第二章 前編 吸血鬼崇拝者と小竜公編
23 エイブラハム・ヴァン・ヘルシングの休日
4月に入った。それでもアムステルダムはまだまだ寒い日が続いている。だが、着実に日の入りの時間は遅くなってきていた。
朝、6時半少し前。アムステルダムの日の出まであと10分ほど。
白み始めた窓の外からキュー、キューと鳴くカモメの声と、ベッド脇のサイドテーブルの上の目覚まし時計がチチチ……となる音、そしてヴァン・ヘルシングの規則正しい寝息だけが寝室で聞こえる。
ほどなくして目覚まし時計がジリリリッ! と鳴り、6時半になったことを告げた。
ヴァン・ヘルシングは布団から手を出すと、腕を伸ばして目覚まし時計を取り、ベルを止める。むくりと起き上がると目覚まし時計をサイドテーブルに戻し、眼鏡を掛けた。グッと伸びをし、一つあくびをする。
今日は休日で、ヴァン・ヘルシングはもう一眠りしようとしたが、ソーセージだろうか? かすかな燻製の香ばしい香りに鼻腔がくすぐられ、眠気が一気に吹き飛び、空腹を覚えた。
ベッドから起き上がり、部屋着に着替えてガウンを羽織ると寝室を後にした。
いい匂いが漂うホールを進み、そっとキッチンをのぞくと、ジュージューと焼ける音がした。伯爵がソムリエエプロン姿でソーセージを焼いていた。その背後の作業台にはホカホカと湯気を立てたマッシュポテトが置かれていた。
それはまさしくスタンポットだった。
スタンポットとはマッシュポテトみたいな料理で、ほうれん草や人参、たまねぎなどをじゃがいもと一緒に茹でたら牛乳、バターを加えてよく潰したもので、一緒の鍋でソーセージを焼くのもありだ。
マッシュしたポテトと焼けたソーセージを皿に盛り付け、マッシュポテトに小さなくぼみを作り、そこにグレービーソースを流せば、オランダの家庭料理、スタンポットの完成だ。
いつの間に覚えたのか、とヴァン・ヘルシングは伯爵に感心しながらキッチンへと入った。
「おはよう、ヴラド」
「おはよう、エイブラハム」
伯爵は焼けたソーセージをマッシュポテトの乗った皿に盛り付けた。
ヴァン・ヘルシングはキッチンストーブのすぐ横の洗い場で顔を洗い、ヒゲを剃ると、作業台横の椅子に座り、出来上がった料理を眺めた。
「スタンポットか、美味しそうだ」
「ここで食べるのかね?」
伯爵が首をかしげつつフォークを差し出してきた。
「ああ。薪代節約だ」
フォークを受け取ったヴァン・ヘルシングは早速スタンポットを食した。
「美味い」
ヴァン・ヘルシングは青い目を輝かせ、伯爵を見上げた。
伯爵は微笑ましそうにカップに紅茶を注ぐとヴァン・ヘルシングの手元に置いた。エプロンを外しヴァン・ヘルシングの向かいに座る。
「君の口に合って良かった。ミス・クララから教えてもらった」
ヴァン・ヘルシングはごっくんすると、恐る恐る尋ねた。
「もしかして……ノース邸でのパーティーの時か?」
「ああ、そうだ。ミス・クララが、これを作ればオランダの男は“イチコロ”だ、と言っていた」
伯爵の返答にヴァン・ヘルシングは咽るのであった。
「さて――」
伯爵はおもむろに立ち上がるとヴァン・ヘルシングを見下ろした。
「俺は少し寝かせてもらうとしよう」
「ゆっくり休んでくれ」
ヴァン・ヘルシングはスタンポットを頬張りつつ伯爵がキッチンを出るのを見届けた。
