41 後悔

 翌日、早朝。

 ヴァン・ヘルシングが目覚める頃には既に伯爵の姿はなく、ただサイドテーブルにサンドイッチとポットとカップが入ったバスケットが置いてあるだけだった。少し寂しさを覚えつつ、ヴァン・ヘルシングは朝食の時間まで松葉杖で歩く練習をした。


 朝食の時間から3時間が経った頃。

 ようやくリーケがヘラルトの迎えにやって来た。

 リーケはまた昨日とは違うドレスをまとい、腕に金のバングル、耳には緑の石がついたイヤリングをしていた。

「ごきげんよう、ヴァン・ヘルシングさん」

 リーケが愛嬌のある顔を向けてきた。

「こんにちは、リーケさん」

 ヴァン・ヘルシングはいつも以上に破顔して見せた。

 リーケはヘラルトには全く見向きもせず、ヴァン・ヘルシングのベッド脇の椅子に座ると、彼の手に自身の手を重ねた。

「昨日はありがとうございました。お陰でゆっくりと自分だけの時間を過ごせたわ」

「それは何よりです」

 そう言うとヴァン・ヘルシングはわざとらしく斜め向かいで一人帰る準備をしているヘラルトを一瞥した。

「旦那さん、何事もなく退院出来てよかったですね。ご一緒にお帰りですか?」

 するとリーケは伏し目でヴァン・ヘルシングを見つめた。

「“旦那さん”だなんて……。もうどうでも良いわよ。それよりヴァン・ヘルシングさん――」

 リーケは身を乗り出し、ヴァン・ヘルシングに顔を近づけた。香水のにおいが一層強くなる。

「あなたはいつ退院なさるのかしら? まあこうして会えるのは嬉しいんですけどね? でも――」

「リーケ、先に行ってるぞ……」

 ヘラルトが少し怯えたような暗い声で言ってきた。リーケは素敵なひとときを邪魔されたと思ったのか、ヘラルトに振り向くと眉を潜め、煩わしそうに言った。

「ご勝手に。先に家に帰ってれば?」

 吐き捨てるように言ったかと思えば、リーケはヴァン・ヘルシングの方に向き直り、満面の笑みを浮かべた。

「ごめんなさいね? もうあの男ったら本当に……」

「いいえ……」

 ヴァン・ヘルシングは引きつりそうになる顔をなんとか抑え、心の中でヘラルトに同情した。

……もし私がリーケさんと再婚してしまったとして、いずれこんな扱いを受けるのだろうな……。

 ヘラルトはヴァン・ヘルシングとリーケを一瞥すると、そろそろと病室をあとにしていった。それを心配気味に、横目で見送ったヴァン・ヘルシングは小さくため息をつく。

……モンスさん、あとはあなた次第です。

 そう思いつつヴァン・ヘルシングは気持ちを改めるかのように再度ため息をつくと、リーケに事務的な笑顔を向けた。

……相手がどうであれ、こうやって欺くのは気が乗らないな……。


 リーケが帰ったのはもうすぐで夕食の時間のことだった。

 彼女の長々とした過去の自慢話にヴァン・ヘルシングは対抗しようと、“身の毛がよだつような手術道具”や医学、解剖学などの話をした。リーケは興味ありげな風を装っていたが、顔が青ざめていたのは言うまでもない。

 すぐにお腹が空いてしまいそうな病院食を食べ、消灯までの時間、松葉杖で歩く練習をした。膝はいつも通り動かすことは出来るので、歩くことに支障はないが、ギプスを巻かれた右脚を床につけたとたん脛に激痛が走った。朝はそんなに痛みを感じなかったのに……。寝起きで寝ぼけてたせいか? とヴァン・ヘルシングは歩行練習を潔く諦め、ベッドに座り込んだ。それにしても、今日久々に歩いたせいか自分の身体がとても重く感じた。太ってしまったのだろうか? と自身の腹回りを擦った。

 まもなくして看護師がやって来て、病室の電気を消した。時刻は午後10時。病室の電気は消されたが、外は日が沈んだばかりで、まだ薄らと明るかった。

……昨日あんな事を言ってしまったが、夜は来てくれるのだろうか……?

