18 暗示

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は途中で馬車を拾い、アムステルダム市立病院へと向かった。

 市立病院に着いたのは午前8時前。無論まだ外来は開いていないが、ロビーには既に受診をする人たちがちらほらと椅子に掛けて待っていた。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は入院病棟が入っている3階へ上がって行った。

 3階に着くと、昨日と同じく看護師たちが忙しなく右往左往していた。

 病室内の窓のほとんどが割られ、床には破片が散らばっており、それを看護師たちがホウキとちりとりで必死にかき集めていた。その様子にヴァン・ヘルシングは不安を掻き立てられ、クララのベッドへ急いで向かった。伯爵も後に続く。

 ヴァン・ヘルシングはふと、振り返り、伯爵が難なく病室に入ってきたのを目の当たりにすると、嫌な予感を覚えた。

……アドリアン君にニンニクを渡したはずだが……。

 クララの眠るベッドに駆け寄ると、その足元ではアドリアンが突っ伏して肩を震わせていた。クララの方を見ると、彼女の顔色は昨日よりも青白く、息を荒らげて眠っていた。時折開く唇の隙間から尖り始めた犬歯がちらりと見えた。そして、ベッド脇のテーブルに置いておいたニンニクの植木鉢がなくなっていた。

「アドリアン君……」

 ヴァン・ヘルシングがそっとアドリアンの肩に手を置くと、アドリアンは一瞬肩をビクつかせ、飛び起きた。

「わっ!」

 アドリアンはずっと泣いていたのか、目が充血し、頬には涙の跡があった。

「先生……ドラキュラさん……」

 アドリアンは二人を見上げるとわんわんと泣き出してしまい、すみません、と何度も連呼した。

「奴が来たんだな……?」

 ヴァン・ヘルシングが静かに尋ねると、アドリアンは声を詰まらせながら激しくうなずいた。

「さ、昨夜……ニンニクをっ……病室の入り口とっ、窓にっ……うぅっ……すみませんっ……」

 アドリアンはちゃんと話せる状態ではなかった。ヴァン・ヘルシングはそんなアドリアンの背を優しく叩き、なだめた。

 その二人の脇で伯爵は病室内を見渡す。

 病室の床に散らばる窓ガラスの破片の中に、いくつか真っ黒な鳥の羽根が混じっていたのだ。伯爵は足元の羽根をつまみ上げ、眺めた。

……カラスの羽根か……。

 伯爵は拾った羽根をポイと落とすと、忙しなく右往左往する看護師の間を縫って、病室の窓の外をのぞき見た。

 運河沿いにある窓の下をのぞき込むと、昨日ヴァン・ヘルシングがクララのベッド脇に置いたニンニクの植木鉢や、アドリアンに渡したニンニクの葉が歩道に無惨に散らばっていたのだ。

 一体誰が……と伯爵は病室内にいる看護師たちを凝視した。すると一人、病室の隅にボウッと、生気のない表情で突っ立っている看護師が目に留まった。

 伯爵はその看護師に歩み寄ると、生気のない顔をグイッとのぞき込んだ。


――何があったのか、話せ。


 伯爵に念じられた看護師は一瞬ブルッと震えると、無表情のままぎこちない口調で話し始めた。

「昨夜……バース先生が仮眠しに行ったので、わたしは“指示通り”にニンニクを撤去した……」

 看護師の言葉に、伯爵は眉を潜めた。

「ほう、誰の指示だね? 名前は?」

 伯爵からの問いに看護師は、初めてためらうような様子を見せた。

「……」

「言え。答えろ」

 伯爵が鋭い口調で命令した。

 看護師の額には大粒の汗が流れており、口をパクパクさせたかと思えば、しばらくして、小さな声で答えた。

「オーガスタス……ダーヴェル……」

 その名前を聞くと伯爵は鼻で笑い、次の質問をする。

「次の“標的”は誰だね?」

 すると看護師はおもむろに腕を上げ、とある人物を震える指で指した。その人物を捉えた伯爵は一瞬目を見開いたが、澄まし顔で静かに言い放った。

「“あれ”は余のものだ」

 伯爵は看護師に掛けた催眠術を解いた。すると看護師は今まさに目覚めたように目をパチクリさせ、不思議そうに首をかしげた。その首筋には数日ぐらい経過した噛み傷が付いていた。

 伯爵はとくに、看護師に何も言わずにヴァン・ヘルシングの元へと戻っていった。

 ヴァン・ヘルシングは、クララの眠るベッドの足元に座り、その隣にアドリアンも座らせていた。

 アドリアンは落ち着きは取り戻していたものの、酷く落ち込んでおり、うつむいていた。

「エイブラハム」

 伯爵に呼ばれ、ヴァン・ヘルシングが顔を上げた。

「どうした? ヴラド」

「やはりダーヴェルは蘇っていた」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは、そうか……と苦い表情を浮かべた。

