……と大目に見てくれた。ヴァン・ヘルシングは看護師に詫びると、伯爵が来たら先ず何てとっちめてやろうか、と考えながら口元を歪ませた。
それからほどなくして、ふわり、とココアの香りがしたような気がしてヴァン・ヘルシングはとっさにヴラド! と病室入口に向かって声を上げた。つられてリーケは勢いよく立ち上がると慌てて身だしなみを整え、入口に向かって小走りで駆けていった。
「ヴラドさん!――え?」
確かに入口には誰かが立っていたが、それは伯爵ではなかった――。
「お呼びかしら? “お父さま”」
グラスハープのような美しい響きの、女性の声が聞こえた。入口に佇んでいたのは女姿の伯爵――カタリーナだったのだ。ヴァン・ヘルシングはその声にドキリとし、目をかっ開いてカタリーナを見つめた。
……何でその姿なんだっ!?
カタリーナはふふっ、とヴァン・ヘルシングに不敵な笑みを浮かべた。二人の間で置いてけぼりにされたリーケはすぐさまヴァン・ヘルシングに駆け寄った。
「ちょっと! ヴラドさんは? あの女誰よっ!?」
リーケは発狂寸前と言わんばかりにヴァン・ヘルシングをまくし立てた。当のヴァン・ヘルシングも瞬きをすることしか出来ず、何も言い返せなかった。するとカタリーナは威厳のある美しい声で言った。
「わたしの“婚約者”に何か用かしら? 彼はまだ忙しい故、代わりにわたしが来た次第でしてよ」
そう言いながらカタリーナは優雅な足取りでヴァン・ヘルシングとリーケの元に歩み寄ってきた。リーケはカタリーナのその優雅な立ち姿や美しく艶やかな黒髪、色白の肌、赤い唇、それらを引き立てる高価な黒いドレスと淡い金色のカメオの髪留め、そしてその美貌に言葉を失い掛けた。だが、持ち前の図々しさでカタリーナに詰め寄った。
「こ、婚約者ですって!? 結婚はしてないって――」
「“まだ”ね? それで、わたしの婚約者に何か用でもあって?」
カタリーナはリーケをまるで世間知らずな女、とでも言うように眺めた。リーケはその視線にたちまち劣等感と羞恥心を覚えたのか、ヴァン・ヘルシングに向き直って、ボソボソと呟くように言った。
「ヴァン・ヘルシングさん、やっぱりわたし、あなたの――」
「おや? 手のひら返しかね? この横取り女」
ヴァン・ヘルシングとリーケの間にカタリーナが、先ほどとは表情を一変させてさっと入ってきた。その瞳は地獄の炎のように真っ赤に燃え上がり、口調もいつもの伯爵に戻ってしまうほど、“彼女”は怒りに満ちていた。
「エイブラハムは余のものだ。横取りは許さんぞ」
カタリーナは険しい口調でリーケをまくし立てた。リーケはうろたえつつ返す。
「さっきから何様なの!? ヴァン・ヘルシングさんの義理の娘になるくせに馴れ馴れしい呼び方! 教育がなってな――」
「余は――わたしは彼のパトロンだ。こう見えてわたしは貴族の出なのでね?」
カタリーナはふぅ、と息をつき落ち着きを取り戻すと得意げに笑みを浮かべ、呆然と固まっているヴァン・ヘルシングの隣に座った。そして艶めかしくヴァン・ヘルシングに擦り寄ると彼の腕に縋り付いた。リーケは今度こそ“彼女”には刃が立たないと悟ったのか、震えた声でもらした。
「き、貴族っ……? む、息子だけでなく、その父にも手を出すなんてっ、こ、この物好きっ、下品だわ!」
最後の悪あがきのようにリーケが怒鳴ると、カタリーナは鼻で笑って言った。
「結構。わたしは、自分の欲しいものは何でも手に入れてみせるぞ。たとえ“死んでも”ね? だが、そんなにエイブラハムに取り入りたい、と言うなら持参金として1万ドゥカート持って来るがいい!」
「い、1万ドゥカートッ!?」
驚きの金額にリーケはただ呆然と突っ立っていることしか出来なかった。そんなリーケをよそにカタリーナは、ヴァン・ヘルシングの胸元に頬を寄せると――ヴァン・ヘルシングはヒュッ! と息をのんだ――、勝ち誇ったように、改めてリーケに向かって言った。
「“Dieser mann gehört mir.”」
カタリーナのその姿は何とも妖艶で、不思議で、この病室内で唯一異様に光り輝いているように見えた。よくよく見れば影がないのが分かるが、リーケにはそれを見抜くほどの余裕はなかった。ヴァン・ヘルシングは“彼女”に影がないのを必死に隠そうと、“彼女”の肩を、不本意ではあるが抱き寄せた。
……これではまるで、息子の嫁に手を出してる親父じゃないか……。
