17 親心

 翌日、6時半頃。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵が変身する黒い馬に乗り、アムステルダム南部にある墓地、ゾルクフリートへと向かっていた。

 まだ日の出前であり、アムステル川沿いはとても静かで薄暗い。

 ヴァン・ヘルシングの腕にはいつもの鞄二つが抱えられている。中身はお馴染みの吸血鬼退治道具と手術道具である。

 ゾルクフリートの門の前に着くとアッセルの姿はなかったが、代わりに馬車と、その前に高齢の男性が立っていた。

「ヴァン・ヘルシング教授、お待ちしておりました」

 高齢の男性が会釈してきた。

 ヴァン・ヘルシングは馬から降りると鞄を両脇に置き、帽子を取って男性の元に歩み寄った。馬はいそいそと、一足先にゾルクフリートの中へと入っていく。

「ヴァン・ヘルシングと申します。あなたは……?」

 ヴァン・ヘルシングの問いに男性が、失礼しました、と言った。

「わたくしはアッセル様に仕える、執事のオールトと申します」

 男性――オールトは再び会釈すると、少し悲しげな表情を浮かべた。

「旦那様は、教授が行われるという“処置”を見ていられないだろう、とのことで、代わりにわたくしめに見届けてくるよう言いつけられました」

「……分かりました」

 ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、静かにうなずいた。

「そう言えば――」

 オールトが辺りをキョロキョロと見渡した。ヴァン・ヘルシングは瞬きをする。

「もう一方、助手の方がいるとお聞きしましたが……」

「えっと……助手は先に墓所の方に……」

 ヴァン・ヘルシングは少々狼狽えた様子を見せながら答えた。

……変身するところを見られるのはさすがにまずい……。

「そう、でしたか……」

 オールトは少し不審な表情を浮かべながら手で門の向こう側を指し示した。

「では、参りましょう」

 ヴァン・ヘルシングは再び帽子を被ると、鞄を両手に持ち、オールトに続いた。

 日の出前ということもあり、黄色い葉をつけている木々に囲まれたゾルクフリートは一層薄暗く、鳥のさえずりと、葉を風が撫でる音だけが鳴っていた。道に落ちている枯れ葉は朝露に濡れ、ひんやりとした空気が漂っている。

 東の空が白み始めた頃、ヴァン・ヘルシングとオールトはアッセル家の墓所に着いた。墓所の前には既に伯爵が待っていた。

「ヴラド、待たせたな」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵に軽く手を振った。

「こちらは変わりなく、だ」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの方に歩み寄ると、彼に耳打ちした。

「……アッセルは来なかったのだね……」

「……ああ」

 ヴァン・ヘルシングは少しやるせなさそうに返すと、伯爵は、そうか……と嘆息をもらした。

 ヴァン・ヘルシングはそっとアッセル家の墓所に目を向けた。

 墓所の扉のニンニクは昨日のままの状態で、開かれた形跡はなかった。それに安堵したヴァン・ヘルシングは鞄の中身を念入りに確認した。その時にちらりと見えた杭やノコギリにオールトはおずおずと顔を伏せたが、ヴァン・ヘルシングを止めようとはしなかった。

 日が顔を出し、ようやくゾルクフリートは明るくなった。それと同時にヴァン・ヘルシングは行動を開始した。

「扉を開けていただけますか?」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にオールトはうなずくと、上着のポケットから鍵を取り出し、アッセル家の墓所の扉の鍵を解除した。

 鍵を解除したオールトが後ずさると、今度はヴァン・ヘルシングが進み出て墓所の扉のニンニクを取り除くと慎重に、静かに開けた。するとヴァン・ヘルシングが少し後ずさった。

「ヴラド、懐中電灯を出すからお先にどうぞ」

 お馴染みの、ヴァン・ヘルシングの“お先にどうぞ精神”に伯爵は目玉をぐるりと回したが、アッセル家の墓所を一瞥し、オールトに聞かれないように、声を潜めて彼に言った。

「“招いて”もらわなければ、入れんな……?」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、彼を見上げた。伯爵は、残念だったな? と言いたげに口角を上げていた。

「これは建物の内に入るのか……?」

 ヴァン・ヘルシングは気に食わない表情を浮かべつつ、鞄から懐中電灯を取り出すと、明かりを点けて先陣を切った。

 一歩墓所の中に入ったヴァン・ヘルシングはすぐさま振り返ると、腕を伸ばして伯爵の袖をギュッと掴み――伯爵が自分を置き去りにしないか、心配だったのか――、少し硬い表情で、囁くように言った。

「……“入れ”」

「ふふっ。では」

 伯爵がヴァン・ヘルシングの後に続き、墓所に入った。

 墓所の中は埃とカビの臭いが漂ってジメジメとしており、石膏の壁は雨の侵食で黒ずんで小さな蜘蛛やムカデが這っていた。

 奥の方に棺がいくつか並んで置かれており、ヴァン・ヘルシングは懐中電灯で棺を照らしながら、名前を順番に確認していった。

「これだ」

 ヴァン・ヘルシングは懐中電灯を伯爵に持たせると、とある棺の脇に屈み込み、鞄を脇に置いた。中からバールを取り出すと、ヴァン・ヘルシングは何のためらいもなく棺の蓋をこじ開けた。その背後で伯爵がヴァン・ヘルシングの手元を照らした。

