19 思惑

 夕方。アムステルダム市立大学の入り口は帰宅していく学生たちで溢れていた。その中にヴァン・ヘルシングの姿もあった。

 何故か、ヴァン・ヘルシングはいつも掛けてるメガネを掛けておらず、学生たちに、気をつけて帰りなさい、と言いながら自身もすたすたと家路につこうとする。

 ミネルヴァの胸像を通り過ぎ、大学の門を出たところにカタリーナが立っていた。ヴァン・ヘルシングは一瞬目を見開いたかと思えば、にこりと笑顔を浮かべた。

「やあ、カタリーナ」

「待っていたわ、あなた」

「いつの間に、先回りしてたのか」

 ヴァン・ヘルシングが大学の門を振り返ろうとすると、カタリーナが彼の腕を力強く掴んで制した。

「さっさと帰りましょ? あなた」

 カタリーナは強引にヴァン・ヘルシングの腕を引っ張ると、家路へとつかせた。

 通りを抜けると運河沿いに出た。帰宅していくのか、ぞろぞろと人が歩いていく。

 カタリーナはやけにヴァン・ヘルシングに引っ付き、彼の腕を離す様子はない。ヴァン・ヘルシングはとくに気にもせず、何も言わなかった。

 アムステルダム市立病院を目の前にして、何故がカタリーナは家路とは別の方へヴァン・ヘルシングを引っ張っていった。

「カタリーナ……? 病院はそちらでは――」

「少し遠回りしても良いじゃないの」

 ヴァン・ヘルシングの呼び掛けにカタリーナは、どこか焦っている様子だった。

 道を外れると、運河の上を通る橋へと出た。

 運河には小船が行き交い、歩道の街灯が淡いオレンジ色に輝き、良い雰囲気を醸し出していた。するとカタリーナが立ち止まった。ヴァン・ヘルシングもその隣で立ち止まる。いつの間にか周りを行き交う人や水上の小船はいなくなり、辺りには静寂が漂っていた。

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの腕を引き、自身の前に彼を立たせると、今まで見せたこともないような怒りに満ちた表情で彼を睨み上げていたのだ。

「お前さえいなければ……」

 カタリーナの呟きにヴァン・ヘルシングは狼狽えた。

「カタリーナ……?」

 ヴァン・ヘルシングが後ずさろうとすると、突如として周りに濃い霧が発生し、あっという間に囲まれてしまった。

 今目視出来るのは、目の前に立つカタリーナだけだった。

 刹那、ヴァン・ヘルシングの腹部から血しぶきが舞った。

 ヴァン・ヘルシングは突然のことに悲鳴も出せず、ただ血がほとばしる腹を押さえ、地面にうずくまってカタリーナを見上げることしか出来なかった。

 カタリーナが掲げている右手が、ヴァン・ヘルシングの血で真っ赤に染まっていた。その姿が歪んでいったかと思えば、現れたのはオーガスタス・ダーヴェルだったのだ!

「貴様のような老いぼれが、“彼女”を取り留めるなど、100年早い!」

 ダーヴェルは高笑いをすると、地面にうずくまるヴァン・ヘルシングに掴み掛かった。彼の胸ぐらをグイッと掴むと強引に起き上がらせ、激痛に苦しむヴァン・ヘルシングを愉快そうにダーヴェルは見下ろした。

「貴様がいなくなれば、カタリーナは吾の元に来る! 最期に言いたいことはあるか? この老害」

 するとヴァン・ヘルシングは“真っ赤な瞳”をかっ開き、ニタリと笑うと尖った犬歯をちらつかせた。そしてダーヴェルを嘲笑うかのように――カタリーナの声で言い放った。

「お前のような若造が余を取り留めるだと? ふふっ! 400年早いわっ!」

 ヴァン・ヘルシングのその声にダーヴェルが目を丸くしたその時、霧の向こうからヴァン・ヘルシングの叫び声が聞こえてきた。

「ヴラドォォオオッ!」

 ダーヴェルは目の前にいるヴァン・ヘルシングと、霧の向こうから聞こえてくるヴァン・ヘルシングの声に驚愕を隠せず、目の前のヴァン・ヘルシングと声のした方の両方に、即座に目をやった。

 霧の向こうに目を向けたとたん、何と“もう一人のヴァン・ヘルシング”が現れたのだ!

