43 ぬいぐるみと黒死病

 それから数週間後の5月末。

 ヴァン・ヘルシングの一日は大体流れが決まってきた。

 朝は伯爵が持ってきてくれたサンドイッチを食して松葉杖の歩行練習をし、昼頃にはほぼ毎日リーケが我が物顔でやって来て仲良くなろうと、取り入ろうとしてくる。滞在時間は2、3時間といった具合だが、時に夜の病院食が出される寸前までいたこともあった。リーケ曰く、今は元夫――ヘラルトから最後に受け取ったお金でホテルの部屋を取っているのだが、そろそろ手持ちの金が無くなりそうだ、とのこと。と言われても、ヴァン・ヘルシングには彼女に対してなす術はない。が、いつか自分の家に上がらせてほしい、と言われたらどうしよう、と最近ハラハラしていた。そして夜になると待ちに待った“もふもふタイム”である。

 伯爵は相変わらず昼間は一切病室を訪れる気配はなく、夜しか来てくれないでいた。ヴァン・ヘルシングはとくに文句を言うことはなく――自分でまいた種でもあるので――、短い時間でも自分のお見舞いに来てくれるコウモリ姿の伯爵に、今日のことや心配ごとを話しつつ、まるで自分が動物介在療法を受ける精神科の患者にでもなってしまったかのように、コウモリを撫でては抱きしめた。コウモリ姿の伯爵はただ黙ってされるがままだった。時折伯爵に院外に連れ出してもらい、夜のアムステルダムを堪能して家のベッドで健やかに眠り、目覚めると病院のベッドに戻ってきているという流れだった。そんなことが数週間も続けば、夜中病院のベッドにヴァン・ヘルシングがいないのを“発見”してしまう看護師がいて、近頃アムステルダム市立病院の病棟看護師たちの間で、ヴァン・ヘルシングは夢遊病なのでは? という噂が流れるのは時間の問題だった。

 

 6月半ば。

 大分行動範囲が広がったヴァン・ヘルシングは、ゆっくりではあるが階段の昇り降りも出来るようになっていた。

 朝食を食べ終え、一階に降りてみるとこぢんまりとした外来には数人の患者たちが待っており、今か、今かと自分が呼ばれるのを待っていた。ヴァン・ヘルシングはそんな患者たちをよそに病院の外に出た。外は暖かく初夏の陽気で、その眩しさに目を細めた。

……外に出ると心が洗われるようだ。

 深く深呼吸をし、しばらく外の空気を堪能するのであった。

 しばらく病院の外を歩いていると、ヴァン・ヘルシング教授、と言う男性の声が聞こえた。そちらに振り返ると、ヘラルト・モンスが一人の女性を伴って立っていた。ヴァン・ヘルシングはヘラルトの変貌ぶりに驚いた表情を浮かべた。ヘラルトは見違えるほどの立派な紳士の身なりをしており、隣に立つ女性は清楚で礼儀正しく、ヘラルトの隣で姿勢正しく胸を張って立っていた。

「これはモンスさん。お元気そうで」

 ヴァン・ヘルシングが歩み寄ろうとすると、ヘラルトと女性の方から歩み寄ってきた。

「ヴァン・ヘルシング教授も。あ、紹介します」

 ヘラルトは隣りにいる女性を一瞥し、手で指し示した。

「僕の許嫁の、マリアです」

 ヘラルトに紹介された女性――マリアはヴァン・ヘルシングに行儀よくお辞儀した。

「マリア・モンスです。はじめまして、ヴァン・ヘルシングさん」

「これは、これはモンス婦人。こちらこそ」

 ヴァン・ヘルシングも、ぎこちないながらも松葉杖で身体を支えながら会釈した。

「許嫁、ということはモンスさん、ご両親と和解が出来たのですね?」

 ヴァン・ヘルシングが興味津々に尋ねると、ヘラルトは恥ずかしそうにうなずいた。

「はい、おかげさまで。許嫁のマリアもこうして僕のことを待っていてくれてたみたいで、僕は幸せ者です」

 そう言いながらヘラルトはマリアの手を握った。マリアは頬を染め、控えめにヘラルトの肩に頭を寄せた。

 マリアは若い頃のリーケよりは華やかさは欠けるものの、こんなに献身的に見える女性を放って、その使用人にうつつを抜かすなんて……。ヴァン・ヘルシングは心の中でそう思いつつ、安堵のため息をついた。

