42 夜の散歩

 夕食の病院食を食べ終えたヴァン・ヘルシングは読書をしていた。次第に闇に包まれていく外を時々眺めては、サイドテーブルのオイルランタンに火を灯して手元の明かりを確保する。

 昼間少しだけ眠ることが出来たのでまだ眠気は訪れない。

……今夜も来てくれるんだろうか……?

 そう思いながらヴァン・ヘルシングは、サイドテーブルのバスケットを見つめた。


 深夜。

 ヴァン・ヘルシングが入院する病室に影のない霧のようなものが流れ込んできた。霧はヴァン・ヘルシングの眠るベッドの上に漂うと、まるで空気の流れが止まったかのように滞留し、その中に二つの赤い小さな光を出現させた。霧は次第に二つの赤い小さな光に集まってくると、姿を真っ黒な大きなコウモリに変えてヴァン・ヘルシングの胸元に、静かに着地した。

 コウモリはそろそろとヴァン・ヘルシングの、寝息で上下する胸元を這い、彼の首筋に縋り付いた。

……今日も眠ってる……。

 コウモリ――伯爵は少し寂しげにヴァン・ヘルシングの首筋に頬擦りをした。その時だった。

「捕まえた!」

 その掛け声とともにガシッと背中を押さえ込まれたのだ。思わずコウモリはギャッ! と鳴き喚いてしまった。

「あっ、すまん、すまん……」

 声の主であるヴァン・ヘルシングは、コウモリを抱き抱えながら身体を起こし、サイドテーブルから眼鏡を取ると、慣れた手つきで掛けた。コウモリは目をパチクリさせながらヴァン・ヘルシングを見上げる。

『これで俺を捕まえたとでも……?』

 コウモリは首をかしげ、得意気に耳をヒョコヒョコと動かした。

「お前を捕まえるのは無理だと思ってるさ。否、何だ……」

 ヴァン・ヘルシングはため息をもらしつつ、コウモリの背を撫でながら続けた。

「久々に、お前に会ったような気がして、だな……?」

『まだ一日だけなんだが……?』

「う、うん……。そのことなんだが……」

 ヴァン・ヘルシングはもじもじと目を泳がせた。

「前に、しばらく昼間は来るな、って言ったが、撤回させてくれないか……?」

 恐る恐るコウモリに言ってみると、コウモリは、フーン、と鼻を鳴らした。

『最近俺に会えなくて寂しくなったのかね?』

「そうかも知れない……」

 このやり取りに既知感を覚えつつ、ヴァン・ヘルシングはコウモリの背を撫でた。

『夜なら、こうして来てやるぞ?』

 コウモリの“言葉”にヴァン・ヘルシングは不安げにコウモリを見下ろした。昼間は……? そう尋ねようとするや否や、コウモリが姿を歪ませてヴァン・ヘルシングから離れ、ベッド脇にマントをまとった伯爵の姿で現れた。伯爵は含んだ笑みを浮かべ、はぐらかすようにバスケットを持った。

「これを回収しに来た」

 そう言ったとたん、近くの窓がひとりでに開き、一陣の涼しい風を病室内に吹かせた。ヴァン・ヘルシングは呆然と伯爵を見上げることしか出来なかった。

「もう一度来るよ」

 伯爵は窓枠に足を掛け、今にも飛び立ちそうに見えた。ヴァン・ヘルシングは咄嗟に伯爵のマントの裾を掴んだ。

「待ってくれっ……」

 ヴァン・ヘルシングは切羽詰まったように言った。伯爵がゆっくりと振り返ると、ヴァン・ヘルシングは懇願するように続けた。

「お、俺を……連れ出してくれないか……? ベッドの上でじっとしていたくない……。息が、詰まりそうなんだ……」

 まるで何かに怯えた子供のように、震えた声で言ったヴァン・ヘルシングは、情けなさそうにうつむいて肩を落とした。そんなヴァン・ヘルシングを見兼ねたのか伯爵は窓枠から降りるとバスケットを腕に掛け、ヴァン・ヘルシングに手を差し伸べた。ヴァン・ヘルシングは伯爵を見上げると、ためらうことなく伯爵の手を取った。刹那、強い力で引き寄せられ、一瞬身体が浮いた。つま先が着くか否かで伯爵が彼を、まるで我が子のようにしっかりと抱き抱えた。

「以前のような女々しい悲鳴をあげるでないぞ?」

 伯爵の言葉に、ヴァン・ヘルシングはとびっきりの笑顔を浮かべた。

「分かってるさ!」

 そう言ってヴァン・ヘルシングは伯爵の首に縋り付いた。

 伯爵は再度、窓枠に足を掛けると、マントを、まるで巨大な翼のようになびかせて飛び出した。窓の外に出ると病院の壁面に着地し、ヴァン・ヘルシングを見下ろす。

「大丈夫かね?」

 ヴァン・ヘルシングは顔だけを伯爵に向け、少し興奮気味に何度もうなずいた。伯爵は不敵な笑みを浮かべると優雅な足取りで壁面を登り始め、病院の屋根の上へと到達した。病院の上では海から吹いてくる冷たい風が強く、ヴァン・ヘルシングはゆっくりと目を見開いた。目を開ければ夜空には大きな月と、そこら中に散らばる星々が広がっており、海へと続く北海運河やクモの巣状に張り巡る細い運河が暗がりのアムステルダムの街の中でキラキラと輝いて見えた。その景色にヴァン・ヘルシングは感嘆をもらした。