 霧の向こうから突如として現れたヴァン・ヘルシングは全速力で突っ走って来たかと思えば、ダーヴェルに勢い良く体当たりし、突き飛ばした。

 突然の予想外の出来事にダーヴェルは、ヴァン・ヘルシングにど突かれたまま彼とともに霧の向こうに消えてしまった。ほどなくしてザブンッ! と何かが水に落ちたような激しい音が聞こえた。

 霧が晴れ、その場にアドリアンも駆けてやって来た。

「先生っ!」

 橋の欄干から身を乗り出すと、薄暗い運河の中、ヴァン・ヘルシングの姿を探した。3月のアムステルダムはまだ肌寒く、時に運河も凍てつくほどだ。

 アドリアンは必死に波打つ運河の水面を見渡した。その時、水面が水しぶきを上げた。現れたのはヴァン・ヘルシングだ。アドリアンが安堵するのもつかの間、再びヴァン・ヘルシングが水の中に、吸い込まれるように消えてしまったのだ!

「先生! 先生ぇぇええっ!」

 アドリアンの叫び声だけが夜の冷たい運河に響き渡った。

 

 遡ること、同日昼間。アムステルダム市立大学の敷地内の畑にて。

 ヴァン・ヘルシングがニンニクの株を収穫している時だった。

「鞄いいか?」

 ヴァン・ヘルシングが手の土を払いながら、伯爵に言ってきた。

「どうぞ」

 伯爵はヴァン・ヘルシングに鞄を渡した後、何かを察知したように空を仰いだ。

……奴が大学の前にいる……。

「どうした?」

 収穫したニンニクを鞄に詰めながらヴァン・ヘルシングが問い掛けると、伯爵がヴァン・ヘルシングに向き直った。

「奴が――否、奴は首を切ってもだめ、心臓を刺して塵になっても月光で蘇ってしまう……。因みにルスヴンの最期はどうだったのかね?」

 伯爵の質問にヴァン・ヘルシングは作業の手を止めると、おもむろに立ち上がった。

「ルスヴン卿は――」

 ヴァン・ヘルシングは一つ息をつき、答えた。

「物語では“死んでない”……」

 ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵は、ほう、ともらした。ヴァン・ヘルシングは話を続ける。

「主人公オーブリーの妹を手に――」

 言い掛けたところで伯爵が手を上げ、ヴァン・ヘルシングの話を制した。

「では、そのオーブリーの“二の舞”にならんよう、準備をせねばね」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは一笑した。

「そうだな。そう言えば……お前は休息を取らなくて良いのか? 最近昼間眠ってないだろう?」

 ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は瞬きをしたかと思えば、不敵な笑みを浮かべた。

「君に心配されるとは……。俺も焼きが回ったようだ。では夕方まで眠らせてもらうとしよう」

 伯爵はきびすを返すとふと、今朝の市立病院での事を思い出した。例の、暗示を掛けられていた看護師のこだ。

 看護師が、ダーヴェルの次の標的として指を指したのは何を隠そう、ヴァン・ヘルシングだったのだ。

 伯爵は立ち止まると肩越しにヴァン・ヘルシングを見つめた。

「一人の時は、くれぐれも用心することだ。エイブラハム――」


――戻る時、今日の夕方にバース君に、研究室に来るように言いなさい。ああ、そうだ。ニンニクの飾り付けを忘れぬように、伝えること。良いね?


 伯爵はヴァン・ヘルシングに暗示を掛けると、何かを企んだように目を細めた。それがヴァン・ヘルシングを一瞬狼狽えさせた。

「……わ、分かってる。……も、“もふもふ”……だろ……?」

 ヴァン・ヘルシングは恥ずかしそうに返すと、鞄に残りのニンニクの株を詰めていった。そんなヴァン・ヘルシングに伯爵は一笑し、一足先に彼の研究室へと戻っていった。


 夕方。アドリアンはヴァン・ヘルシングに言われた通り――本当は伯爵が言わせたのだが……――に病室の窓や入口にニンニクを飾り付けてくるとアムステルダム市立大学のヴァン・ヘルシングの研究室へとやってきた。無論ヴァン・ヘルシングは驚いた様子でアドリアンを研究室内に迎え入れた。