……これでクララさんの職場は安泰だな。

「今日は助手の方は……?」

 ヘラルトが周囲を見渡しながら尋ねてきた。

「今日は……不在でして……」

 ヴァン・ヘルシングはまるで自分に言い聞かせるように返した。ヘラルトは少々残念そうに肩を落とした。

「そうでしたか……。助手の方にも、ありがとうございました、とお伝え下さい」

「もちろんです」

 少ししてモンス夫妻と別れたヴァン・ヘルシングは病室へと戻っていった。

 昼食である病院食を食べ終えて、少し経った頃、案の定リーケがやって来た。今日は珍しく以前見たことのあるドレスを着ており、それ以外の装飾品は着けていなかった。

 ヴァン・ヘルシングは、モンス夫妻を鉢合わせしなくてよかった、と内心ため息をつきながら、リーケの対応にあたった。

 リーケは我が物顔でヴァン・ヘルシングが寝そべるベッドの足元に座ってきた。今日も香水の甘ったるい匂いをはべらせ、相変わらず化粧は濃い。ヴァン・ヘルシングは勢いよく身体を起こし、脚をずらした。

「ねぇ、ヴァン・ヘルシングさん?」

 リーケが猫撫で声で聞いてきた。

「は、はい……?」

 ヴァン・ヘルシングはリーケの声に思わずブルリと声が震えてしまった。そんなヴァン・ヘルシングを可愛らしいと思ったのか、リーケは身を乗り出してヴァン・ヘルシングに顔を近づけてきた。

「わたし、今独り身で寂しいのよ。一人でホテル生活もいいけど……何か物足りないのよねぇ……」

 そう言いながらリーケは自身の髪の毛先を指で弄び、上目遣いでヴァン・ヘルシングを見つめてきた。

「わたしたち、もう潮時よね……?」

 リーケのその言葉にヴァン・ヘルシングは思わず、ヒュッ! と息をのんだ。

……だめだ。もう私は耐えられない……。

 ヴァン・ヘルシングは急にめまいに襲われたように頭を押さえた。その様子に驚いたリーケはヴァン・ヘルシングの背を擦ろうとすると、ヴァン・ヘルシングが手で制した。

「申し訳ない、今日は体調が優れなくて……。今日はお引き取りを……」

 そう言ってヴァン・ヘルシングは素早くベッドに横たわると掛け布団を口元まで引っ張り寄せた。リーケは、まあ! と自分のことを突っぱねるなんて、と思いながら顔を上げた。

「また明日、来ますわ」

 リーケはそう言い残すと病室をあとにした。リーケが立ち去ったのを確認したヴァン・ヘルシングは疲れた様子で深いため息をついた。

……たとえ相手が誰であれ、欺くのは心が折れそうだ。


 夜、消灯時間を迎えて病室内は薄暗くなった。明かりはサイドテーブルのオイルランタンの明かりぐらいで、ベッドの周辺は見えづらい。

 今夜もヴラドは来てくれるだろうか? とヴァン・ヘルシングはソワソワしつつベッドに横たわっていた。するとお腹の辺りがもぞもぞし、起き上がって掛け布団をそっと捲ると、案の定大きな黒いコウモリがいた。

『Bună seara【羅語:こんばんは】,Abraham.』

 コウモリが伯爵の声で“言ってきた”。

「Goedeavond【蘭語:こんばんは】, Vlad.」

 ヴァン・ヘルシングは嬉しそうにコウモリの背を撫でた。

『今夜も来てやったぞ?』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの胸元を這うと、彼の首筋に縋り付き頬擦りをしてきた。ヴァン・ヘルシングはくすぐったそうに笑みをこぼすと、甘えるようにギュッとコウモリを抱きしめた。

「ありがとう、ヴラド」

 少しして、ヴァン・ヘルシングにとって癒しの時間を過ごすはずだったのに、病室の入口の方から小さな明かりが見え、足音が近づいてきた。ヴァン・ヘルシングは心臓が飛び出る思いで掛け布団を慌てて口元まで引っ張り寄せると、急いでベッドに横たわった。コウモリは理由が分からなかったようで、掛け布団の中でジタバタしていた。それをヴァン・ヘルシングが掛け布団の上から必死に押さえる。足音が近づき、やって来たのはランタンを掲げている看護師だった。

「ヴァン・ヘルシングさん、まだ眠れていなかったんですね?」

「え、ええ。まあ……」

 ヴァン・ヘルシングはしどろもどろしつつ、看護師にコウモリの存在が知られないよう掛け布団の上から胸元を必死に押さえ込んだが、ギャーギャーと喚く声がもれ出ていた。

「何の音ですか?」

 看護師が怪訝そうに尋ねてきた。

「えっと……」

 ヴァン・ヘルシングは冷や汗を額に浮かべながら、そっと掛け布団の中を見た。暗闇の中、少し怒った様子の真っ赤な二つの目と目が合った。

……頼むからっ、霧にでも変身してくれ!

