46 父親

 “リーケ騒動”を無事に乗り越え、それから数日が経った6月末の夜。あの日の夜以降リーケがやって来ることは一度もなかった。

 リーケによるヘラルト・モンスへの毒殺は未遂かつ確固たる証拠もなかったのでヴァン・ヘルシングはとくに警察に通報することもなく今回の騒動は静かに幕を閉じた。だからといってまたリーケが他の男に取り入ろうとするのでは? とヴァン・ヘルシングは懸念を抱いたが、コウモリ姿の伯爵が、案ずるな、と“言う”のであった。

『案ずるな、エイブラハム。あの女はもう男に声を掛ける度胸など少しもあるまいよ。それに己の力で財を成せない者は害悪でしかない。火炙りにでもしてやりたかった……』

 リーケはあの日の夜、伯爵の女姿――カタリーナの美しさと自分を比較してしまい、虚栄心も自尊心さえも完全に砕け散ったのだ。コウモリの言葉に――最後の一言は置いておいて――ヴァン・ヘルシングは胸を撫で下ろした。

【ヴラド三世は、ワラキア公国内の無職の者や働けない障害者、病人に食事を振る舞う、として一箇所に集め「苦しみから逃れたいか?」と尋ね、彼らが「はい」と返事をすると火炙りにした、という伝承がある。一部の専門家は、黒死病を蔓延させないためだったのでは? とも】

 それからまた数日が経ち、既にリーケのことは解決しているのに伯爵は昼間、ヴァン・ヘルシングの元を訪れることはなかった――。


 7月に入った。その頃にはヴァン・ヘルシングは、未だに松葉杖は必要だが、以前の歩調を取り戻していた。今月末には退院出来るだろう。

 ヴァン・ヘルシングは担当医から退院許可がもらえるのを今か、今かと待っていた。大学はどうなっているのだろうか? 講義はどのぐらい進んでいるのか? 学生たちはちゃんと勉強をしているだろうか? そんな不安の片隅でここ2ヶ月の間、昼間に伯爵に会えていないでいることも気掛かりになっているのであった。

……ヴラドは今、何をしてるんだろうか?

 そう思いながらヴァン・ヘルシングは、どこまでも晴れ渡る夏の爽やかな青空を、ベッド脇の窓から眺めていた。


 その日の昼。

 ヴァン・ヘルシングの担当医が、彼が驚きの早さで回復しているのに関心し、少し早く、2週間後に退院の許可を出してきた。ヴァン・ヘルシングは澄まし顔で聞いていたが、内心では舞い上がっていた。

……よし! もうすぐで家のベッドでぐっすり眠れるぞ! ヴラドにも伝えないとな。


 消灯時間を迎え、窓の外は夕暮れのようにオレンジ色に染まっていた。日没の時間が刻々と早くなっていってるのをヴァン・ヘルシングは実感しつつ、そわそわとベッドに横になった。

 日没が終わると空は薄明かり色に染まり、昼でも夜でもない、刹那的な時間が訪れた。ヴァン・ヘルシングは薄暗い病室内を、ちゃんと見えもしないのにチラチラと見渡した。

 それから少しして――。

 

――ブラム……エイブラハム……。


 伯爵の声が聞こえたような気がして、ヴァン・ヘルシングはすっと目を開いた。どうやら寝てしまっていたらしく、ヴァン・ヘルシングは慌てて身体を起こそうとすると、何かに胸元を軽く押さえられた。

「ヴラド……?」

 ヴァン・ヘルシングが呼び掛けると、胸元の掛け布団がもぞもぞと動いて縁が少し浮き上がった。そこから2つの真っ赤な目が現れると、伯爵の声がした。

『今日は寝てしまっていたね。起こしてしまった。すまない……』

 そう言って這い出てきたのは大きなコウモリだった。コウモリは首をかしげ、ヴァン・ヘルシングを見つめた。ヴァン・ヘルシングは、構わない、とでも言うように目を細めるとコウモリの頭を撫でた。コウモリは安堵したのか小さな耳をヒョコヒョコと動かしてヴァン・ヘルシングの首元まで這っていくと、彼の首筋に縋り付いて頬ずりをした。ヴァン・ヘルシングはくすぐったそうに笑みをこぼすと掛け布団を口元まで引っ張り寄せ、コウモリをすっぽりと覆った。