伯爵はキッチンを出ると、あっ、ときびすを返そうとしたが、まあ、良いか、と狭い階段を上がっていった。
……食器は夕食を作る前に洗えば良い。
4階に着いた。ホールの奥の部屋が伯爵の部屋だった。
去年の11月までは物が何もなく、埃まみれで全く使われていない様子だった。だが、かすかに人間のにおいが残っていた。エイブラハムとは違う、死を待つのみの年老いた女性のにおいだった。きっと彼の妻の療養部屋だったのだろう、と伯爵は悟った。その部屋は今や綺麗に掃除され、伯爵が持ち込んだ机や椅子、そして棺が置かれてある。ヴァン・ヘルシングはとくに何も言わなかったのでそのままこの部屋を使わせてもらっているというわけだ。
それにしても、この家――アムステルダムのほとんどの家だが――は幅が狭く、無論階段も急勾配で狭いので、棺は何とか玄関から運び込むことは出来たが、机を入れることは出来なかった――家主のヴァン・ヘルシングにとっては、入れられないのは承知だったが――。そこで登場するのが滑車(ウィンチ)である。
建物の側面上部にある滑車で机を吊るして、4階の部屋の窓から搬入したのだ。
アムステルダム特有の、家具の搬入光景を伯爵は呆然と見ていたのは言うまでもない。
搬入してくれた業者も慣れた手付きで迅速丁寧にやってくれたので、家の外壁や机は無事だった。でなければ困るのだが……。
伯爵は自分の寝室に入ると、眼の前に横たわる棺の傍らまで歩み寄り、そっと蓋を開けた。
棺の中身は、上等な敷物もなければ、ふかふかのクッションもない。ただトランシルヴァニアの土だけが敷き詰められている。
吸血鬼は、たとえ血液を得られたとしても、自分の生まれた土地の土で眠らなければ力を回復出来ないのだ。
少し前にヴァン・ヘルシングのベッドで耳掻きをしてもらった時、約400年ぶりに“人間の眠り”に就いた。
“人間の眠り”は伯爵にとって何の意味もなさない。だが何かが満たされた気分になってとても心地良かったのが忘れられないでいた。
伯爵は少し寂しげに土の上に横たわると、静かに棺の蓋を閉じるのであった。
朝食を終えたヴァン・ヘルシングは食器を洗い、布巾で拭くと、食器棚にしまった。そして作業台の上の新聞を少し読む。
「さて――」
ヴァン・ヘルシングは新聞を作業台に置くとキッチンを後にした。
向かった先は4階の書斎である。
扉を開けるとすぐ横に本棚があり、本がぎっしりと詰まっている。
窓の前には小さな机が一つ。その上には沢山の本が積み上げられている。ほとんどが医学の参考書だ。
3つの窓がある壁以外は全て本棚で埋め尽くされ、少し圧迫感があった。
ヴァン・ヘルシングは机の脇まで来ると、積み上げられている本を抱え、一冊一冊表紙を確認しながら本棚にしまっていった。時折、本棚の側面に飾ってある、以前クララ・バースがくれた、『浮気女』をモチーフとしたヴァン・ヘルシングとカタリーナ姿の伯爵の絵をついつい眺めてしまい、手を止めてしまう始末。
いかん、いかんと手元の本に視線を戻し、出しっぱなしにしていた本を本棚に戻していった。
出しっぱなしにしていた本を戻したところで、ヴァン・ヘルシングは机の下から鞄を取り出すと、中から大学の教科書や参考書、ノートを出し始めた。
ゆっくりと椅子に座り、次の講義に向けて教科書を開くのであった。
エイブラハム・ヴァン・ヘルシングの休日はほぼ、仕事漬けである。
