20 尾行

 ヴァン・ヘルシングとアドリアンは、伯爵扮するヴァン・ヘルシングの後を追い、アムステルダム市立大学の玄関を出て、ミネルヴァの胸像の植え込みの影から、もう一人のヴァン・ヘルシングを見つめていた。その周りには帰宅していく学生たちで溢れ、二人の奇妙な行動を好奇の目で見ながら大学の門を出て行った。

 もう一人のヴァン・ヘルシングが門を出ると、待ち構えていたのは、なんとカタリーナだったのだ! 二人はカタリーナの登場に目を見張り、凝視した。

……ダーヴェル……。まさかヴラドの女姿で登場するとは……。

 ヴァン・ヘルシングはどこか妙な気持ちになりながらもアドリアンとともに、もう一人の自分とカタリーナの後を尾行した。

 もう一人の自分にダーヴェル扮するカタリーナがベッタリと抱きつき、いかにも厭味ったらしく見えてしまった。だがそれはただの不快感からなのか、嫉妬心からなのかはヴァン・ヘルシング自身、どちらなのかが分からずじまいだった。ただ、もし嫉妬心だったとしたなら、どちらに嫉妬しているのだろうか……。

 アムステルダム市立病院の前に差し掛かると、もう一人のヴァン・ヘルシングとカタリーナは家路とは別の方の道、運河に掛かる橋の方へと行ってしまった。ヴァン・ヘルシングとアドリアンも街灯の影に身を潜めながら、前を行く二人を眺めた。

「ドラキュラさんは、ダーヴェルの狙いは先生と言ってましたが、どうする気なんでしょう……?」

 ヴァン・ヘルシングの背後からアドリアンが小声で尋ねた。

「分からない。ただ……命に関わることかもしれない」

「命!? むぐっ」

 ヴァン・ヘルシングの返事にアドリアンは思わず叫んでしまい、とっさにヴァン・ヘルシングが彼の口を塞いだ。

「しーっ! ……ダーヴェルは私の身近な人物に変身してまで近付いてきてる。こうしている間にも――」

 ヴァン・ヘルシングがもう一人の自分とカタリーナに視線を戻した瞬間、濃い霧が漂い、あっという間に橋の上の二人が見えなくなってしまった。

……しまった!

 ヴァン・ヘルシングはすかさず駆け出した。

「ヴラド! ヴラドッ!」

「先生!」

 アドリアンもヴァン・ヘルシングを追って駆け出した。

 真っ白な濃い霧の中、ヴァン・ヘルシングは懸命に、伯爵扮するもう一人の自分を探した。

「ヴラドッ! どこだ!?」

 その時だった。

「お前のような若造が余を取り留めるだと? ふふっ! 400年早いわっ!」

 すぐ近くでカタリーナの声が聞こえた。果たしてダーヴェルが言ったのか、伯爵が言ったのかは定かではないが、ヴァン・ヘルシングは声のした方へ全速力で駆けていった。

「ヴラドォォオオッ!」

 駆け出してすぐに霧を抜けたかと思えば、目の前にはもう一人の自分の胸ぐらを掴むオーガスタス・ダーヴェルの姿があった。

 ダーヴェルはヴァン・ヘルシングを驚愕の表情で見ていた。

 ヴァン・ヘルシングは駆ける足を止めることなくダーヴェルに体当たりし、もう一人の自分から突き離すとそのまま押し出していき――ヴァン・ヘルシングとダーヴェルは橋の欄干を乗り越え、極寒の運河に転落した。

 霧が晴れ、その場にアドリアンも駆けてやって来た。

「先生!」

 アドリアンは欄干から身を乗り出すと、波打つ運河の水面を必死に見渡した。その時、水面が水しぶきを上げた。現れたのはヴァン・ヘルシングだ。アドリアンが安堵するのもつかの間、再びヴァン・ヘルシングが水の中に、吸い込まれるように消えてしまったのだ!