「ヴラド」

『何だね? エイブラハム』

「2週間後に退院が決まったんだ」

 ヴァン・ヘルシングがそう言うと、首元のコウモリがピクリと反応したのが分かった。

『そうか。ではその日の夜はご馳走にせね――』

「昼に迎えに来てくれるか……?」

 コウモリの言葉を遮るようにヴァン・ヘルシングが静かに言った。そんなヴァン・ヘルシングの胸元が、次第に早鐘を打ち始めているのがコウモリには分かった。

……観念せねば……。 

 コウモリは小さくため息をつくと、キィ……と小さく鳴いた。


 2週間後。

 ようやく退院日を迎えたヴァン・ヘルシングは朝から持ち込んでいた荷物をまとめ、トランクに詰めていた。昼頃に伯爵が来るはずだ、とヴァン・ヘルシングはいそいそと荷物をまとめつつ窓の外を眺めた。

 今日も空は夏の青空が広がり、爽やかな風が街路樹の青葉を揺らした。

 荷物をまとめ、着替えも終え、余った時間を読書で潰す。だが、全く読書に集中出来ず、ついつい病室の入口をチラチラと見てしまう始末であった。

 太陽が真上に昇ってきた頃、病室入口の方から看護師たちのざわめく声が聞こえた。そちらに顔を上げてみれば、ヴァン・ヘルシングは思わず目を見開いた。病室の入口に立っていたのは高身長で痩せ型の、白髪の老人だったのだ。白髪の老人は数人の看護師に囲まれていたが、老人は優雅に会釈をすると看護師たちの間を縫って病室に入ってきた。老人がこちらに近づくにつれ、ヴァン・ヘルシングの鼓動が早くなっていく。

 老人がヴァン・ヘルシングの元にやってきた。ヴァン・ヘルシングはただ呆然と老人を見上げることしか出来なかった。何を隠そう、その老人は伯爵だったのだ。

……ヴラド……? 何で昼間に“変身”してるんだ?

 老人――伯爵は微苦笑を浮かべると、ベッド脇の椅子に座り、ベッドに腰掛けているヴァン・ヘルシングと向かい合った。

「すまない、このようなみっともない姿で……」

 伯爵は老人のようなしゃがれた声で言うと、どこか覚束ない表情でただヴァン・ヘルシングを見つめていた。

「ヴラ、ド……」

 ヴァン・ヘルシングは動揺に声を震わせながら、そっと手を、伯爵の手に伸ばした。伯爵の手に手を置くと、その氷のような冷たさに一瞬手が震えてしまい、以前よりも骨ばってしまった手や痩せこけてしまった頬、落ちくぼんで見える目の長いまつ毛や筋の通った鼻、髪と同じく白い口ひげ、上唇からのぞく二本の白い犬歯が際立って見え、そして白くなってしまった髪に目が釘付けになってしまった。ヴァン・ヘルシングはようやく思い出した。最近血液を吸えてないでいた伯爵にとって、力を回復させる手段が棺で眠るのみ、ということを……。そして若さを保つには血液が必要だということを――。ヴァン・ヘルシングは悔やむように大きなため息をついた。

「すまん、ヴラド……。俺は無神経だった。こんな状態で昼間に来いって、鬼畜だな……?」

 ヴァン・ヘルシングは眉をひそめて自嘲するように言うと、静かに伯爵の手から手を離した。伯爵はただ静かに、困ったように眉を寄せて小首をかしげた。

 二人の間に沈黙が流れ、ヴァン・ヘルシングが気まずさを感じていると、ヴァン・ヘルシングさん、と声がした。そちらに振り向くと、ヴァン・ヘルシングの担当医とその隣に看護師がいた。