「アドリアン君、病院の方は大丈夫なのかい?」

 ヴァン・ヘルシングからの問いにアドリアンは目を見開き、慄然と彼を見つめた。

「え……? 先生が夕方に来い、って言ったじゃないですか……」

 アドリアンは怖気た様子でそろそろとヴァン・ヘルシングから距離を取り始めた。

「先生……まさかと思いますが……」

 アドリアンの反応にヴァン・ヘルシングも怯えたように顔を歪ませ、不安そうにアドリアンにそろそろと歩み寄った。

「私が……何かしたのか……?」

「止まってくださいっ!」

 アドリアンはバッ! と震える両手を突き出すと、口をパクパクさせながら絞り出すように言った。

「コ、コココ、コッ、“コウモリ”ッ!」

 アドリアンは合言葉を叫ぶように言うと、恐る恐るヴァン・ヘルシングを見た。当のヴァン・ヘルシングはきょとんとした眼差しでアドリアンを見つめていた。アドリアンは絶望に打ちひしがれた。

……合言葉が通じないっ! ということはこれは本物の先生じゃないんだっ!!

 アドリアンは悲鳴を上げながら必死に研究室内にいるはずの伯爵を探した。

「ドラキュラさん! 大変です! 先生がっ! あ! まだ日没前だった!」

「ア、アドリアン君……?」

 ヴァン・ヘルシングはわけが分からないまま、室内を駆け足で行ったり来たりするアドリアンを、あわあわしながら眺めた。

……“コウモリ”が一体何だ――あ……。

 ヴァン・ヘルシングはようやく思い出したのか、慌ててアドリアンに叫んだ。

「アドリアン君! “もふもふ”! “コウモリ、もふもふ”……! ああ! 何故私がいつも“もふもふ”を言う側なんだっ!」

 変なところで嘆くヴァン・ヘルシングを、疑わしそうにアドリアンは見つめるのであった。

 またたく間に日没が訪れ、ヴァン・ヘルシングの机の横からガタンと音がした。ヴァン・ヘルシングとアドリアンは、伯爵が棺から出てきたのだろうと思い、そちらを見ると――。

「「えっ……?」」

 二人は目を見張った。

 なんと視線の先には伯爵ではなく、ヴァン・ヘルシングが――眼鏡は掛けていないが――立っていたのだ!

 アドリアンは驚愕に二人のヴァン・ヘルシングを交互に見、ヴァン・ヘルシングは狼狽えた様子でもう一人の自分を見つめていた。

 眼鏡を掛けていないヴァン・ヘルシングは、二人の反応が面白かったのかニタリと笑い、弾んだ足取りでヴァン・ヘルシングの隣に立った。

 ヴァン・ヘルシングは怖気付いたのか、慌ててアドリアンの隣に逃げ、もう一人の自分を不審そうに見た。

「そんな風に避けられてしまうとは、悲しいものだね?」

 もう一人のヴァン・ヘルシングはわざとらしく言った。その声すらヴァン・ヘルシングそのものだった。

「ヴラド、か……?」

 ヴァン・ヘルシングが恐る恐る尋ねると、もう一人の自分は姿を歪ませていき、現れたのは伯爵だった。その腕にはヴァン・ヘルシングの上着にワイシャツにリボンタイ、スラックス、ベストがあった。

 ヴァン・ヘルシングはそれを目の当たりにすると、伯爵にズカズカと歩み寄り、伯爵が持つ服をガシッと掴んだ。

「最近クローゼットの衣類が少なくなったと思ってたんだ! お前が持ってたのか?」

「“予備”として棺に入れておいた」

 伯爵の返事にヴァン・ヘルシングは眉を潜め、机の脇の棺を眺めた。

……こいつの棺の中は一体どうなってるんだ?

