21 髪留め

 オーガスタス・ダーヴェルを退治して数日が経った土曜日。

 ヴァン・ヘルシングは自身の研究室で一人、ソワソワしていた。

 今日は給料日で、仕事終わりに総務課の部屋を訪れ、今週分のお給料をもらうのだ。

 本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングは帰り支度を済ませるといそいそと総務課の部屋に向かった。

 総務課の職員から給料の入った封筒を受け取ると足早に研究室に戻り、封筒の中の給料の額を数える。その中から日々の食費や水道光熱費諸々を差し引いて残る額を計算する。

……今日はヴラドは留守番だから……。

 ヴァン・ヘルシングは今日は空っぽの棺を眺めつつ上着を羽織り、帽子を被ると、鞄を持って研究室を後にした。

 大学を出ると、空は薄暗かった。否、大分日が伸び、明るくなってきた、と言うべきだろうか。

 家路につきつつ、ダム広場を訪れた。

 

『わたしに何をくれる?』

 

 ノース邸でのパーティーで伯爵――カタリーナに言われた言葉を思い出し、ヴァン・ヘルシングは小さくドキリとした胸に手を当てて立ち並ぶ宝飾店を見渡した。

 ライトで照らされた、小さなショーウィンドウに飾られる指輪やブレスレットの類を眺めながら髪飾りを探す。どれもこれも、見るからに高価なものだと分かる。

 シルバーの台座に透き通るような、透明な宝石がはめ込まれ、ライトに照らされてきらきらと輝いている。何を隠そう、ダイヤモンドだ。

 オランダでとくに扱われている宝石がダイヤモンドで、ダイヤモンドのカットの種類にローズカットと呼ばれるカット技術があるが、それは16世紀のオランダが発祥で、その輝きと技術に当時の王侯貴族は魅了された。しかしながら、ダイヤモンドは高価な宝石だ。産業革命で庶民の間でもダイヤモンドを手にする機会は増えつつあるが……。

 ヴァン・ヘルシングはゴクリと固唾をのんだ。

……私には……手が出せない……。

 今までこっそりと貯めていたお金も、今日は持ってきた。それでもきっと足りないであろう。そう思うと実に情けなくなってきた。

 今日は潔く帰ってしまおうか? それとも、もう少し見て回っても……。

 ヴァン・ヘルシングが悩んでる横で一組のカップルが宝飾店の扉を開け、入って行った。それにヴァン・ヘルシングは良く分からない焦りを覚えた。

……決めなければ……男だろっ!

 ヴァン・ヘルシングは大きく深呼吸をすると、宝飾店街を再度歩き始めた。

 ようやく目星をつけたヴァン・ヘルシングは宝飾店の扉を開け、恐る恐る入るのであった。


「お客様、1セント足りません」

 目の前の女性店員がにこやかに言ってきた。

 ヴァン・ヘルシングは、えっ! と目を見張り、代金を乗せたトレーの上の、“大量”の硬貨を必死に数えた。確かに1セント足りなかった……。

 女性店員の手元には商品の代金が乗ったトレーと――1セント足りないが――、商品から外された値段タグ、そして商品が包まれている小さな箱が、綺麗にラッピングされて待ち構えている。今更、購入を断念するなど気まずくて言い出すことすら出来ない。

 財布や小銭入れの中身を見つめ、1セント玉がないか必死に確認し、落胆すると鞄に財布と小銭入れを押し込む。今度はダメ元で上着のポケットに両手を突っ込んでみたが、何も触れるものはなかった。

 心臓が早鐘を打ち始め、こめかみに冷や汗が流れる。

……生活費を削るか……。たかが1セント。……されど1セント……。去年の日本渡航も、8年前の旅も結構な痛手だったな……。

【因みに19世紀末、オリエント急行の一等車両に乗るには、当時の召使の給料1年分以上が必要だったとか……】

 だが、8年前のあの世にも恐ろしく奇妙な出来事がなければ、彼は今頃、孤独だったに違いない。 

 ヴァン・ヘルシングは心の中で自嘲しつつ、昔を懐かしんだ。

 吸血鬼王であったドラキュラ伯爵と対峙して、滅ぼして、あんな誰も体験したことのない経験をして、お金が足りないので購入を断念します、と言うことぐらい何の恐怖でもない。

