39 思わぬ相談
昨日と同じく、運ばれてきたモンスは泥酔しており、ヴァン・ヘルシングの斜め向かいのベッドに寝かされた。看護師たちが懸命にモンスの名を呼び、処置を施す。それを離れたところでリーケがいつものように眺めていた。
今日もリーケは、昨日とは違うドレスをまとい、宝石が散りばめられたバングルを着けている。傍から見れば彼女は上流階級の者と勘違いされそうな出で立ちだ。
ヴァン・ヘルシングの視線に気付いたのか、リーケは物悲しげな表情を浮かべて小走りで歩み寄ってきた。
「あらヴァン・ヘルシングさん、ごきげんよう……。今日も夫があんなことに……。その方はどちら様かしら?」
リーケは表情を一変させてキョトンと首をかしげた。
「私の……友人です」
ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵は、目を見開いて彼を見つめた。
「まあ、ご友人の方。ヴァン・ヘルシングさんがいつもお世話になってますわ」
リーケはまるで、自分はヴァン・ヘルシングの関係者だ、とでも言うように伯爵に会釈した。伯爵は眉間にシワを寄せて、睨むように横目でリーケを見た。
「どうも」
鋭い口調で一言、伯爵がそう返すとリーケは肩をビクつかせて、逃げるようにモンスの元へ戻っていった。
伯爵が不満げな表情でヴァン・ヘルシングに向き直った。
「何故、息子だと紹介しなかった? それなら“追い払えた”だろうに」
ヴァン・ヘルシングは後悔したようにため息をついた。
「つい、癖で……。まあ、見ての通り、“親しい”素振りをしてくる……」
「ふん。“馴れ馴れしい”の間違いではないのかね?」
伯爵は表情には出してはいないものの、苛立った様子で愚痴をこぼした。
「さて。不謹慎ではあるが、機会がやって来た。先ずはモンスさんが起きないとな……」
ヴァン・ヘルシングは腕を組んでは、ベッドで泥のように眠るモンスを眺めた。
二人はモンスが目覚めるまでの間、各々暇を潰した。
ヴァン・ヘルシングは伯爵が持ってきてくれた大学の教科書や参考書を読み、伯爵は『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』を読み終わったのか、ジョン・ポリドリの『吸血鬼』を読んでいた。因みにリーケもモンスが眠るベッドの脇で読書をしていた。先ほどの挨拶以来リーケはヴァン・ヘルシングに声を掛けてきていない。きっと伯爵が傍にいるからであろう。
リーケは品定めをするように、ちらりと伯爵を見た。
……歳は私の少し上くらいかしら? やけに顔色悪いけどすぐには“死ななそう”ね。やっぱり狙うなら教授の方ね。睨んできたし。でも……着てる服とか靴とかは結構高級そうね。全部地味な黒だけど……。
【因みにヴラド三世の享年は45歳である】
それからしばらくして、もうすぐで正午を迎える頃だった。
「んん……」
モンスのか細い、唸る声がした。リーケははっ、と息をのみながらモンスを直視した。モンスはピクリと動き出し、ゆっくりと目を開いた。それにリーケは苦虫を噛み潰したように顔を引きつらせたかと思えば――。
「あなた! お願い、“起きて”!」
突然リーケは叫んだかと思えば、寝起きのモンスにのし掛かった。
「……お、重い……」
モンスは苦しそうにリーケの身体を退かそうとしたが、目覚めたばかりで体が言うことを聞いてくれるはずもなく、体格の良いリーケに押し潰されそうになった。それどころかリーケは両手をモンスの首に掛けるとギュッと力を込めたのだ。
……く、苦しっ……。
苦しさのあまり目をカッ! と見開いたモンスは自分にのし掛かっているリーケを凝視した。
これは夢か? まさか自分の妻が、夫である自分の首を――。モンスは、自分はまだ眠りの中で、変な夢を見てるんだ、と信じたかったが……。
とうとう息が出来なくなって気が遠のき、今にも目の前が真っ暗になる感覚に陥った。
時、少し遡り。
「あなた! お願い、“起きて”!」
病室内にリーケの悲痛な叫び声が響いた。ヴァン・ヘルシングと伯爵が思わず視線を向けると、リーケがモンスにのし掛かっているのが見えた。ヴァン・ヘルシングはただ事ではないと悟り、読書をしている伯爵の肩を掴んで揺すると、真っ直ぐモンスとリーケを指差した。
「ヴラド、止めてくれっ」
伯爵は無言でうなずくと、本をヴァン・ヘルシングの足元に置いて素早くリーケの背後に迫った。
「おや、ご主人が目覚めたのかね?」
伯爵の声にリーケはパッとモンスの首から両手を離すと、びっくりした表情で勢いよく振り返った。背後に立っている伯爵の姿を目の当たりにし、リーケは額に大粒の汗を浮かべながら震えた声で言った。