「どうやら奴は、俺たちがここに来たことを知っていたようだ。これは宣戦布告かもしれん」

 伯爵は足元のカラスの羽根を拾うと、ヴァン・ヘルシングに見せた。

「宣戦布告?」

 ヴァン・ヘルシングが瞬きをする。伯爵は話を続けた。

「ああ。奴は、既にこの病院の看護師を餌食にし、暗示を掛けていた。ということは既に“招かれている”はずだ。ニンニクはその看護師に片付けさせれば、あとは自由に窓の隙間からでも侵入出来るというのに――」

「……カラスを使って窓を割る必要はないはず……」

 ヴァン・ヘルシングは腕を組み、伯爵の持っているカラスの羽根を見つめて言った。

「そうだ。奴はこうして、自分が蘇ったのを知らしめているようなものだからね。エイブラハム、忘れてはいるまい?」

 伯爵は羽根をポイと捨てると、ヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込んだ。

「何をだ?」

 ヴァン・ヘルシングが首をかしげた。

「“コウモリ”。ほれ、エイブラハム」

 伯爵はそう言うと、人差し指を立て、招くように曲げた。ヴァン・ヘルシングは何のことかサッパリ、と言いたげに目をパチクリさせた。

「ほう。お前はエイブラハム・ヴァン・ヘルシングではないのだな……?」

 伯爵は静かに言うと、またたく間に殺気を放った。

 ヴァン・ヘルシングとその隣に座っていたアドリアンがビクリと震え上がった。伯爵は今にも飛び掛って来そうに両手を構え、指をわきわきと動かしていた。

 ヴァン・ヘルシングは勢いよく立ち上がると両手を突き出し、伯爵をなだめようと努めた。

「待てって! えっと……あ! 思い出したっ! も、“もふもふ”だ! “コウモリ、もふもふ”!」

 ヴァン・ヘルシングの慌てぶりに、隣で見ていたアドリアンは神妙な面持ちでヴァン・ヘルシングを見つめ、伯爵はふふっと肩を震わせていた。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の様子を目の当たりにし、ようやく、自分は弄ばれたのだと気付いた。

「お前っ……わざとだろ!?」

 ヴァン・ヘルシングは顔を紅潮させると、眉間にシワを寄せ、伯爵を睨んだ。伯爵はご満悦そうにニタリと口角を上げながら、ヴァン・ヘルシングの帽子を小突いた。

「くれぐれも、忘れてはならんぞ? 良いね?」

 伯爵に念を押されたヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、恥ずかしそうに帽子の位置を戻した。

「あ、ああ……」

「先生」

 アドリアンに呼ばれ、ヴァン・ヘルシングは振り向いた。

「僕はこれからどうすれば良いのでしょうか……。今夜も当直はするつもりです。ただ……また侵入してきたら……」

 ヴァン・ヘルシングは中腰になるとアドリアンの顔をのぞき込んだ。

「先ずはここの床の掃除だな。その後窓を、何でも良いから塞いでほしい。……もうすぐで講義が始まるな――」

 ヴァン・ヘルシングは病室の時計をちらりと見ると再度、アドリアンの方を向いた。

「私とヴラドは大学に行かなくては……。昼にニンニクを持ってこよう」

「ですが、またニンニクを撤去されてしまったら……」

 アドリアンの言葉にヴァン・ヘルシングは眉を潜め、考える素振りを見せた。

「その心配はいらんだろう」

 伯爵が二人のやり取りに入ってきた。ヴァン・ヘルシングとアドリアンが伯爵を見上げる。

「さっきの看護師に掛けられていた暗示は解いた。バース君が仮眠を取ったとしても、もうダーヴェルの暗示は発動せん。安心すると良い」

 ヴァン・ヘルシングとアドリアンは安心したように息をつくと、互いに向き直った。

「今夜は私とヴラドも、病院の外から見てるから、君は安心して仮眠を取りなさい。ご飯もしっかり食べるように」

「はい」

 ヴァン・ヘルシングはアドリアンの肩に手を置くと、背を伸ばし、病室を後にした。伯爵も続いた。


 アムステルダム市立大学にて。

 午前の講義を終えたヴァン・ヘルシングは、以前のようにスコップ片手に大学内の畑を物色していた。畑の手前では、伯爵がヴァン・ヘルシングの鞄を持って待っていた。

 ヴァン・ヘルシングは収穫したニンニクを地面に置くと、伯爵の元へ歩み寄った。

「鞄いいか?」

「どうぞ」

 伯爵から鞄を受け取ったヴァン・ヘルシングは、せっせと鞄にニンニクの株を詰めていった。すると伯爵が何かを察知したように空を仰いだ。ヴァン・ヘルシングは手を止めずに顔だけを伯爵に向けた。