「ああ、良い気分だ。お前じゃないが、“やみつき”になってしまいそうだ……」

「そうであろう?」

 そう言いながら伯爵はマントをパッと外すと、寝間着姿で裸足のヴァン・ヘルシングを包むようにマントを掛けた。

「夜風は身体に良くない」

「そうだな」

 ヴァン・ヘルシングは、マントが落ちないようにしっかりと自分の身体に巻き付けると再度伯爵に抱きついた。

「では、家に帰ろう」

 伯爵は再度ヴァン・ヘルシングをしっかり抱き寄せ、病院の屋根から飛び立った。

 家々の屋根を飛び移り、時に運河の上は渡れないので橋の欄干の上をバランス良く歩いてはまた建物の屋根の上へと登り、家に帰りがてら夜の街を飛び回った。まるで夜を自由に彷徨う“住人”に、ヴァン・ヘルシングはなった気がした。

 夜道を照らすのは街灯の淡い光と、夜空の月と星だけ。誰もいないひっそりとした夜のアムステルダムを独り占めしたような、そんな気分になり、心がウキウキと弾む。

「ありがとう、ヴラド……」

 ヴァン・ヘルシングは呟くように伯爵にそう言うと、何かがヴァン・ヘルシングの心の琴線に触れたのか、彼は静かに涙を流した。伯爵は何も言わずに家を目指した。

 家に着き、伯爵はヴァン・ヘルシングの部屋の窓から入ると、既に微睡んでいる彼をベッドに寝かせた。ヴァン・ヘルシングは久しぶりの自分のベッドに安心したのかそのままぐっすりと心地良さそうに寝息を立ててしまった。そんなヴァン・ヘルシングを微苦笑を浮かべて眺めた伯爵は、マントを彼の身体に掛けて、眼鏡を外してサイドテーブルに置くと、静かに部屋をあとにするのであった。


 翌日、朝。

 窓から入り込む陽の光でヴァン・ヘルシングは目を覚ました。身体を起こし、目一杯伸びをしてあくびをするといつもの癖であるサイドテーブルに手を伸ばして眼鏡を取り、掛けた。改めて目の前を見れば、ヴァン・ヘルシングが今入院しているアムステルダム市立病院の病室だった。ヴァン・ヘルシングは少し落ち込んだようにため息をついた。昨夜のことは夢だったのではないか、と……。もう一度サイドテーブルに目をやり、置いてあるバスケットの中身を見ると、伯爵特製のサンドイッチとカップ、ココアの入ったポットが入っていた。

 それから少しして。

 朝の病院食を持ってきた看護師が、ヴァン・ヘルシングを見るなり、血相を変えて小走りで駆け寄ってきた。当のヴァン・ヘルシングは、てっきり院外から持ち込んだものを食べていることを怒られるのでは? と、慌てて食べていたサンドイッチをバスケットに詰め込んだ。

「お、おはようございま――」

 ヴァン・ヘルシングが言い掛けたところで看護師が詰め寄ってきた。

「昨夜、どこにいらしたんですかっ? いなくなってびっくりしたんですよっ!? いなくなったと思いきや、夜明け前には普通に眠ってるし!」

 看護師は一息で言うと朝食を乗せたトレーを激しくサイドテーブルに置いた。ヴァン・ヘルシングはたじたじしつつ、釈明を試みた。

「えっと、昨夜……急に腹が痛くなって、便所に……こもってました……」

 何とも恥ずかしい言い訳だな、と言った本人がそう思いつつ、内心は安堵していた。

……そうか。昨夜のは夢ではなかったんだな。

 思わず顔が緩んでしまい、クスリと笑うと、看護師が、夢遊病なの? と心配そうに聞いてきた。ヴァン・ヘルシングはギョッ! と目を見開き、全力で首を横に振った。

 朝食を食べ終え、ヴァン・ヘルシングは松葉杖の歩行練習をしていた。まだ階段の上り下りは難しかったので、病室を出ることは出来なかったが、窓辺に歩み寄って外を見下ろすことは出来た。窓を開けて外を眺めると、暖かな柔らかい陽射しが差しており、夏の兆しを感じた。街路樹の鮮やかな緑が、爽やかな風にざわざわと揺れている。

……もうすぐで夏か。

 ヴァン・ヘルシングは初夏の青い空を仰ぎ、ため息をついた。








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