「な、何の用かしら……? わ、わたしは“起きない”夫を起こそうとしてるだけよ……?」
「ほう、確かに“うなされてる”ようだ。余が起こしてやろう」
そう言うと伯爵は持ち前の腕力でリーケをモンスからいとも簡単に引き剥がした。リーケは呆然と伯爵にされるがまま後ろに退かされた。伯爵が、激しく呼吸を乱すモンスの背に手を添えてゆっくりと上体を起こす。その光景にリーケは我に返ったのか、モンスから伯爵を離そうと、伯爵の服を掴んで引っ張った。
「夫に触らなっ――」
「失せろ」
突然の伯爵の鋭い一言に、リーケは肩をビクつかせながら彼を見上げ、震えた声で聞き返した。
「な、何です――」
――この病室から失せろ。
伯爵の眼光鋭い真っ赤な目に射抜かれたリーケは、頭の中に直接声を掛けられたような気がして、この声に従わなければいけない感覚に陥った。リーケは脱力したように伯爵の服を離すと、ふらふらとした足取りで素直に病室から出て行ってしまった。その光景をあっけらかんと見ていたモンスは、目を点にさせながら伯爵を見上げた。
「あなた……は――」
「お前」
伯爵は、今度はモンスに鋭い視線を注いだ。モンスは伯爵の真っ赤な目にビクリと身体を強張らせた。
「はいっ……」
「数日前に余の友人に言い掛かりをつけてきたと聞いたが……? 説明願おうか?」
伯爵は背後に振り向いてヴァン・ヘルシングを一瞥し、もう一度モンスを鋭い視線で見下ろした。モンスはヴァン・ヘルシングを見るや否や、はっ! と目を見開く。ヴァン・ヘルシングはそんなモンスに少し同情したのか、苦笑いを浮かべながら小さく手を振るのであった。
「私の友人が、本当に申し訳ない。厳しい奴でして……」
ヴァン・ヘルシングは隣のベッドに腰掛けているモンスに会釈した。モンスも慌ててヴァン・ヘルシングと、彼の隣に座る伯爵に会釈した。
ヴァン・ヘルシングはゆっくりと身体の向きを変え、ベッドのへりに座るとモンスの方に向いた。
「紹介が遅れました。私はアムステルダム市立大学で医学科の教授をやっております、エイブラハム・ヴァン・ヘルシングと申します。そしてこいつ――じゃなかった、こちらが――」
「余はヴァン・ヘルシングの助手をしている。助手とでも呼ぶが良い」
ヴァン・ヘルシングの隣りに座った伯爵が億劫そうに答えた。
「俺――僕はヘラルト・モンスといいます」
モンス――ヘラルトは今までの態度を改めるかのように、姿勢を正し、行儀よく挨拶をした。
「実はあなた――ヴァン・ヘルシング教授にご相談が……」
ヘラルトの言葉にヴァン・ヘルシングと伯爵は互いを見合った。伯爵は興味なさげにそっぽを向く。ヴァン・ヘルシングはそんな伯爵に苦笑いを浮かべつつヘラルトの方に向き直った。
「ご相談とは何でしょう? 私に出来ることであれば良いのですが……」
「その……」
ヘラルトは少し口ごもると周囲を見渡し、病室にヴァン・ヘルシングと伯爵、自分しかいないのを確認すると再度ヴァン・ヘルシングに向き直り話し始めた。
「最近家でご飯を食べて、お酒を飲んだ後の記憶がなくて……。気がついたらいつもここで目覚めるんです。これは何かの病気、でしょうか……?」
不安げな表情のヘラルトにヴァン・ヘルシングは、彼を落ち着かせようと笑みを浮かべて首を横に振った。
「私の所見では、ご病気ではないかもしれません」
ヴァン・ヘルシングの言葉に希望を抱いたのか、ヘラルトは一瞬顔を明るくさせたと思いきや、再度不安な表情になり、肩を落とした。
「じゃあ、何故僕は……」
「それで聞きたいことがあります」
ヴァン・ヘルシングは真剣な面持ちでヘラルトを見つめた。ヘラルトは固唾をのみヴァン・ヘルシングを見つめ返す。
「最近食事で何か変わったことはありましたか? 何かいつもと味が違うとか」
ヘラルトは腕を組んで首をかしげると、最近の食事を思い返してみた。
「そういえば、今月初めぐらいに変な料理を出されたことがありました。少し苦くて、食べたあとすごく眠くなりました。それから数日経った頃、リーケのやつ今まで酒飲むなって言ってたのに、急に酒を勧めてきました……。今日の朝もそうで……」
ヴァン・ヘルシングは、“すごく眠くなりました”と言うヘラルトの言葉に、やはり、と確信した。
「料理は奥さんが?」
ヴァン・ヘルシングの問いにヘラルトは首を横に振った。ヴァン・ヘルシングは目を点にさせる。
……薬を盛ったのはリーケさんではないのか……?
「料理は使用人が作ってますが?」
ヘラルトの返事にヴァン・ヘルシングはあれ? と首をかしげた。
……貧困なのに使用人を雇ってるのか!?