だが時折、気分転換にレ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』を読むのであった。
昼。
空腹を感じ始めたヴァン・ヘルシングはおもむろに立ち上がると、書斎を後にした。
向かったのはキッチンである。
階段を降りてキッチンに入ると、当然だがかすかに肌寒くなっていた。
今日は伯爵は眠っていて、ヴァン・ヘルシング自身も火の管理が出来なかったのでキッチンストーブの火は新しい薪を追加されることなく自然と消えてしまっていた。
ストーブの窓を開け、そこから新しい薪を投入し、マッチを擦って火室に放り込んだ。少しして薪に火が点いたのでさらに薪を足していく。
ストーブの窓を閉めると今度はケトルに水を入れ、コンロの上に置いた。
お湯が沸くのを待つ間、食器棚からデルフト焼のカップを取り出し、調味料棚からはヴァン・ホーテンのココア缶と砂糖の瓶、冷蔵庫から牛乳を出し、ココアを淹れる準備をする。
慣れた手付きでココアパウダーをスプーン無しに、直接缶からカップに振り入れ、瓶備え付けのスプーンで砂糖を入れると作業台の上の新聞を読み始める。
ケトルからボコボコと音がし、湯気が立ち始めた。
厚手生地のタオル越しにケトルを掴むと、お湯をカップに注ぐ。半分ぐらいまで注ぐと、今度は牛乳を注ぎ、スプーンで良くかき混ぜる。ココアの完成だ。
ヴァン・ヘルシングは作業台脇の椅子に座ると、ココアをゆっくりと飲みながら新聞を再読し始めた。これがヴァン・ヘルシングの昼食である。伯爵には内緒だが――。
ココアを飲み終えるとカップを洗って、また書斎へと戻っていった。
夕方、午後8時。
間もなく日の入りの時間を迎えるアムステルダムの空は薄明りが広がり、少しずつ街を夜色に染めていった。ほどなくして歩道の電気式の街灯が点き始めた。
淡い街灯の光の中、眼の前を流れる小さな運河だけがキラキラと光を反射させていた。眼の前の歩道は静かで誰も歩いていなかった。
そんな様子をヴァン・ヘルシングは、薄暗くなってきた書斎の窓から眺めては、机の上の懐中時計に視線を落とす。
……そろそろ行こう。
ヴァン・ヘルシングは窓際を離れると鞄を持って書斎を後にした。
書斎を出るとホールは、見えないほどではないが暗かった。
階段の角から伯爵の部屋の前をのぞき見たが、扉は閉じられたままだった。それはまだ、伯爵が起きていないことを示していた。
それを確認したヴァン・ヘルシングは静かに階段を降りていった。
向かったのは自身の寝室である。
ヴァン・ヘルシングは机の上に鞄を置くと引き出しから、薄暗い中手探りでマッチを探し出し、ベッド脇のサイドテーブルの上のオイルランプに火を灯した。
オイルランプ片手にもう一つの鞄――手術道具の入っている方――を持ち、薄暗い家の中を照らしながらキッチンへと向かう。
キッチンに入ると、室内は真っ暗だった――窓がないので当然なのだが――。オイルランプの明かりを頼りにキッチンストーブに薪を投入し、マッチで火を点けた。薪に火が点き、ストーブに新たに薪を投入するとヴァン・ヘルシングはよっこいしょ、と椅子に座る。鞄を作業台下に置くと、作業台の上のオイルランプの、ゆらゆらと揺れる火を眺めては、ふと天井の電球用の口金を見上げた。
……電球、やはり付けたほうが良いだろうか……?