「先生! 先生ぇぇええっ!」

 ヴァン・ヘルシングと入れ替わるようにして水面から出てきたのはダーヴェルだった。

 ダーヴェルは死物狂いでヴァン・ヘルシングを土台にして水から出ようと必死だった。

「助けてくれ! 助けてくれっ! 助けてくれぇぇええっ! “浄められる”っ!」

 ダーヴェルは発狂したように喚き叫び、橋の欄干に手を掛けようとした。そこにもう一人のヴァン・ヘルシングが身を乗り出してきたかと思えば姿をカタリーナに変え、ダーヴェルの手を掴んだ。その光景を見ていたアドリアンは自身の目を疑った。

……ドラキュラさん……? まさか……。

「……カタリーナ……」

 ダーヴェルは助かった、と言わんばかりにカタリーナを見上げた。そして欄干をよじ登ろうとすると、勝手に体が浮き上がっていった。今一度カタリーナを見上げると、そこにいたのはカタリーナではなく伯爵だったのだ。

 背の高い伯爵に持ち上げられたダーヴェルの頭は欄干の高さを越え、伯爵の目線と合った。

 ダーヴェルの足の下の水面からヴァン・ヘルシングがブハッ! と息を切らしながら出てきた。

「先生っ!」

 アドリアンはヴァン・ヘルシングが無事に出てきたことと、伯爵がヴァン・ヘルシングを助けるためにダーヴェルを持ち上げたのだと悟り、胸を撫で下ろした。

 ダーヴェルは伯爵の登場に目を丸くするばかりで、恐る恐る伯爵に尋ねた。

「カタリーナ……?」

「“オーブリー兄妹によろしく”。ダーヴェル」

 伯爵はそう言い放つと、ダーヴェルの体を勢いよく高く振り上げ、運河のど真ん中に放り投げた。

 ドボンッ! と激しい水しぶきを上げ、ダーヴェルは頭から運河に落ちた。

「ぎゃぁぁああ! 助けて――」

 ダーヴェルの体はズブズブと運河の中に沈んでいき、時折ゴボッ、ゴボッと、まるで大量の砂をいっぺんにドサッ、ドサッと入れた時に出る空気のように音を鳴らしながら消えていった。その様子を、未だ運河の中で眺めていたヴァン・ヘルシングは体をブルブルと震わせながら、興奮したように水面をバシャリ! と叩いた。

「そのまま海に流れちまえ!」

 その時夜空の雲が晴れ、月が顔を出すと運河を煌々と照らし出した。それでもダーヴェルは水面から上がってくることはなかったので、ようやくダーヴェルを退治出来たのだ、とアドリアンは大きなため息をついた。

「それにしても、オーガスタス・ダーヴェル……呆気なく滅びましたね……」 

 アドリアンが呟くように言うと、ヴァン・ヘルシングが唇をガタガタと震わせながら言った。

「あっ、呆気なく、滅んでしまった。それが、一番さ……。わ、私を、上げてくれ。凍え死に、しそうだ……」

 アドリアンはすみません! と叫ぶと欄干から身を乗り出し、ヴァン・ヘルシングに手を差し伸べた。

 ヴァン・ヘルシングはブルブル震える手を伸ばし、アドリアンの手を掴んだ、が――一向に上げてもらえる気配がなかった。

 あれ? とヴァン・ヘルシングはアドリアンを見上げると、アドリアンは歯を食いしばり力んで入るものの、どうやら腕力が少々足りなかったようで――若しくはヴァン・ヘルシングが重……――、ヴァン・ヘルシングを引き上げることが出来なかった。すると横に伯爵が立った。

「余が引き上げよう」

「すみません、非力で……」

 アドリアンは情けなさそうに言うと、ヴァン・ヘルシングの手を離し、その場を伯爵に譲った。

「エイブラハム」

 伯爵がヴァン・ヘルシングに手を差し伸べた。ヴァン・ヘルシングは一笑すると伯爵の手を掴んだ。

 ヴァン・ヘルシングは欄干に片手を、橋に片足を掛け、水面から出ようと伯爵の手を引っ張った。その時だった――。

 頭上から伯爵の、あ……という間の抜けた声が聞こえ、思わずヴァン・ヘルシングは伯爵を見上げた。

「え……?」

 なんと、無表情の伯爵が前のめりに倒れ込み、欄干を超えてヴァン・ヘルシングの上に落ちてきたのだっ!