「どうした?」

「奴が――否、奴は首を切ってもだめ、心臓を刺して塵になっても月光で蘇ってしまう……。因みにルスヴンの最期はどうだったのかね?」

 伯爵の質問にヴァン・ヘルシングは作業の手を止めると、おもむろに立ち上がった。

「ルスヴン卿は――」

 ヴァン・ヘルシングは一つ息をつき、答えた。

「物語では“死んでない”……」

 ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵は、ほう、ともらした。ヴァン・ヘルシングは話を続ける。

「主人公オーブリーの妹を手に――」

 言い掛けたところで伯爵が手を上げ、ヴァン・ヘルシングの話を制した。

「では、そのオーブリーの“二の舞”にならんよう、準備をせねばね」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは一笑した。

「そうだな。そう言えば……お前は休息を取らなくて良いのか? 最近昼間眠ってないだろう?」

 ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は瞬きをしたかと思えば、不敵な笑みを浮かべた。

「君に心配されるとは……。俺も焼きが回ったようだ。では夕方まで眠らせてもらうとしよう」

 伯爵はきびすを返すと、何かを思い出したかのように立ち止まって、肩越しにヴァン・ヘルシングを見つめた。

「一人の時は、くれぐれも用心することだ。エイブラハム――」

 伯爵の何かを企んだような視線に、何かゾクリとしたものを感じたヴァン・ヘルシングは、一瞬狼狽えた。

「……わ、分かってる。……も、“もふもふ”……だろ……?」

 ヴァン・ヘルシングは恥ずかしそうに返すと、鞄に残りのニンニクの株を詰めていった。そんなヴァン・ヘルシングに伯爵は一笑し、一足先に彼の研究室へと戻っていった。


 ニンニクの株をアムステルダム市立病院のアドリアンに届けるために、ヴァン・ヘルシングは研究室で出掛ける準備をしていた。時刻を確認すると、12時半だった。

……30分もあれば余裕だ。

 ヴァン・ヘルシングは上着を羽織り、帽子を被ると、ニンニクの詰まった鞄を持った。

 研究室を出る間際、ヴァン・ヘルシングはふと、伯爵が眠っている棺を振り返った。少しの間棺を眺めると、静かに扉を閉め、研究室を後にした。

 ヴァン・ヘルシングはアムステルダム市立大学を出ると、徒歩で市立病院へと向かった。

 大学から市立病院までは何十分も掛からない距離で、難なく目的地へと着いた。

 入院病棟に向かうと、朝よりは平穏な様子だった。割れた窓はベニヤ板で軽く塞がれており、病室は少し薄暗い。

 アドリアンの姿を探すと、彼はクララのベッド脇の椅子に腰掛けていた。

「やあ、アドリアン君」

 ヴァン・ヘルシングの声にアドリアンは振り向くと、パッと立ち上がり、ヴァン・ヘルシングの元に駆け寄った。

「先生、来てくれたんですね!」

 ヴァン・ヘルシングは早速ニンニクの詰まった鞄をアドリアンに差し出した。

「ありがとうございます」

「クララさんはどうだい?」

 ヴァン・ヘルシングの質問に、アドリアンは少し悲しげな表情を浮かべ、ベッドに未だに横たわるクララを見た。

「まだ眠っています……」

「そうか……」

 ヴァン・ヘルシングはクララの元に歩み寄ると、憐れむように彼女の手を取り、見下ろした。

 少ししてヴァン・ヘルシングは病室の時計を眺め、時刻を確認した。

「おっと、もうすぐで昼休みが終わってしまう……」

「先生、ニンニクは僕が責任を持って“飾って”おきます」

 アドリアンは、ヴァン・ヘルシングから渡された鞄を大事そうに抱えてみせた。

「じゃあ、私はそろそろ戻る――」

 すると一瞬にしてヴァン・ヘルシングの表情が無表情になり、パクパクと口だけを動かしたかと思えば、次第にぎこちなく言葉を発した。

「……ニンニクを……病室に……飾り付け、たら……夕方に……私の研究室に……来なさい……」

 突然のヴァン・ヘルシングのただならぬ変貌ぶりにアドリアンは、不安げに彼を見つめた。

「……先生……?」

 しばらくしてヴァン・ヘルシングはビクリと、我に返ったように肩を震わせ、瞬きをした。

「……どうかしたのかい……?」

 アドリアンの表情に、今度はヴァン・ヘルシングが不安げに彼を見つめていた。

「い、いいえ……」

 アドリアンは引きつった顔をブンブンと横に振り、ヴァン・ヘルシングを見送った。

……さっきの先生……本当に先生……かな……?

 

 ヴァン・ヘルシングは病院を後にすると、改めて上着のポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確認した。

「あと10分だ。急ごう」

 懐中時計をポケットにしまうと、小走りでアムステルダム市立大学へと急いだ。

 そんなヴァン・ヘルシングの様子を、街路樹の脇から見ている者がいた――。






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