 伯爵は何かを気にしたのか、腕に掛けている服をクンクンと嗅いだ。ヴァン・ヘルシングは決まり悪そうに伯爵を見つめた。

「な、何だよ……。俺の臭いが――」

「ずっと棺に入れてたからココアの匂いが付いてしまった……。においでバレては元も子もない……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの言葉を遮ると、じっと彼を見つめた。その視線に何故か嫌な予感を覚えたヴァン・ヘルシングだった――。


「馬鹿野郎! 引っ張るな! 伸びるだろ!」

「それも交換しよう」

 アドリアンは目の前の混沌をただ呆然と眺めることしか出来なかった。

 ユニオンスーツ【19世紀後半から20世紀初頭で一般的だった下着。全身タイツみたいな……】姿にされたヴァン・ヘルシングが、伯爵に研究室の隅に追いやられていた。伯爵の手には脱ぎたてほやほやのヴァン・ヘルシングの着類が。もう片手にはヴァン・ヘルシングが“着ている”ユニオンスーツが……。

 伯爵は目を爛々とさせ、ヴァン・ヘルシングが今まさに着ているユニオンスーツの背中をグイグイと引っ張り、無理やり脱がせようとしていたのだ。当のヴァン・ヘルシングは顔を紅潮させて必死に床にうずくまり、両腕を抱えて脱がされまいと抵抗していた。

「きゃぁぁああ! 教え子の目の前でこんな醜態晒すなんて嫌だっ! 服だけで十分だろ!」

「においでバレる」

「だからっ、何が“バレる”んだよ!?」

 アドリアンはヴァン・ヘルシングを気の毒に思いつつ、ふと――。

……クララが見たら喜びそう……。

 不本意ながら、そう思ってしまったのであった。

 結局、ユニオンスーツ以外の着類で伯爵は妥協し――実は楽しんでいただけである――、再びヴァン・ヘルシングに変身すると、本物のヴァン・ヘルシングから眼鏡を取ろうとした。だが、ヴァン・ヘルシングが寸前で後ずさり、眼鏡を守るように押さえた。

「これがないと足元すらまともに見えないんだ」

 伯爵扮するヴァン・ヘルシングは残念、といったように肩をすくめたが、気を取り直してヴァン・ヘルシングとアドリアンを見た。

「では、バース君が来たことだ――」

「さっきからお前に驚かされて忘れてたが……何で俺に変身してるんだ……?」

 ヴァン・ヘルシングは疲れ切った様子で、目の前のもう一人の自分に尋ねた。

 もう一人のヴァン・ヘルシングは、ああ、と呟くと、ヴァン・ヘルシングを見つめた。

「ダーヴェルの次の狙いは――」

 眼鏡を掛けていないヴァン・ヘルシングが目の前のヴァン・ヘルシングを指さした。

「君だ。エイブラハム」

 伯爵扮するヴァン・ヘルシングの返事に本物のヴァン・ヘルシングとアドリアンは驚きを隠せず、アドリアンがもう一人のヴァン・ヘルシングに尋ねた。

「先せっ、じゃなかった。ドラキュラさんはそれをどこで……?」

「今朝病院で、ダーヴェルに暗示を掛けられていた看護師から聞き出した。昼間の時点でダーヴェルは大学の前で待ち伏せをしていたからね。今夜にでもエイブラハムを襲うつもりだと考え、バース君を夕方、ここに来させるように仕向けた訳だ」

「じゃあ昼間、先生の様子がおかしくなったのは――」

「余がエイブラハムに暗示を掛けた」

 もう一人のヴァン・ヘルシングの返答に、ヴァン・ヘルシングはムスッと口をへの字に曲げると、もう一人の自分を睨んだ。

「いつの間にっ……!」

「準備は整った。エイブラハム――」

 もう一人のヴァン・ヘルシングはニタリと口角を上げると、ヴァン・ヘルシングをなだめるように目を細めた。

「ダーヴェルに気づかれんよう、バース君とついてくることだ」

 そう言うともう一人のヴァン・ヘルシングはヴァン・ヘルシングの上着と帽子を身につけ、鞄を持つと研究室を出ようとした――ところで振り向いてきた。

「決して、奴にバレぬように……」

 念を押すように言ってきたもう一人のヴァン・ヘルシングは、きびすを返すと研究室を後にしてしまった。

 ヴァン・ヘルシングとアドリアンは互いを見合うと、自分たちも大学を出る準備をし、研究室を後にした。

 

 







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