 ヴァン・ヘルシングは少々心配げな面持ちで、暗くなっていく窓の外を眺めた。もしかしたらヴラドがコウモリ姿で来てくれるかもしれない。そんな期待をしつつベッドに横になっていたが、今日はとても疲れていたらしく、いつの間にか眠りについてしまった。


 翌日、朝。

 陽の光で目覚めたヴァン・ヘルシングはガバッと起き上がった。

……もう朝、か……。

 大きなため息をつき、眼鏡を取ろうとサイドテーブルに手を伸ばすと、昨日とバスケットの置いてある位置が変わっているのが目に入った。バスケットに掛けてある布を捲ると、中にはサンドイッチとポットとカップが入っていた。

……ヴラド、来てくれてたのか……。

 少し後悔した気分で眼鏡を掛けると、横に立て掛けてあった松葉杖を取り、ぎこちない足取りでトイレへと向かった。

 トイレから戻ると伯爵の作ってくれたサンドイッチを美味しく食し、気持ちを改めて松葉杖で歩く練習をした。


 昼を過ぎた頃。

 今日はヘラルトが運ばれてくる様子はなく、静かで穏やかな昼を過ごせるだろう、と休憩がてらベッドでくつろいでいたのも束の間、ヴァン・ヘルシングさぁん! と高らかに言う女性の声が聞こえた。ヴァン・ヘルシングはヒュッと息をのみ、病室の入口を凝視する。案の定リーケがまた昨日とは違うドレスをまとい、上流階級のような出で立ちで、ウキウキした様子でやって来た。

 ヴァン・ヘルシングは後悔した。

……ヴラド、前言撤回するから、来てください……。

「ど、どうもリーケさん。昨日もいらしてくれたのに……」

 ヴァン・ヘルシングが作り笑いを浮かべると、リーケが目をキラキラと輝かせ、彼の両手をギュッと握ってきた。

「いいえ、ヴァン・ヘルシングさんのためならこのリーケ、毎日お見舞いに来ますわ!」

 リーケの言葉やお見舞いが、まだ昨日の今日なのに、既に煩わしさを感じるほどだった。

……いつまで“持つ”だろうか。

 昨日と同じくリーケは過去の自慢話に一人花を咲かせ、時折身につけているドレスやジュエリーの話をしてきた。ヴァン・ヘルシングはただただ相槌を打つことしか出来なかった。昨日の二の舞いにはならないようヴァン・ヘルシングに話をさせる隙を与えない様子で、リーケは延々と話をしてきた。それにはとうとう退屈さを覚えたヴァン・ヘルシングがあくびを出してしまいそうになるほどだった。

 少し眠りたい。静かな時間を過ごしたいのに……。

 ヴァン・ヘルシングは思い切ってヘラルトのことを聞いてみた。

「そう言えば、旦那さんはお元気ですか……?」

「へ?」

 突然話を遮られ、リーケは間の抜けた声をもらした。

「ああ、実は……」

 リーケは潜めた声で言うと、身を乗り出してきた。ここだけの話しなのか? とヴァン・ヘルシングは気になり、少しだけ睡魔が引っ込んだ。そして耳をそばだてる。

「実はわたし――」

 リーケはもったいぶるように口をつぐんだ。ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、リーケを見た。

……まさか、モンスさんを殺――。

「今日の朝、夫とは離婚したのよ!」

 リーケは嬉しそうに、はしゃいだ声で言った。ヴァン・ヘルシングは安堵のため息をつく。

「よ、良かった……」

 思わずこぼれ出たヴァン・ヘルシングの呟きに、リーケは目を輝かせた。

「まあ! ヴァン・ヘルシングさんったら! 素直なのね? うふ!」

「あ、否、そういう意味ではなく――」

 ヴァン・ヘルシングが慌てて訂正しようとしても、リーケはお構いなしに彼の手を握ってきた。

「明日もまた来ますわ!」

 リーケの言葉にヴァン・ヘルシングはギョッと目を丸くした。

……ヴラド……。

 それからリーケは一時間ほど滞在して帰っていった。ヴァン・ヘルシングはどっと疲れたのか、どさりとベッドに横たわって深い溜め息をついた。

……希望を持て、私。ひと先ずモンスさんは離婚出来たようだ……。

 ヴァン・ヘルシングは夕食までの間、眠りについた。


  







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