そうこうしている内にキッチンの扉が開かれた。そちらを見ると、オイルランプの明かりに照らし出された伯爵が立っていた。無論彼には影がなく、閉じられた背後の扉が、同じくオイルランプの明かりに照らされていた。
「“おはよう”、ヴラド」
ヴァン・ヘルシングが顔を綻ばせ、伯爵を見上げた。
「“おはよう”、エイブラハム。すぐに夕食を作ろう」
伯爵は椅子に掛けていたエプロンを腰に巻くと冷蔵庫や調味料棚を漁り始めた。取り出したのはとうもろこしの粉に塩コショウ、牛乳、バター、豚肉に赤と黄色のパプリカだった。
パプリカや豚肉を慣れた手付きで切っていき、まな板の上に置いておく。
キッチンストーブ奥のコンロに鍋を置き、とうもろこしの粉と牛乳、バターを入れ、木べらでゆっくりとかき混ぜた。手前のコンロにはフライパンを置き、油を引く。
とうもろこしの粉と牛乳、バターが合わさってねっとりとし始めると、伯爵は素早くかき混ぜた。水分が抜けていき、柔らかく形が作れるぐらいに固まると、鍋をコンロから下ろして出来上がったものを皿に盛った。
出来上がったのはルーマニアの家庭料理、ママリガである。
ママリガはとうもろこしの粉のお粥みたいなもので、ルーマニアでは主食として食べられている。
ママリガが出来上がると、伯爵は手早く熱したフライパンにパプリカと豚肉を入れた。ジュワッ! と焼ける音がキッチンに響き渡り、香ばしい香りが漂う。その匂いにヴァン・ヘルシングは腹の虫を鳴らすのであった。
焼色が着いてきたパプリカと豚肉に塩コショウを振り掛けて味を付ければ、パプリカと豚肉の炒め物の出来上がりだ。
伯爵は炒め物を皿によそうと、ママリガと一緒にヴァン・ヘルシングの眼の前に置いた。
「召し上がれ」
伯爵がヴァン・ヘルシングにフォークを差し出しながら言った。
「ありがとう」
ヴァン・ヘルシングはフォークを受け取ると早速パプリカと豚肉を頬張った。次いでママリガをすくい、口に入れる。豚肉の甘い脂とママリガの素朴な味が絶妙に絡み合い、肉厚のパプリカも塩コショウで甘みが引き立ち、とても美味しかった。ヴァン・ヘルシングにとってルーマニアの料理で一番好きな組み合わせだった。
顔を綻ばせているヴァン・ヘルシングの向かいに、伯爵はゆっくりと腰掛け、美味しそうに食べている彼を眺めた。
「美味しいかね?」
伯爵が尋ねるとヴァン・ヘルシングは笑顔を浮かべながらうなずいた。
夕食を終えたヴァン・ヘルシングは一週間に1回のシャワーを震えながら――冷水しか出ないので――浴びていた。
夜。
キッチンの洗い場で歯磨きを済ませたヴァン・ヘルシングは、その背後の作業台で洗った皿を拭いている伯爵に振り向いた。
「これはしまっても良いやつか?」
ヴァン・ヘルシングが積み重ねてある皿を指さした。
「ああ、よろしく」
伯爵は次の皿を拭き始めた。
ヴァン・ヘルシングは食器棚の扉を開けると、皿を慣れた手付きでしまい始めた。元々は一人でやっていたことだ。ヴァン・ヘルシングにとって何の苦でもない。
皿をしまい終えると、さて、とヴァン・ヘルシングは呟いた。
「お前も“食事”しないとな」
ヴァン・ヘルシングは作業台の下から手術道具の入っている鞄を出してきた。伯爵が待ってました、と言わんばかりにニタリと口角を上げた。
伯爵の夕餉を終え、微睡んできたヴァン・ヘルシングはあくびを一つする。
「そろそろ俺は寝るよ」
「ゆっくり休むと良い」
ヴァン・ヘルシングはオイルランプを持ってキッチンを出ようとしたところで伯爵に振り返った。
「Goedenacht【蘭語:おやすみ】, Vlad.」
初めてオランダ語で伯爵に言ってみたが、ドイツ語と少し発音が似ていたこともあって、伯爵は何かを考えることもなく返してきた。
「Noapte bună【羅語:おやすみ】, Abraham.」
ヴァン・ヘルシングは口元を緩めるとキッチンを後にした。
自室に戻ると机の上の鞄を漁り、明日の講義の準備をする。教科書や参考書、ノートを鞄に入れたことを確認し、オイルランプをベッド脇のサイドテーブルに置いた。オイルランプのつまみを回し、火を小さくすると今度は目覚まし時計を掴みゼンマイを巻いた。
時刻は午後11時。
ヴァン・ヘルシングはベッドに横になり掛け布団を掛けると、眼鏡をサイドテーブルに置いて静かに目をつぶったのであった。
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