 一つため息をつくと、ヴァン・ヘルシングは申し訳無さそうに眉尻を下げ、今まさに、買うのを止めます、と言おうとした時だった――。

 ストン、と上着の右ポケットに小さな重みを感じた。ポケットに手を入れてみると、指先に冷たい、小さな板状のものが触れ、それをつまみ上げて凝視した。それは銅色で、表には剣と矢の束を持った、王冠を被ったライオン。その周りには“KONINGRIJK DER NEDERLANDEN【蘭語:オランダ王国】1899”と彫られており、裏には“1CENT”とあった。まさしく1セント玉だった。

「あ……りました……」

 ヴァン・ヘルシングは呆然とした面持ちで、ポケットの中に突如として現れた1セント玉を、不思議に思いながらトレーの上に静かに置いた。

「では、丁度頂きます」

 女性店員が再度にこやかに言い、代金の乗ったトレーをさっと引っ込めるとレジスターを操作した。

 カシャン、カシャンとレジスターのボタンを押し、勢いよく開いたドロワーに代金の硬貨をしまっていった。

 ヴァン・ヘルシングは内心安堵し、髪留めが入ってる包みを上着の内ポケットに忍ばせた。

「ありがとうございました」

 女性店員ににこやかに見送られ、ヴァン・ヘルシングは店を出た。

 空はもう真っ暗だった。

 ヴァン・ヘルシングは先ほどの1セント玉を不思議そうに振り返りながら家路についた。






※本当は本編第二部に記していればよかったのですが……。

 19世紀後半当時、オリエント急行の一等車料金は、パリからコンスタンティノープルまでの往復間は60ポンド。これは当時の英国の召使の年収20ポンドを遥かに超える額で、王侯貴族、裕福な商人・旅行者ぐらいしか乗れなかった。

 因みにオランダの当時の通貨はギルダー(Gulden:フルデン。フローリン、グルデンとも)で、【1ポンド=12ギルダー、1ギルダー=1/12ポンド】のレートだった。

 参考として19世紀(100年間とちょっと幅が広いが)オランダ(出島)の医者の年収が1,500ギルダー。

 因みに全部の職業をひっくるめた19世紀末オランダの年収が約430〜580ギルダー。

 間を取ってエイブラハムの年収を1,100ギルダーとする。当時の公務員の年収は高い水準とのこと(アムステルダム市立大学は名称の通り市立大学なので、エイブラハムは公務員です)。

 オリエント急行に乗車するのに60ポンド=720ギルダーが必要ということになる。年収の半分以上が一気に無くなる計算だ。因みに19世紀末のアムステルダムの平均家賃は年間約300〜500ギルダーだった。

 エイブラハムのアパートは2階分と屋根裏を借りてるので500ギルダーとする。

 オリエント急行には怖くて手が出せない……。


参考にさせていただいたサイト↓

https://coin-walk.site/E026.htm

https://coin-walk.site/J062.htm

(外国の為替レートについて)


https://www.researchgate.net/figure/Amsterdam-Mean-Rents_fig3_328278380

(アムステルダムの家賃代について。英語です)


https://drive.google.com/file/d/1UEMdo00-aN85sMl00KY7B7VDSX7UFfWn/view?usp=drivesdk

(PDF、13頁。1875年、当時の共通通貨クローナでギルダーとポンドを比較。英語です)

1ポンド=18.2クローナ

100ギルダー=149.9クローナ(1ギルダー=1.499クローナ)→

18.2÷1.499=12.1→

1ポンド=12ギルダー、1ギルダー=1/12ポンドの計算。


 因みに明治時代後期の日本では

1ポンド=9.76円、1ギルダー=0.8円のレート。明治時代の日本円で比較。

9.76÷0.8=12.2→

1ポンド=12.2ギルダー、1ギルダー=1/12.2ギルダー

 価値的に大体同率かと……。間違ってたらすみません……。


 おまけで、エイブラハムが去年(1900年夏頃)横浜で購入したファブルブラントの懐中時計だが、下記の資料(1908年のもの)より値段を16円40銭とすると→

1ギルダー=0.8円

16円40銭(16.4円)÷0.8円=20.5ギルダー

http://www.kodokei.com/dt_063_4.html#sec04

 エイブラハムの年収を1,100ギルダーとして、1ヶ月91.7ギルダー、1週間の給料22.9ギルダー。

 エイブラハムにとって日本で購入した懐中時計は約1週間分の給料ということになる。確かに奮発した……。


https://drive.google.com/file/d/1UaAlHqFTn0hX10saUMn3FouRq2GE40gZ/view?usp=drivesdk

(PDF、69頁。オランダの1日の、全部の職業をひっくるめた平均賃金のグラフ)


参考にさせていただいた書籍↓

『鉄道の食事の歴史物語』著者ジェリ・クィンジオ







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