22 『浮気女』

 同日。伯爵は今日は留守番だった。

 今日は土曜日ということもあり、朝からヴァン・ヘルシングはウキウキした様子だった。多分週に一回の給料日だからであろう。

 だが今日の土曜日はいつも以上にウキウキ――否、ソワソワしていた。

 伯爵がそれを見逃すはずがなく、今日は“留守番”することにしたのだった。

 ヴァン・ヘルシングが出勤すると、伯爵は朝食の後片付けをした後、部屋の掃除や日用品の買い出し、夕食の仕込みで日中を潰した。そして夕方、ヴァン・ヘルシングが帰ってくるのを待った。だが、ヴァン・ヘルシングはなかなか帰ってこなかった。

 リビングの窓から外を眺めると空は薄明で、もうすぐで夜が訪れることを告げていた。

 伯爵は上着にマントを羽織り、帽子を被ると、再度出掛けていった。

 予想はしていたものの、ヴァン・ヘルシングをダム広場のとある宝飾店で見つけ、結局のところ伯爵もソワソワしてしまったのだ。

 小さな窓から中腰になって店内をのぞいていると横の扉が開き、店員と思われる男性が伯爵に向かって笑みを浮かべながら言ってきた。

「お客様、もしよろしければ、“どうぞ”」

 せっかく“招いてもらった”ので、伯爵は姿勢を伸ばすと物音立てずに入店した。

 ヴァン・ヘルシングは何故かレジの前で思い悩んでいる様子で、伯爵がやって来たことに気付いていなかった。

 男性店員は扉を閉め、伯爵に振り向くと、伯爵の姿はいつの間にかいなくなっていた。

「あれ……? さっきのお客さんは……」

 首をかしげる男性店員を他所に伯爵は霧に姿を変え、レジの前で立ち尽くしているヴァン・ヘルシングの表情を伺った。

 ヴァン・ヘルシングは窮地にでも追いやられたような表情で、じっとまっすぐお金を乗せたトレーを見つめていた。

 伯爵はレジカウンター越しの女性店員の手元を見た。

 女性店員の手元にはお金を乗せたトレーと綺麗にラッピングされた小さな箱の包み、そして商品の値段タグがあった。

 商品の値段とトレーの上のお金を見比べてみると1セント足りなかった。

 伯爵は思わず声を殺して失笑し、再度ヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込んだ。するとヴァン・ヘルシングが落胆した様子でため息をついた。どうやら購入を諦めるのかもしれない。

 伯爵は自身の財布から1セント玉を出すと、そっとヴァン・ヘルシングの上着の右ポケットに入れた。

 すぐにヴァン・ヘルシングが反応し、ポケットに手を突っ込み1セント玉を取り出した。

「あ……りました……」

 伯爵は、1セント玉を見つめたヴァン・ヘルシングを見届けると霧の姿のまま店を後にした。


 帰るのが遅くなってしまったな、とヴァン・ヘルシングは思いつつ玄関を開けると美味しそうな料理の匂いが漂ってきた。

 ヴァン・ヘルシングは少し申し訳無さそうにスリッパに履き替えると、急勾配の階段を上がっていった。

 ヴァン・ヘルシングの住まいである3階に着くと、ホールは暖かく、外は真っ暗なのに明るく感じた。

 ホールの先にあるリビングの扉が少し開いており、扉の隙間からオレンジ色の光が漏れてホールを照らしていた。

 ヴァン・ヘルシングは上着や帽子、鞄を手に持ったまま恐る恐るリビングの扉を開けた。

「お帰り、エイブラハム」

 出迎えてくれたのは伯爵――カタリーナだった。カタリーナはどこか機嫌が良さそうに、にこりと微笑んでいた。

「すまん、遅くな――」

 ヴァン・ヘルシングが言い掛けたところでカタリーナは彼の上着や帽子、鞄をそそくさと受け取ると、その腕を引き、ヴァン・ヘルシングをリビングの椅子に座らせた。

「少し待ってて」

 カタリーナはそう言うと、リビングを少し弾んだ足取りで出ようとしたが、ヴァン・ヘルシングが何かを思い出したようで引き止められた。

「あ、待ってくれ」

 カタリーナが扉の前で振り返った。

「どうしたのかしら?」

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナに歩み寄ると、“彼女”が持つ上着や帽子、鞄を無言で取り戻した。

 カタリーナが目をパチクリさせる。

 ヴァン・ヘルシングは荷物をソファーに置くと、上着の内ポケットをまさぐり、宝飾店で購入した包みを出すと、平静を装った様子でカタリーナに振り返る。

「あー、ヴラド……」

「なぁに?」

 カタリーナが嬌笑を浮かべながらゆっくりと歩み寄ってきた。

「その……」

 ヴァン・ヘルシングは我慢が出来なくなったのか、次第に顔を赤くさせ、青い目を泳がせると、そっとカタリーナに包みを差し出した。

「これ……」

「まあ、エイブラハム……」

 カタリーナは真っ赤な瞳を輝かせながら嬉しそうに包みを受け取った。

 カタリーナはいそいそとソファーに座ると、包みを膝の上に置き、包みを丁寧に開け始めた。その隣にヴァン・ヘルシングが静かに座り、不安げにカタリーナを見つめた。

 包みの中の小さな箱が開けられ、被せ布が剥がされた。

 現れたのは、真鍮製の透かしが入った土台に、中央には女性の横顔が掘られたカメオと、その両側に小さな螺鈿のカボションとシードパールが添えられた小ぶりで上品な髪留めだった。

