24 ヴラディスラウス・ドラクリヤの家事
翌日、朝。
ヴァン・ヘルシングは朝食を済ませ、大学へと出勤していった。リビングの窓からヴァン・ヘルシングが一人で歩いていくのを見送った伯爵は、キッチンの片付けを済ませるとシャワールームへと向かった。
洗濯かごに溜まっているヴァン・ヘルシングのワイシャツやユニオンスーツ、タオルなどを回収し、キッチンへと向かう。
本当は手回し式の洗濯機があれば楽なのだが……残念ながらヴァン・ヘルシングの家にはない。最近ではアメリカで電動式の洗濯機が発明されたという話らしい……。
【20世紀初頭のアメリカには既に電気洗濯機が発明されていたとのこと】
伯爵は作業しやすいように袖を捲り上げると、朝沸かしておいたお湯をタライに注いで洗濯物を静かに沈めた。固形石鹸を汚れた部分に擦り付け、念入りに揉み込み、木製の棒でかき混ぜる。
全ての洗濯物を洗い終え、つけ置きしている間に干すためのロープをストーブの煙突から扉横のフックに張り、バケツに水を用意しておく。
濁ったつけ置きの水を洗い場に流して新しい水をタライに注ぎ、すすぎをする。それを何回か行い、ようやく洗濯物を固く絞って――手絞り器があればそれはそれで楽なのだが、洗濯機同様ヴァン・ヘルシングの家にはなかった――上に張ったロープに掛けていった。
洗濯物を乾かしている間にコンロの上に鉄製のアイロンを乗せ、熱しておく。キッチンストーブの熱で洗濯物も短時間で乾くだろう。その間に家中の床の掃き掃除と窓拭きをする。そろそろ頃合いだろう、と再びキッチンへと向かう。洗濯物に触れ、乾いたのを確認するとタオルは綺麗にたたみ、物置へ。
アイロン台と熱しておいたアイロンを用意すると、ワイシャツとユニオンスーツにあて布をしながらアイロン掛けをする。綺麗にシワを伸ばしてヴァン・ヘルシングの部屋のクローゼットへ。
家事全般を終わらせた頃にはもう昼になっていた。
昼。
洗濯や掃き掃除を終え、伯爵は4階の自室へと向かった。
扉を開けると、今日は棺に向かうことなく、机に着いた。
机の上には分厚い本が何冊か置いてあった。それらは全てドイツ語で書かれたオランダに関する書物や辞書だ。
伯爵はオランダ語の書物と独蘭辞書を開くと、オランダ語をドイツ語に翻訳しながら書物を読み始めるのであった。
時折席を立つとキッチンへと向かう。キッチンストーブに新しい薪を投入し、火を消さないようにした。
語学勉強に飽きてくると、息抜きに机の下から編みカゴを持ち出してきて、刺繍途中の布を取り出した。
生成り色の麻の生地から青い糸が伸び、イーラーショシュの技法を用いたルーマニア伝統の刺繍模様があしらわれていた。
伯爵は針と糸で、布に細かな模様を縫っていく。あっという間に針穴に通しておいた糸が短くなり、糸巻きから新しく糸を伸ばして針穴に通した。
切りの良いところで語学の勉強に戻る。
陽が傾き始めて来た頃。
伯爵はそろそろ夕食の下ごしらえをしようと部屋を後にすると、キッチンへ向かった。
下ごしらえの前にココアを飲もうと、ケトルに水を注いでコンロの上に置いた。
お湯が沸く間、伯爵は作業台の上の新聞に目を通した。全ての内容を読めた訳では無いが、多少は把握出来るようになっていた。
「アムステルダム市……事件……警察官、殺され……制服……盗まれた……」
……この、警察官の制服を奪った犯人は何かを企てているのか……?
記事の内容をおおよそ把握した伯爵は、ふと、生前のことを思い出した――。
1462年6月。
メフメト二世率いるオスマン帝国軍がワラキア公国の首都にあるトゥルゴヴィシュテ城に迫ってきていた時のこと。
当時伯爵――ヴラド三世は30歳だった。
敵同じくしてハンガリー王マーチャーシュ一世に、支援する約束を果たすよう求めたがしらを切られてしまった。そこでヴラド三世は公国の数人の貴族や農民たちに徴兵を呼び掛けた。
ワラキア公国はなんとか約一万の兵を集めた。それでもオスマン帝国軍は十数万兵。圧倒的な武力の差があった。
このままではワラキア公国はオスマン帝国の手に落ちる。
オスマン帝国のスルタン、メフメト二世を殺害すべく17日の未明、ヴラド三世は夜襲を決行した。
準備は万全に整えた。オスマン帝国兵から奪った甲冑や装具を身にまとい、メフメト二世たちが寝静まる陣営へと、ヴラド三世自らが兵を率いて向かう。
辺りを照らすのは松明の赤い火のみ。
ヴラド三世率いる、数限られたワラキア公国軍は馬に跨り、オスマン帝国軍の陣営に突っ込んだ!
目指すはメフメトの首ぞ!
