11 催眠術、そして暴露
「クララが、襲われたっ……。吸血鬼にっ……」
アドリアンは愕然とクララを見つめた後、ヴァン・ヘルシングと伯爵の前に駆け寄ってきたかと思えば、勢いよく深々と頭を下げた。
「先生っ、ドラキュラさんっ、クララを助けて下さいっ! お願いしますっ……!」
するとクララも立ち上がり、二人に頭を下げた。
「お願いしますっ……。わたし、これからどうすればっ……」
ヴァン・ヘルシングと伯爵は互いを見て、アドリアンとクララに向き直った。
「頭を上げなさい、二人とも」
ヴァン・ヘルシングはアドリアンとクララを隣に座らせると、自身の蝶ネクタイを外し、シャツの襟を指で引っ張った。そして自身の左の首筋をアドリアンとクララに見せた。
ヴァン・ヘルシングの首筋を目の当たりにした二人は目を丸くした。彼の首筋にはクララと同じく、吸血痕があったからだ。
「アドリアン君には言ってなかったが、実は私もシュヴァルツヴァルトで餌食になったんだ。まあ、ヴラドが退治してくれたおかげで、こうして人間でいられるというわけさ。だから――」
ヴァン・ヘルシングはクララの肩に優しく手を置くと、にこりと微笑んだ。
「そう気を落としてはならない。君たちには私と、有能な助手がいるんだ」
そう言いながらヴァン・ヘルシングは親指で自身と伯爵を指差した。その頼もしい言葉にアドリアンとクララは希望を持ったように表情を明るくさせた。
ヴァン・ヘルシングはふむ、と口元に手を当てた。
「先ずはその吸血鬼について聞きたいが……“話せない”か……。そいつは“ルスヴン卿”か?」
すると伯爵が眉を潜め、ヴァン・ヘルシングを見た。
「“ルスヴン”とは誰だね?」
伯爵の口調は少々鋭く、気に食わなそうだった。まるで嫉妬している様子だ。
ヴァン・ヘルシングは何故、伯爵にそんな態度を取られたのか、と思いながら素っ頓狂な顔で答えた。
「イギリス人のジョン・ポリドリが書いた小説『吸血鬼』に出てくる吸血鬼だよ。研究室にあるぞ?」
「ふーん。ヴァーニー読み終わったら読もう」
伯爵は“ルスヴン卿”なる吸血鬼が架空の人物だと知り、澄まし顔に戻ると人差し指をピンと上げた。
「話せないという催眠術を掛けられた、というのであれば俺が“話出来る”ように催眠術を掛けてやろう」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングたちはえっ? と声をもらした。伯爵が続ける。
「術を掛けられて言えないようにされているのであれば、その逆も然りだ。エイブラハム――」
伯爵はヴァン・ヘルシングに、人差し指で手招きをしてきた。ヴァン・ヘルシングは少々嫌な予感を覚えたが、諦めたように伯爵の方に向き直った。
「何――」
――俺の目を見ろ。その内なる秘密を言え。
頭の中に直接伯爵の声が聞こえたかと思えば、ヴァン・ヘルシングは伯爵から目を離せなくなり、口が勝手に動いていた。
「私は……ヴラドとベッドを共にした……」
ヴァン・ヘルシングの言葉にアドリアンとクララが驚きの表情を見せ、とくにクララはグハッ! と声を上げたかと思えば、貧血なのにも関わらずタラリと鼻血を流していた。
「ド、ドラ、ヘッ――むぐっ」
アドリアンが慌ててクララの口を塞いだ。
「クララッ!」
クララは鼻息を荒くし、アドリアンの手を力強く払った。
「邪魔しないでっ、アドリアン! わたしは今ものすごくキュンキュンしてるのっ!」
先ほどまでの体調不良はどこへ行ったのやら、クララは顔を紅潮させながらヴァン・ヘルシングと伯爵を、熱い眼差しで見つめていた。
ヴァン・ヘルシングはというと、クララ同様顔を紅潮させ、今自分の口から出た言葉で焦りと羞恥に圧し潰されそうになっていた。その目の前では伯爵が、面白おかしそうに口角を上げていた。
「“実験”は成功だ。エイブラハム、お疲れさま」
そう言われ、ヴァン・ヘルシングは脱力したようにガクリと項垂れた。
……最悪だ……最悪だっ……これじゃ公開処刑だ!