 カタリーナはそっと箱から髪留めを取り出し、愛おしそうに眺めた。

 ヴァン・ヘルシングは耳まで顔を真っ赤にさせながら、少し後ろめたそうに言った。

「お前にとっては安物かもし――」

 突然カタリーナに人差し指で口を塞がれ、ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

「君が選んでくれたものを、安物だなんて言わないわ」

 カタリーナは愛嬌良く言うと、髪留めをヴァン・ヘルシングに差し出した。

「わたしの髪に着けてくれるかしら?」

 そう言われヴァン・ヘルシングはドキリとし、震える手でカタリーナから髪留めを受け取った。

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナに身を寄せると、カタリーナの艷やかで柔らかな黒い髪にそっと触れ、痛くしないように髪留めを、“彼女”の髪に着けた。

 カタリーナの黒々とした豊かな髪に真鍮色の髪留めが映えて見えた。

「これで……良いか……?」

 ヴァン・ヘルシングが恐る恐る問うと、カタリーナは髪に着けられた髪留めに手を添えた。

「ありがとう、エイブラハム。大切にするわ」

 ヴァン・ヘルシングは安堵したように胸を撫で下ろした。

「急に腹が減った……」

「夕食は出来ている。座ると良い。持ってこよう」

 カタリーナは立ち上がると弾んだ足取りでリビングを出ていった。そんなカタリーナにヴァン・ヘルシングは顔を綻ばせるとダイニングテーブルに着いた。


 翌日、日曜日の昼。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵はアムステルダム市立病院にいた。クララのお見舞いだ。

 クララは大分元気になっており、本――『ギルガメシュ叙事詩』――を読んだりしていた。

「良かった、クララさん。もう貧血は良さそうだ」

 ヴァン・ヘルシングがクララの手首の脈を測りながら言った。

「おかげさまで、今日の朝から体調がいい感じです。数日後に退院予定です。……それにしても――」

 クララがふと、伯爵を見上げた。伯爵は首をかしげる。

 クララはニンマリと口角を上げ、興奮気味に尋ねた。

「マントの襟のピンって……女性物、ですよね……?」

 クララの言葉にヴァン・ヘルシングが、えっ? と反応し、伯爵に振り向いた。確かに伯爵のマントの襟には、昨夜プレゼントした髪留めが着いていたのだ。

 伯爵はふふっと微笑むと、大事そうに髪留めに手を添えた。それにヴァン・ヘルシングの顔が一気に紅潮した。

 そんなヴァン・ヘルシングと伯爵を交互に見たクララは何かを察知し、キュンキュンとした様子で体を揺さぶった。

……良いっ! とっても良い!

「だが……」

 突然、伯爵が少し悲しそうな口調で話し始めた。

「せっかくエイブラハムからもらったものを、余が身に着けたところを鏡で見ることが出来ないのが残念だ……」

 伯爵が名残惜しそうに胸元の髪留めを撫でた。

 ヴァン・ヘルシングは今まで気にも留めていなかったのか、伯爵の残念そうな言葉に気付かされた。

……そうか、ヴラドは自分の姿を見れないんだ……。

「それならわたしにお任せください!」

 クララが思い切ったように言った。


 数日後、夕方。アムステルダム市立大学のヴァン・ヘルシングの研究室にて。

 研究室にはアドリアンとクララが来ていた。クララは脇に一枚の額縁を携えていた。

 クララは興味津々にヴァン・ヘルシングの机の横の、伯爵の棺に釘付けだった。そんなクララを、呆れた様子でアドリアンが引っ張り、ヴァン・ヘルシングと伯爵の元に連れてきた。

「クララ、渡すものがあるんでしょ」

 アドリアンに言われ、クララはパッ! と表情を一変させた。

「そうだった! ヴァン・ヘルシングさん、ドラキュラさん、この度はわたしたちのことを助けでいただき、本当にありがとうございます」

 クララとアドリアンが改めて二人にお辞儀をした。

「大したことはしてないさ」

「元気になって良かった。ミス・クララ」

「お礼、といいますか……受け取ってください!」

 クララは意気込んだ様子で、脇に抱えていた額縁を勢い良くヴァン・ヘルシングと伯爵に差し出した。

 代表してヴァン・ヘルシングが額縁を受け取ると、早速包んでいた布を取り、絵が露わとなった。

 それはアルフォンス・ミュシャの『浮気女』をモチーフとしたもので、カタリーナとヴァン・ヘルシングが描かれていた。

【アルフォンス・ミュシャ作『浮気女(Flirt)』は1899年、フランスのルフェーヴル・ユティル社のフリートビスケットの宣伝ポスターとして発表】

「これは……」

 自分の隣で嫣然と笑うカタリーナの姿に、ヴァン・ヘルシングは思わず感嘆をもらしてしまった。

「わたしって、こんなに美人だったのだね?」

 カタリーナの声がし、隣を見るとカタリーナが腕を、自分の腕に絡ませてすり寄っていた。

「うわっ!」

 ヴァン・ヘルシングが顔を真っ赤にさせ、飛び上がったのは言うまでもない。






第一章 ルスヴンと髪留め編 Finis.







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