「こちらの方は?」

 担当医が伯爵の方を向いた。伯爵はゆっくりと立ち上がると、担当医に言った。

「余は――わしはエイブラハムの“父”だ」

 伯爵の返答にヴァン・ヘルシングは思わず瞬きをしてしまった。

「ヴァン・ヘルシングさんのお父さんでしたか。“お孫さん”とそっくりですね。あ、お孫さんがお祖父様にそっくりなのか……」

 担当医は呟くように言うと、改めてヴァン・ヘルシングに向き直った。

「本日でご退院ですね、ご苦労さまでした。下の受付に寄って、お気をつけてお帰りください」

「はい、ありがとうございました」

 ヴァン・ヘルシングが担当医に会釈すると担当医はきびすを返して立ち去っていった。

「ヴァン・ヘルシングさん、ご退院おめでとうございます」

 看護師がそう言うと、伯爵が言った。

「わしの“せがれ”が世話になった。エイブラハムに何かあれば“死んでも死にきれん”。わしの愛した人と同じ瞳をしている」

 伯爵の言葉に看護師は、感銘を受けた様子で頬を染めた。

「まあ! ヴァン・ヘルシングさんのお父さまってロマンチストですね! では、お大事にしてください」

 看護師は担当医の後を追って立ち去った。

「では、エイブラハム。帰ろう……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングのトランクを軽々と持ち上げると、一足早く病室を後にしてしまった。ヴァン・ヘルシングは松葉杖を突きながら伯爵の後を追った。

 入院費の支払いを終えて――伯爵が一括で払った――アムステルダム市立病院を出ると、爽やかな風が吹いてきた。外は晴れやかなのに、ヴァン・ヘルシングの心の中は何故かどんよりとした曇り空だった。隣を歩く伯爵をそっと見上げるが、伯爵はただまっすぐ前を向いているだけでちっともこちらを見てこない。

 この度の入院生活では、伯爵には多大な負担を掛けさせてしまった、とヴァン・ヘルシングは後ろめたさを感じた。家に帰ったらすぐにでも血を……。そう伯爵に言おうとすると、伯爵が真っ先に口を開いた。

「帰ったら寝かせておくれ……。少し、疲れてしまった……」

「あっ、ああ……」

 ヴァン・ヘルシングは焦って一言返すことしか出来なかった。

 久々に家に帰ってくると、伯爵はすぐさま自室へ行ってしまった。残されたヴァン・ヘルシングは自室で部屋着に着替えると、ベッドに腰掛けて夢うつつで日が暮れていく窓の外を眺めていた。


 鼻腔をくすぐるようないい匂いがして、ヴァン・ヘルシングは、はっ! と目を覚ました。窓の外を見れば既に真っ暗で、中庭の向こう側に立ち並ぶ家々の窓が煌々と光を放っていた。

 ヴァン・ヘルシングは松葉杖片手におもむろにベッドから立ち上がると、自室を出て薄暗いホールを歩き、キッチンをそっとのぞいた。キッチン内は昼間のように暖かく、いつの間にか天井には電球が付いており、室内を淡く照らしていた。キッチンストーブの前には未だに老人姿の伯爵の後ろ姿があり、その背後の作業台にはホカホカと湯気を立ち昇らせる料理が並んでいた。

「……エイブラハム、起きたかね」

 伯爵がゆっくりと振り向いてきた。ヴァン・ヘルシングは自分よりもさらに年寄りに見える伯爵の姿に再度驚きの表情を見せると、恐る恐るキッチンへ入った。

「あ、ああ……」

「いつものように、ここで食べるかね……?」

 伯爵が静かに問い掛けてきた。ヴァン・ヘルシングは小さくうなずく。

 伯爵はキッチンストーブから小鍋を離すと、木べらで中身を皿にあけ、作業台に置いた。それはルーマニアの伝統料理、ママリガだった。

 ヴァン・ヘルシングは松葉杖を作業台に立て掛けて脇の丸椅子にぎこちなく座り、並べられている料理を眺めた。ママリガにスタンポット、肉団子のスープにパプリカの肉詰めなどが並べられ、晩ご飯は豪勢だった。ヴァン・ヘルシングは伯爵からスプーンとフォークを受け取ると、早速スタンポットをすくって頬張った。