「あぁぁああっ!」

 一部始終を見ていたアドリアンは思わず悲鳴を上げた。

 ザブンッ! と再度激しい水しぶきが運河に起こり、ヴァン・ヘルシングはまたブハッ! と水面から出てきた。

「おいヴラド! 一体何のつもりだっ!?」

 ヴァン・ヘルシングはぷんすか怒りながら伯爵の姿を探した。が、伯爵の姿が見えない。

「ヴラド……?」

 ヴァン・ヘルシングは水面をバシャバシャと鳴らしながら必死に辺りを見渡した。

「ヴラド! どこだ!?」

 緩やかに流れる運河に身を任せ、伯爵は本当の意味で身動きが取れずただただ下へ、下へと沈んでいた。

……ああ、余の穢れきった魂が否応なしに洗い流され……体だけが沈んでいく……。永遠の眠りにつくよう――。

 水の上で自分の名前を必死に呼ぶヴァン・ヘルシングの声がどんどん遠のいていく感じがした。

 目の前の水の中が異様に黒く濁り始め、そこから真っ赤に燃え盛る地獄の炎と真っ黒な山羊のような頭の異形が見えた気がした。きっと悪魔が伯爵の魂を奪いに来たに違いない。

 これが、余の本当の最期なのか、と悟った伯爵は、苦笑いを浮かべると静かに目を閉じた――。

……本当に呆気ないものだ――。

「ヴラドッ!」

 ヴァン・ヘルシングは水中から伯爵の体を引き上げると、橋の上のアドリアンに叫んだ。

「ヴラドを上げてくれ!」

「で、でもっ――」

 慌てふためくアドリアンにヴァン・ヘルシングは、励ますように続ける。

「大丈夫だ! 私よりヴラドの方が軽い!」

 ヴァン・ヘルシングはまるで猫でも抱き上げるかのように、ぐったりとしている伯爵の体を掴むと、持ち前の腕っぷしで伯爵を持ち上げてアドリアンに差し出した。アドリアンはあわあわとしながら震える手でびっしょりと濡れた伯爵の上着を掴み、渾身の力を込めて欄干の隙間から伯爵を引き上げた。それを見届けたヴァン・ヘルシングは欄干に掴まると、橋に足を掛け、自力で橋の上に上がってきた。すかさず仰向けに寝そべる伯爵に駆け寄り、その青白い顔をのぞき込んだ。

「ヴラド、ヴラドっ。しっかりしろ……」

 どんなに呼び掛けても、その肩を揺すっても伯爵はうんともすんとも言わず、ただ静かに眠っているように見えた。それに不安を掻き立てられたヴァン・ヘルシングは、伯爵の顔にズイッと耳元を近づけ、次に伯爵の胸元に耳をぴったりとくっつけた。

「……先生」

 アドリアンが不安げな面持ちでヴァン・ヘルシングに声を掛けた。刹那、ヴァン・ヘルシングが驚いた様子でガバッと顔を上げ、アドリアンを見上げた。

「息がない! 心音も聞こえないっ!」

 そう叫ぶとヴァン・ヘルシングは急いでびしょ濡れの上着を脱ぎ始めた。

「先生……?」

 アドリアンが不思議そうにヴァン・ヘルシングを眺める。

 ヴァン・ヘルシングは脱いだ上着をアドリアンに押し付け、眼鏡を外すと、それもアドリアンに託した。

「眼鏡を預かってくれ! それ一本しかないんだ。失くさないでくれよ?」

「先生、何をっ……?」

「人工呼吸だ!」

【1773年イギリスの医師ウィリアム・ホーズが、溺れて仮死状態になった人に対して人工呼吸で蘇生出来ることを広めた。因みに1892年、ドイツの医師フリードリッヒ・マースが現在に繋がる胸骨圧迫を提唱した】

「ええっ!?」

 アドリアンは思わずギョッと顔を引きつらせ、でも……と呟く。

 ヴァン・ヘルシングは両腕の袖をまくり上げると、伯爵の顔を掴み、顎を上げた。気道確保だ。

「先生! ドラキュラさんに、本当に人工呼吸するんですかっ!? 相手は“ドラキュラさん”ですよ!?」

 “伯爵相手”に人工呼吸をしようとしているヴァン・ヘルシングを、アドリアンは止めさせようと説得するが、ヴァン・ヘルシングは何を勘違いしたのか、アドリアンにとって見当違いの言葉を返してきた。

「もちろんだとも! たとえ“男同士”だとしても、だ! これは医療行為だ!」

「先生っ、僕が言ってるのはっ――」

 アドリアンの制止も空しく、ヴァン・ヘルシングは、鋭い犬歯が露わとなっている伯爵の開いた口に自身の口を躊躇なくぴったりとくっつけた。そして息を送り込もうとした時だった――。


――君は……“いばら姫の王子”かね?