ヴァン・ヘルシングは大きなため息をつき、未だに自分の胸に頬を寄せているカタリーナを、眉をひそめて見下ろした。カタリーナはそんな彼を上目遣いで見上げ、嬌笑した。それにはヴァン・ヘルシングも悩殺されそうになり、顔を赤らめてそっぽを向いてしまう始末だった。
そんな仲睦まじく見えるさまを見せつけられたリーケは自身の醜態を思い知らされ、後ろめたそうにそそくさと退散していったのであった。
それから少しして、ようやく病室に静けさが戻ると看護師が二人の元にそろそろとやって来た。
「ヴァン・ヘルシングさん?」
「はいっ」
ヴァン・ヘルシングは我に返り、慌ててカタリーナを離すと、裏返った声で返事をした。
「電気消しますよ?」
「お、お願いします……」
ヴァン・ヘルシングが申し訳無さそうに言うと、看護師はカタリーナをまじまじと見つめた。
「さっきのやり取り聞いてしまったんですが、息子さんのお嫁さんということですけど……息子さんに雰囲気が似てるわね」
看護師の言葉にヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
……同一人物だもんな。
ヴァン・ヘルシングは隣に座るカタリーナを、微苦笑を浮かべて見つめた。カタリーナは何も言わずにただ首をかしげ、ヴァン・ヘルシングのことを上目遣いで見つめ返していた。
電気が消され、病室内は薄暗くなった。窓からはいつの間にか月光が差し込んでおり、ベッドにヴァン・ヘルシングと窓枠の影を落とした。カタリーナの影だけなく、隣に座る“彼女”は月の光を受け止めることなく、まるで幽霊のように薄らと透けて輝いてるように見えた。それが神秘的でヴァン・ヘルシングは黙りこくってしまった。
二人の間に静寂が流れ、気まずくなってしまったのか、ヴァン・ヘルシングが静かに切り出した。
「……もうリーケさんは去ったのに、元の姿に戻っても良いんじゃないのか?」
カタリーナは少し考える素振りを見せると小さく微苦笑を浮かべて姿を歪ませた。闇のように黒い霧が小さく集まり始め、現れたのは真っ黒なコウモリだった。
『ほれ、今夜も俺の毛並みに癒されるがいい』
コウモリは伯爵の声で言うと、ヴァン・ヘルシングの膝の上に這い上がってきた。そして真っ赤な目を月光の中キラキラと輝かせて彼を見上げた。ヴァン・ヘルシングは顔をほころばせると、コウモリを優しく持ち上げて自身の首元に抱き寄せた。コウモリが翼のある腕を彼の首に回す。
「全く……このもふもふめ……。看護師に見つかるなよ?」
「キィ」
ヴァン・ヘルシングはベッドに横になると、口元まですっぽりと掛け布団を掛け、コウモリの背を撫でながら、すぅ……と眠りについたのであった。
後日、ヴァン・ヘルシングにはもう一つ、看護師たちの間で噂が立ってしまった。
「ヴァン・ヘルシングさんって、息子さんの婚約者と“出来てる”らしいわよ」
「泥沼の三角関係!?」
それを偶然聞いてしまったヴァン・ヘルシングはベッドの上で項垂れるのであった。
……アイツのせいで、私に変な――否、不名誉な噂が立っちゃったじゃないかっ! これだから一部の女性は信用出来ないんだ!
※15世紀、ヴラド三世はワラキア公に再び即位した後、ハンガリー王国と対オスマン帝国の同盟を交わすが、オスマン帝国から要求された貢納金6,000ドゥカート(ダカット)も納めていた。だがその後、貢納金が1万ドゥカートに値上げされ、それを期に支払いを拒否した。オスマン帝国が貢納金を請求しようと使者を送ると、ヴラド三世はその使者に対し、ターバンを外せ、と迫った。しかし使者が宗教上の理由でそれを拒否したため、無礼だとしてターバンごと頭に釘を打ちつけて殺したのは有名な話。
1ドゥカート金貨は約3.5グラムの純金なので現在の価値(2024年10月末で純金1グラム約14,600円のレート)で1ドゥカートは約51,100円。
1万ドゥカートを現在の価値に直すと、約511,000,000円となる。0が多い……。
“Dieser mann gehört mir.”―(“This man belongs to me.”)
因みに蘭語だと“Deze man behoort mij.”ドイツ語に似てますね! きっとリーケには通じてたでしょう。
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