「その、リーケが雇えって……」
ヘラルトは情けなさそうにポリポリと頭を掻いた。ヴァン・ヘルシングは何と言い返せば良いのか言葉が見つからず、ただただ苦笑いを浮かべることしか出来なかった。まあ確かに、ヴィクトリア朝時代の英国でも、たとえ上流階級でなくても“見栄を張る”ために、せめて女中や使用人を最低一人雇っていたほどだ。
ヴァン・ヘルシングは口元に手を当て、ふむ、と考える。
……その使用人が何か知っているかも知れないな。
「奥さんのいない時に、お宅に私の教え子と――」
ヴァン・ヘルシングは隣に座る伯爵を見た。
「ヴラド、アドリアン君に事情を説明して一緒にモンスさんの家に行って使用人に聞き取り――否、聞き出してくれ。俺は今このザマだから……」
自身の脚を擦りながら言うヴァン・ヘルシングの横で伯爵が、呆れた様子で返した。
「何を言っているのだね、エイブラハム。直接本人に“聞けば”良いではないか」
そう言いながら伯爵は、病室の入口の前でぼーっと突っ立っているリーケを指差した。
「今あの女は俺の催眠術に掛かっている。今聞き出しても良いが?」
ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、あー……と呟くと、横目にヘラルトを見た。ヘラルトは訳が分からないといった様子で首をかしげている。ヴァン・ヘルシングは視線を伯爵に戻すと、心の中で言った。
……モンスさんに怪しまれないようにな?
――もちろんだとも。
伯爵からの返事が聞こえたような気がして、ヴァン・ヘルシングはうなずいた。伯爵は立ち上がると、病室をあとにした。そして入口で突っ立っているリーケに何かを言ったのか、リーケは伯爵の後ろをまるで鴨の子供のように付いて行ってしまい、二人の姿は見えなくなった。
「さて」
ヴァン・ヘルシングは一言改めて言うと、ヘラルトの方に向き直った。
「奥さんの方は助手に任せて、私はモンスさんに助言を――」
ヘラルトは姿勢を正した。
「奥さんのことを愛していらっしゃるのであれば実に残酷なことを言ってしまうかもしれませんが……」
ヴァン・ヘルシングの前置きの言葉にヘラルトは、構いません、と既に何か決心しているように言うと、少し後ろめたそうに続けた。
「実は僕、とある洋服工場の社長の息子でして、リーケとは結婚して6年になるんですが――」
「6年っ?」
ヴァン・ヘルシングは驚きに思わず口走ってしまった。ヘラルトはうなづくと話を続ける。
「結婚する前の彼女はとても魅力的で健気で、可愛らしい女性で、僕の許嫁の使用人だったんです。でも――」
ヘラルトは大きなため息をついた。
「結婚して、親から勘当されたとたん、リーケは本性を現しました。彼女は豪遊する人だったんです。僕が実家から持ってきた結婚資金は湯水のごとくいつの間にか使われて、気づいたときには既に底を突きそうでした。それで僕は何でも良いのでとにかく稼がないと、と思い4年前から機械工場で働いて……。それでも生活するのに金が足りなくて安いアパートに引っ越して、使用人には暇を出そうと思ったんですがリーケが嫌がって……」
ヘラルトは疲れ切った様子で肩を落とした。
「もう、リーケと結婚生活を送るのは難しいと考えてます。子供もいませんし……。ですが、簡単に離婚してくれるのか……」
項垂れるヘラルトをなだめようとヴァン・ヘルシングは、彼のこれまでのことに驚きつつも腕を伸ばし、彼の肩をポンポン叩いた。
「そこまで気落ちせずに。先ずは助手が戻ってくるのを待ちましょう。助手からの報告によっては事がうまく運ぶかもしれません」
ヴァン・ヘルシングの自信たっぷりな口調にヘラルトは、不安そうに眉尻を下げた。本当にうまくいくのだろうか……? と。
それにしても自信満々なヴァン・ヘルシングだが、彼自身出任せで言っているわけではない。確信があるからである。
先ほどリーケがヘラルトを“起こそう”としている時、ヴァン・ヘルシングにはどうも“起こそう”としているよりも“永遠の眠り”につかせようとしているように見えたからである。このままヘラルトとリーケを一緒にしていれば、いずれ彼は命を落とすだろう、とヴァン・ヘルシングは考えた。それにリーケはもうヘラルトに気はない様子だ。ヘラルトが病院に運ばれるたびにリーケはヴァン・ヘルシングに愛嬌を振りまいてくる。きっと自分が公務員だと知ったから言い寄ってくるのだろう、とヴァン・ヘルシングは、リーケの自己中心的な行動に憤りを感じるのであった。
※原典“第十四章、ミナ・ハーカーの日記”にて、上流階級ではないハーカー家にメアリーという使用人が登場している。
因みに、ヴィクトリア朝時代、自分んちの見栄を張るため、たとえ上流階級でなくても無理をして使用人を雇っていた。そして農村部の人たちは自分んちの娘を他の家の使用人として働かせに行かせていた。使用人を一人でも雇えるか雇えないかで中流階級かそれ以下の階級か、と世間的に見られていた。
18世紀になると産業革命で工場勤務をする女性も増え始めたが、19世紀末になっても未だに工員より賃金の安い女中や使用人の職に就く女性の方が多かった。
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