 そう思いながらまた掛け布団を元に戻し、看護師を見上げた。

「私には、何も聞こえませんが?」

 苦し紛れの言い訳をして難を逃れようとしたが、看護師が見逃すはずもなく、ヴァン・ヘルシングをのぞき込んできた。

「布団の中に何か隠してますでしょう?」

「……」

 ヴァン・ヘルシングは掛け布団の上からコウモリをポンポン叩いて、頼むから姿をくらましてくれ! と合図を送るのだが一向にコウモリは“コウモリのまま”で、ヴァン・ヘルシングが再度掛け布団の中を見ると、今度は不思議そうな表情のコウモリと目が合った。ヴァン・ヘルシングは諦めた様子で掛け布団を元に戻すとため息をついた。

「えっと……」

 むくりと起き上がると、ヴァン・ヘルシングは潔く掛け布団をバサッと捲り、胸元に引っ付いているコウモリを露わにした。

「ひっ! コウモリッ! きゃぁぁああっ!」

 看護師が悲鳴をあげないはずもなく、病室内に看護師の悲鳴が木霊した。ヴァン・ヘルシングは慌てて釈明を試みた。

「い、イヤだな、看護師さん! こいつはただのぬいぐるみですよ!」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にコウモリは目を見開き、彼を凝視した。ヴァン・ヘルシングは続ける。

「くまのぬいぐるみがあるんだ。コウモリのぬいぐるみだってありますよ!」 

 そう言いながらヴァン・ヘルシングは、コウモリを胸元から離そうと両手で掴んだが、コウモリの片翼の爪が寝間着の首元にしっかりと引っ掛かり、離れない。ヴァン・ヘルシングはコウモリを、目を丸くして睨んだ。

……離せってっ、ヴラド!

――何故だね? 君の方から積極的に触ってきたくせに。

 コウモリは小首をかしげては耳をヒョコヒョコと動かした。ヴァン・ヘルシングは何度引っ張っても寝間着を離そうとしないコウモリに対して口をへの字に曲げた。そんな彼をよそに看護師は、疑わしげにコウモリを見つめてきた。

「……まるで“生きてる”みたいね?」

……本当は“生きてない”んだがな。

 ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべながら片手でひょいとコウモリの爪を外した。刹那、コウモリは気に食わなかったのか翼をバシッと振るうと、抗議でもするようにギャーギャー喚き、翼をバサッ、バサッ! と激しく動かしてきた。

「うわっ!」

 それにはヴァン・ヘルシングも驚いた様子で、つい慌ててコウモリを膝元に置いてしまった。その脇では看護師が再度けたたましい悲鳴をあげている。そしてコウモリはヴァン・ヘルシングの膝の上で癇癪を起こし、両の翼を彼の腹にバシバシと叩きつけていた――痛くはなかったが――。コウモリの暴れっぷりに見兼ねた看護師が、未だ悲鳴をあげながらコウモリの首をエプロン越しにガッチリと掴んだ。コウモリが驚いて声をあげた。

「ギャッ!」

「あっ! ヴラドッ……」

 ヴァン・ヘルシングはコウモリを取り戻そうと急いで手を伸ばすが、看護師がまるで汚いものでも持っているかのように腕を伸ばして、ヴァン・ヘルシングからも、自身からもコウモリを遠ざけた。

「きゃぁぁああっ! でっかいコウモリッ! 気持ち悪っ!」

 コウモリは翼の爪で看護師の手を突こうとしたが上手くいかず、脚や翼をバタつかせたが看護師は離す気配がない。コウモリは諦めたのか悲しそうな鳴き声を出した。

「キュゥ、キュゥ……フギュ……」

 看護師に首を握られているコウモリの姿がヴァン・ヘルシングには哀れに見えつつ、みっともないとも感じてしまった。

……だから言っただろ、全く……。この癇癪持ちめ……。

 だが看護師の手前、伯爵はその手から逃れようと藻掻いたり、威嚇したり、霧に変身するなどは一切せずにただのコウモリを演じ続けた。そのことにヴァン・ヘルシングは少し感心した。