ヴラド三世の夜襲に気付いたイェニチェリ【オスマン帝国軍歩兵団】はメフメト二世を守るべく、ワラキア公国軍と激しい攻防戦を繰り広げた。
夜明けが近付き、とうとうメフメト二世の首を目の前にしてヴラド三世は撤退を余儀なくされてしまった。
夜が明けると、オスマン帝国軍の被害は甚大だったと言われている。
これが有名な“トゥルゴヴィシュテの夜襲”である。
【ルーマニアの画家、テオドール・アマン氏作“夜襲(原題:Bătălia cu facle a lui Vlad Tepes、ヴラド・ツェペシュの松明の戦い)”参照】
夜襲の難を逃れたメフメト二世はワラキア公国の首都、トゥルゴヴィシュテの城に入城すると、そこには約二万三千人の串刺しにされたオスマン帝国兵の“林”が広がっていた。
その凄まじく恐ろしい光景に戦慄せざるを得なかったメフメト二世は、夜襲の被害もあったのでワラキア公国から撤退していったのであった。
その事があり、ヴラド三世は“串刺し公【ツェペシュ】”と呼ばれるようになった。
その後、ヴラド三世はオスマン帝国軍を払い除け、イスラム教の国からキリスト教の国土を守った英雄としてたたえられた。だがそれもつかの間、マーチャーシュ一世によって無実の罪、ありもしない悪行をでっち上げられハンガリー王国に幽閉されてしまう――。
トゥルゴヴィシュテでの夜襲を思い出し、伯爵は深いため息をついた。
……あの夜に、この手で奴の首を取りたかった……。
新聞を持っている手に力が入る。さらに深いため息をつくと、今度は怒ったように眉を潜めた。
「マーチャーシュの奴め……。400年以上経った今でも許せん……」
あの時マーチャーシュ一世がちゃんと約束を果たしていれば、もしかしたら歴史は変わっていたのかも知れないし、ヴラド三世の人生はもっと違ったものになっていたのかも知れない。
そう思ってしまった瞬間、伯爵は怒りに持っていた新聞を思わずバリッ! と両側に引き裂いてしまった。
破いてしまった後に伯爵は、二つに裂けてしまった新聞を交互に見つめ、目をパチクリさせるのであった。
「あ……」
丁度ケトルのお湯が沸いた。
午後6時。ヴァン・ヘルシングが帰宅した。
玄関を開けると料理のいい匂いが漂ってくる。
ヴァン・ヘルシングは自室で着替えを済ませ、キッチンへと向かった。
キッチンの扉を開けると、作業台の上には湯気の立った出来立てホカホカの料理が既にあった。だが、伯爵の姿はどこにもない。仕方なくヴァン・ヘルシングは洗い場で手を洗い、椅子に座った。その時、スリッパ越しに何か柔らかいものにぶつかった感じがしたので、作業台の下をのぞき込んでみると、足元に大きな黒い犬が縮こまって伏せていたのだ。
ヴァン・ヘルシングはその場にしゃがみ込むと犬の顔をのぞき込んだ。
「……ヴラド?」
犬は困った様子で眉を寄せ、耳をヘタリと垂らしており、時折ヴァン・ヘルシングを上目遣いで見上げてはすぐに目を逸らした。そんな犬にヴァン・ヘルシングは呆れた様子でため息をつく。
「どうした? 嫌なことでもあったのか?」
「クゥン……」
犬がひ弱な声で鳴いた。
ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべると、真っ黒な、少しカールの掛かった毛の生えた犬の頭を優しく撫でた。
「俺は人語しか理解出来ないぞ……? 何か“言って”くれないか?」
すると犬は少し頭を上げ、おもむろに立ち上がった。犬の体の下から真っ二つに引き裂かれた新聞が姿を現した。
『済まない……。勢い余って破いてしまった……』
犬はヴァン・ヘルシングの隣に来ると大人しくお座りをした。
「何だ、こんなんで落ち込んでたのか? 可愛いヤツだな、お前は」
ヴァン・ヘルシングは可笑しそうに笑いながら犬の頭をワシャワシャと撫でると、新聞を拾って作業台の上に置き、椅子に座った。
「もう腹ペコだ。いただきます」
ヴァン・ヘルシングはフォークを取ると、早速料理を食し始めた。その隣では、犬は呆然としたように目をパチクリさせてヴァン・ヘルシングを見上げていた。
『……召し上がれ』
※15世紀のヨーロッパでは串刺しの刑は当たり前だった。ただし、農民に対してだが。
ヴラド三世はワラキア公に復位すると、ワラキア公国内の腐った政治体制を一掃しようと貴族に対しても串刺しの刑を科したと言われている。だが、“串刺し公”の異名がついたのは1462年、対オスマン帝国との戦いの時と思われる。
ヴラド三世にとって1462年は激動の年でした……。
幽閉中は暇つぶしに刺繍や編み物の手芸をやって、自分の子どもたちの服を作っていたみたいです。
果たして、誰が彼に手芸を教えたんでしょうね……? カタリーナだったら良いな……。
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