「……おいしい」

「……それは良かった」

 静かにそう言いながら伯爵はパプリカの肉詰めを小皿に移し、ヴァン・ヘルシングの前に置いた。

「“アルデイ・ウンプルツィ”だな……?」

「……御名答」

 ヴァン・ヘルシングはフォークでパプリカの肉詰めを持ち上げ口いっぱいに頬張った。


 異様に静かな夕食の時間が過ぎていき、二人はいつの間にか作業台を挟んで向かい合って座っていた。二人の間には静寂が流れており、お互い相手を見ようとせず手元に視線を落としていた。この気まずい空気に耐えられなかったのかヴァン・ヘルシングが口を開いた。

「ヴラド……今日は迎えに来てくれて、ありがとう……。その――」

「こたびは俺のせいで君を危険な目に遭わせてしまった。済まなかった……」

 伯爵は眉を寄せ、上目遣いでヴァン・ヘルシングを見つめてきた。いつもの伯爵とは思えない――見た目のせいもあるが――気弱そうな眼差しに、お互いに自責の念があったことに気づいたヴァン・ヘルシングはどこか安堵と申し訳無さを覚え、深いため息をついた。伯爵がビクリと姿勢を正す。

「ちょっと待っててくれ」

 ヴァン・ヘルシングは松葉杖を取って立ち上がると、そそくさとキッチンを後にしてしまった。

 少しして戻ってきたヴァン・ヘルシングは、手術用の鞄を持っていた。

 ヴァン・ヘルシングは作業台の上に鞄を置くと、注射針と管を取り出した。ワイシャツの左袖を捲り上げ、内肘を露わにする。慣れた手つきで注射針を自身の内肘に構えると何のためらいもなく刺した。注射針に繋がる管にヴァン・ヘルシングの血液が流れ込み、管を赤で満たしていった。

「ヴラド、遠慮するな」

 ヴァン・ヘルシングは管の先を伯爵に差し出した。伯爵はただ管を見つめるだけで受け取ろうとしない。

「俺、もう怪我も骨折も治ったぞ?」

 そう言ってヴァン・ヘルシングは管の先端を伯爵に押し付けるように差し出した。

「……ならば、少し……頂こう」

 伯爵は小さな声で呟くように言うと、ようやく管を受け取って遠慮がちに咥えた。

 伯爵が血液を食している間、ヴァン・ヘルシングは左腕を作業台にゆったりと伸ばし、伯爵が自身の血液を吸っているのを眺めていた。何時間も吸われているような感覚になったが、今のヴァン・ヘルシングには全く苦ではなかった。

 次第に眠気を覚えたヴァン・ヘルシングは船を漕ぎ始めていた。それに気づいた伯爵は吸血をやめると、ヴァン・ヘルシングの腕から針を抜き、袖を元に戻した。

「ブラム、ベッドへ運ぼう」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを静かに横抱きにすると、キッチンを後にした。ヴァン・ヘルシングを寝室に運んでベッドに寝かせると、眼鏡をそっと外してサイドテーブルに置いた。ヴァン・ヘルシングは既に眠りについており、規則正しい寝息を立てていた。


 深夜。

 首筋に少しひんやりとした感覚を覚えたヴァン・ヘルシングは薄らと目を開けた。どうやら自分は、自分の寝室で眠っているようだ、と認識し、伯爵の姿を探した。

「……ヴラド……」

 寝起きのかすれた声で問い掛けると、首元でキィ……とコウモリの鳴き声が聞こえ、首筋にもふもふの感触が触れてきた。

「……そこにいたのか……」

 ヴァン・ヘルシングは安心したようにコウモリの背を撫でると、再度目を閉じ、寝息を立てた。

 こうしてヴァン・ヘルシングの長く奇妙な入院生活は幕を閉じ、二人の平穏な日常が戻ってきたのであった。






第二章 後編 ヴァン・ヘルシングの奇妙な入院生活編 Finis.






※因みに、人間一人あたりの血液を飲み干すのに掛かる時間は42分らしいです。


人間一人あたりの血液を飲み干すのに掛かる時間について↓

https://karapaia.com/archives/52214660.html#entry




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