 少々――否、結構強引に棺の蓋を開けると、現れたのは綺麗な状態のアメリア・アッセルの死体だった。もうすぐで死後3週間経つという頃なのに未だにアメリアの死体には腐敗は起こっておらず、頬や唇が生者のように赤みを帯びていた。

 傍から見れば生きている人間がただ、棺の中で――サラ・ベルナールのように――眠っているだけのように見えた。

 ヴァン・ヘルシングは大きくため息をつく。どこか憂鬱そうに見えた。

……ああ、またこんな思いをしなくてはならないのか……。

 そんなヴァン・ヘルシングに伯爵が、挑発するかのように鼻で笑ってきた。

「ふん。俺は生前、幾人もの人間を処刑してきた。誰かがやらなければ、こちらがやられていたであろう」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは決まり悪そうに目を伏せた。

……私とヴラドでは、背負っていたものの重さが違う……。

 自分の苦労は何とも軽くてちっぽけなものかと思い知らされたヴァン・ヘルシングは、気持ちを切り替えて鞄から杭と木槌を出した。

 杭の先端をアメリアの胸の上に構え、木槌を大きく振り上げると杭の頭目掛けて振り下ろした。刹那、アメリアは目を見開き、口から血の泡を吹いて喘ぎ声をもらした。ヴァン・ヘルシングは木槌を再度振り上げ、さらに杭を打ち込んでいった。

 アメリアは痛みに身を捩らせたかと思えば、ぱたりと動かなくなり、静かに目を閉じた。

 恐る恐るその顔を見れば、アメリアの表情は苦悶に満ちてはいたが、本物の死人のように青ざめていた。ようやく彼女に本当の死が訪れたのだ。

 事を終えたヴァン・ヘルシングの額には大粒の汗が流れており、肩が大きく上下していた。

 ヴァン・ヘルシングは座り込むと、脇に木槌を置き、呼吸を整えた。が、どうしても息が詰まりそうになってしまう。

「すまん……少し休ませ――」

「誰も、君一人でやれとは言っておらんぞ?」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングはポカンとし、彼を見上げた。

 伯爵はヴァン・ヘルシングに懐中電灯を渡すと、ドクターズバッグからノコギリを取り出した。

 アメリアの左胸に刺さる杭を掴み、上体を起こすと、伯爵は手早く彼女の首を切り落とした。落とした首を棺の中の枕に戻し、最後に突き出ている杭の頭を切り取り、棺の蓋を閉めた。

「終わったぞ、エイブラハム」

「助かったよ、ヴラド……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングに手を差し伸べると、彼の手を取って立ち上がらせた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 二人は道具をしまうと、アッセル家の墓所を出た。外ではオールトが不安げな面持ちで、静かに立ち尽くしていた。

「アメリアお嬢様は……」

「今は安らかにお眠りです」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にオールトは静かに胸に手を置き、ほろりと涙を流した。

「お嬢様が亡くなられて、その数日後の夜……屋敷にお嬢様が現れて、亡くなられてのは嘘だったのだ、と嬉しく思っていましたが――」

 するとオールトは表情を青ざめさせ、震えた声で続けた。

「ですが……ああっ!」

 悲鳴を上げたかと思えば、オールトは両手で顔を覆い、肩を震わせた。

「今思い出しただけでも恐ろしいです! 暗闇の中でギラギラと輝く真っ赤な目! ランプの光に浮かび上がった尖った犬歯! あれは本当にお可愛らしかったお嬢様だったのか……」

「オールトさん」

 ヴァン・ヘルシングはオールトに歩み寄ると、その肩に優しく手を置いた。オールトがそっと顔を上げた。

「アメリアさんは戻ってきて、今は安らかに天国にいます。もう肩の荷を下ろして良いのですよ」

「ヴァン・ヘルシング教授、ありがとうございました」

 オールトはヴァン・ヘルシングの両手を取ると、深々と頭を下げた。そして伯爵の方にも向き直り、深々とお辞儀をする。再び頭を上げ、伯爵の顔を見たとたんオールトは、あっ……と一瞬驚いたように見つめてしまった。伯爵は首をかしげ、瞬きをした。そんな伯爵を見たオールトは微苦笑を浮かべ、気のせいか、と言わんばかりに首を左右に振って、気まずそうに目を伏せた。


 オールトの乗る馬車を見送ったヴァン・ヘルシングと伯爵は、徒歩でアムステルダム市立病院へと向かっていた。

「お前も人の子であり、親だったんだな……」

 突拍子もなくヴァン・ヘルシングが、隣を歩く伯爵に言った。伯爵は不思議そうにヴァン・ヘルシングを見下ろす。

 ヴァン・ヘルシングは話を続けた。

「いや、その……昨日お前がアッセルさんに言ってた言葉がな。俺には息子しかいなかったから……。お前の言葉がアッセルさんを前に進ませたんだ。ありがとう」

「礼には及ばんよ。だが、君も一人の親であり、子であることを忘れてはいけない。'My child'.」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは少しむず痒そうに顔を歪め、はいはい、とぶっきらぼうに返した。

……ヴラドにとっては私なんてまだまだ“子供”なんだな……。

 と思いつつも、ヴァン・ヘルシングは既に60代後半だ。

……私が死んだら、ヴラドは――。

「どうしたのかね? エイブラハム」

 伯爵が首をかしげ、ヴァン・ヘルシングを見つめていた。ヴァン・ヘルシングははっ、と我に返った。

「何でもない……。さて、急いで病院へ行こう。アドリアン君とクララさんが心配だ」

 


 

 





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