 頭の中で伯爵の声が聞こえ、ヴァン・ヘルシングは息を止め、視線だけを伯爵の顔の方に向けた。すると伯爵としっかりと目が合ったのだ。伯爵は眉を寄せ、少々虚ろげな眼差しでヴァン・ヘルシングを見つめていた。

「わっ!」

 ヴァン・ヘルシングは度肝を抜き、思わず伯爵から勢い良く離れ、地面に尻もちをついた。

「ちっ、違う! お前が息をしてなかったからだ! 俺は医者としてだなっ――」

「……俺は元から死んでるぞ……?」

 伯爵は微苦笑を浮かべ、ヴァン・ヘルシングを見上げると静かに言った。

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、先ほどのアドリアンの言葉の意味をようやく理解したかと思えば可笑しそうに笑みを浮かべ、伯爵の脇に寄った。

「ははっ! すまん、すまん! 時々、お前が吸血鬼だということを忘れてしまう」

 そう言いながらヴァン・ヘルシングは伯爵の首をもたげると、よいしょ、と彼の上体をゆっくりと起こした。

「……吸血鬼でなければ、一体何だというのだね……?」

 伯爵は珍しく、ぐったりとした様子で首をかしげた。

「そりゃあ、“親友”だよ」

 ヴァン・ヘルシングは顔を綻ばせた。

「そうか……。そんなに俺と“深い口付け”をしたかった、ということかね……?」

 伯爵は苦し紛れか微苦笑を浮かべると、からかうように言ってきた。ヴァン・ヘルシングはカアッ! と顔を紅潮させ、言い返した。

「だから違うっ! あれはっ――」

 ヴァン・ヘルシングが反論しようとしたところで伯爵が遮った。

「“親友”か……。その言葉、帰ったらもう一度言って欲しい……」

 伯爵が弱々しい声で言えば、ヴァン・ヘルシングははいはい、と返した。

「何度でも言ってやるさ。着替えよう。帰るか……“親友”」

「そうだね……。ああ、一瞬魂が抜け出てしまうかと思ったよ……」

 伯爵は疲れた様子でヴァン・ヘルシングの肩に寄り掛かった。

「何だ? 吸血鬼が流水に入ると魂が抜け出るのか?」

 ヴァン・ヘルシングは安堵したようにため息をもらしつつ、興味津々に尋ねた。

「俺はさっきそうなりかけた……」

「ほう、興味深い話だ。確かに魂が抜け出たら“お仕舞”だからな?」

 そう言いながらヴァン・ヘルシングは伯爵の背を、あやすように擦った。

「あの塵が海に流れていったかと思うと、しばらく魚介類が食べれなくなりそうだ……。気分的に……。今の内にニシンの塩漬け買っとくか……。腹減った……」

 いつの間にか周りには人通りが元に戻り、二人は好奇の目に晒される羽目となった。

 アドリアンはそんな二人をハラハラした様子で眺めていた。

……クララが見たら喜びそう……。否! 喜んじゃダメだ!

「ぶぇっくしゅん!」

 その時ヴァン・ヘルシングが盛大なくしゃみをし、ガタガタと体を震わせた。そんな彼に伯爵がポツリと言った。

「Sănătate【羅語:健康(相手がくしゃみした時の返し)】.」

「Dank【蘭語:ありがとう】.」

 ヴァン・ヘルシングは鼻をすすりながら一笑した。





※原典では、吸血鬼は潮の干満時のみしか流水を渡って行けない(船があれば可能)、とあり、では、もし干満時以外で流水(運河)に入ってしまったら……? 私なりにどうなるのかを考え、この様になりました……。


 原典“第十八章、ミナ・ハーカーの日記”より、ヴァン・ヘルシング教授の言葉。

“That he can only pass running water at the slack or the flood of the tide.”

『彼(伯爵)は潮の干満の時のみしか流水を渡って行けない』

→要するに流水じゃない水の上は渡れる。池、沼、水溜りなど。ただし河川や運河、大海原の流水は渡れない。例外として干満の時は河川も運河も渡れる。

 とういうことは……その土地その土地の干満時刻を把握しないといけないってことかっ!? どういうこっちゃ! すみませんが本作では流水全般は橋とか船がないと渡れないことにします……。

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