「ヴァン・ヘルシングさんっ!」

「はっ、はい……」

 看護師に怒鳴られ、ヴァン・ヘルシングはビクリと萎縮した。

「ペットを院内に連れ込まないでくださいっ!」

 そう言うと看護師は近くの窓を急いで開けてコウモリを放り投げるようにして外に追い出し、すぐさまピシャリと窓を閉めた。コウモリは空中で身をひるがえして翼をはためかせると、窓枠の上の縁にぶら下がって留まり、病室内をキョロキョロと眺めた。それを不気味に思ったらしく看護師は窓ガラスを激しくドンドンと叩いてコウモリを追い払おうとしたが、当のコウモリは知らん顔で、時々耳をヒョコヒョコ動かして居座り続けた。看護師は諦めたのか、ヴァン・ヘルシングの方に振り向いた。その表情は薄暗がりでも分かるほど紅潮していた。ヴァン・ヘルシングはヒュッと息をのみ、そろそろと掛け布団を口元まで手繰り寄せた。

「良いですかっ!? 動物は一切持ち込み禁止ですからねっ! “ペスト菌”を持ってたらどうするんですかっ!?」

 看護師はフンッ! と勢いよくそっぽを向くと、エプロン洗わなきゃ! と叫びながら立ち去っていった。ヴァン・ヘルシングは、はぁ……と疲れた様子で息をつくと、そっと掛け布団を捲った。そこには先ほど追い出されたはずのコウモリが、ちゃっかりと彼の腹の上にいた。

『何だね? その“ペスト菌”とは』

 コウモリが首をかしげながらヴァン・ヘルシングに尋ねると、ヴァン・ヘルシングは呆れた様子で肩を落とした。

「お前、“黒死病”の原因を知らないのか?」

 思いもよらない病名の登場にコウモリは一瞬耳をピンと立てたかと思えば、へたり、と落ち込んだように倒した。ヴァン・ヘルシングは、はっ、と息をのみ、すまん……と詫びた。

【黒死病の原因であるペスト菌が発見されたのは1894年であるため――本作では原典を1893年とする――、伯爵は知らなかった】

「まあ、ひと先ず、ネズミが一匹でもいたら病院内は大騒ぎになるんだ。お前だって生前、ペスト――黒死病には悩まされただろ?」

 ヴァン・ヘルシングはそう言いながらベッドに横になった。掛け布団の中でコウモリが這ってきて、ヴァン・ヘルシングの胸元に収まった。

『確かに。生前、亡命中の身であった俺は、フニャディ・ヤーノシュが治めていたトランシルヴァニアに亡命した。ヤーノシュは黒死病で死んでしまった。俺がワラキア公に復位した年にね。実に残念であった……』

【フニャディ・ヤーノシュは後のハンガリー王マーチャーシュ一世の父で、当時トランシルヴァニア公だった】

 コウモリの言葉にヴァン・ヘルシングは眉をひそめた。

「その言い草だと、その……フニャディ・ヤーノシュのことを……。彼はマーチャーシュ一世の父親だろう? それに文献だと、お前の父君や兄君を……その……」

 ヴァン・ヘルシングは言葉にして良いのか分からなくなってしまい、口をつぐんだ。コウモリは、構わない、とでも言うように彼の胸をポンポンと叩いた。

『ああ。俺も当初はヤーノシュが父上と兄上を暗殺したと思っていた。だが、もしかしたら我がドラクレシュティ家を疎ましく思っていたワラキアの貴族共が企てたのでは、とも思っている。今では、真相は闇の中だがね。たとえ俺がワラキア公の継承権を持った手駒だったとしても、ヤーノシュからは色々と教わることもあった。それに彼がいなければ俺は野垂れ死んでいただろう。マーチャーシュの野郎は別として、ヤーノシュを恨むつもりは今はない』

 コウモリ――伯爵の真っ直ぐで揺るぎない口調に、ヴァン・ヘルシングはどこか安心したように、そうか、と呟き、コウモリの背を撫でた。

「お前から15世紀のことを聞けるのは興味深いな。何せ15世紀の人が20世紀を生きてるわけないからな」

『そうだね。まあ、今後は気を付けるとしよう』






※ヴラド三世は1462年のトゥルゴヴィシュテの夜襲でメフメト二世の陣営を襲う時、農民の黒死病罹患者を投入し(どうせ死ぬなら最後は自分たちの国のために命を使え。ただし罹患者たちも乗り気だったらしい)、メフメト二世陣営に黒死病を流行らせたとか(ペスト菌は飛沫感染する)。因みにヴラド三世率いるワラキア公国軍は少数の貴族のほか、ほとんどが農民から募った軍だった。よく一万の兵だけで十万のオスマン帝国軍を追っ払えたな……。


 








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