そしてはっ! と顔を上げ、慌てたようにクララとアドリアンに弁解した。
「違うんだっ! 否、確かに本当のことだがっ、その時コイツはコウモリだったんだっ!」
ヴァン・ヘルシングはズバリ、伯爵を勢いよく指差した。伯爵はふふん、とご満悦そうだった。アドリアンは生温かい眼差しを向け、クララは未だに興奮状態だった。
ヴァン・ヘルシングとクララは首元の身なりを整え――クララは鼻血も拭いて――。
伯爵はクララの隣に座ると、早速催眠術を掛けようと顔をのぞき込んだ。
「ではミス・クララ、余の目を見なさい」
クララは目を丸くし、恥ずかしそうに頬を染めた。
「異性の方をじっと見つめるのって、照れます……」
クララの言葉に伯爵は目をパチクリさせると、目を閉じてふふっと一笑した。そして周りに他の人間がいないことを確認し、彼女の目の前で姿を女――カタリーナに変えた。
伯爵の変身を目の当たりにしたクララは目を輝かせた。
「“同性”同士なら良いかしら? ミス・クララ」
カタリーナはグラスハープのような美しく甘い声でクララに言った。クララはうんうん! と力強くうなずいた。
「さあミス・クララ、わたしの目を見て」
クララは真剣な表情を浮かべ、カタリーナの真っ赤に燃え盛るような目を見つめた。その両脇ではヴァン・ヘルシングとアドリアンが静かに見守っていた。
次第にクララの表情から力が抜けていき、ふわふわしたようにまぶたを閉じたり開いたりし始めた。
「では問おう――」
カタリーナは少し身を乗り出すと、言葉を続けた。
「君を襲った吸血鬼はどんなヤツだったかね?」
クララは最初、うつろに口をパクパクさせるだけだったが、少しして、小声で話し始めた。
「……若い男……紳士みたいな格好……背が高い……銀色の髪……灰色の瞳……。アッセル邸の庭から物音が聞こえたので、のぞいて見たらその男が立っていて、見つかって、逃げようとしたら突然目の前に現れて、私の首に噛み付いて……『誰にも、吾のことを言うではないぞ』と言ってきました……」
「灰色の瞳……本当にルスヴン卿みたいだな」
ヴァン・ヘルシングが興味深そうに呟くと、その隣でカタリーナが不満そうに彼を見た。
「先ほどから“ルスヴン”のことばかっり言って……」
ヴァン・ヘルシングは驚いたように瞬きした。
「何だ? 嫉妬か?」
カタリーナはヴァン・ヘルシングの言葉に目を見開いたかと思えば、フン! とそっぽを向いてしまった。
カタリーナ――伯爵自身、『吸血鬼カーミラ』の“カーミラ”には何とも思ったことはないのに、何故か、“ルスヴン”と聞くとどうも嫌な奴と思えてしまう。まだジョン・ポリドリの『吸血鬼』は読んでないというのに……。
「……わたしどうしちゃったんでしょうね……?」
突然、クララが自嘲するように話を続けた。ヴァン・ヘルシングたちがクララに注目する。
「……お二人に感化されてもう一度『ギルガメシュ叙事詩』を読もうと思ってたのに、その体力も……――」
ヴァン・ヘルシングとカタリーナは目をパチクリさせ、アドリアンはクララの口をすぐに塞げるように身構えた。
「教授と伯爵は結婚しっ――むぐっ」
「クララッ!」
「すまないね、今ミス・クララは心の内を暴露したくて仕方がないのだ」
カタリーナが平然と言った。
「早く戻して下さい!」
そう叫んだアドリアンは未だにクララの口を押さえ、当のクララは身体をバタつかせ、今にも叫びだしそうな勢いだった。
「良いだろう。ミス・クララ――」
カタリーナは自分の方を向くよう促した。
カタリーナがクララの催眠を解いてる最中、ヴァン・ヘルシングはアドリアンの元に歩み寄った。
「アドリアン君」
「はい」
アドリアンはヴァン・ヘルシングを見上げたとたん、慌てたように立ち上がった。
「先生っ、どうされたんですか? 何か困ったことでも……」
ヴァン・ヘルシングの表情はどこか困惑した面持ちだった。
「否、困った、というわけではないが……その――」
小さく息をつくと、ヴァン・ヘルシングは続けた。
「アドリアン君……クララさんに、私たちのことを何て言ってるんだい? 先月会った時もそうだったが、『ギルガメシュ叙事詩』の話が出てきたぞ? それにしても、君のお姉さんは一体どんな――」
ヴァン・ヘルシングは突然口をつぐんだかと思えば、アドリアンの耳元で声を潜めて言った。
「その……性癖が……?」
するとアドリアンは後ろめたそうに顔を伏せると、催眠術が解けて、いつも通りにカタリーナと会話しているクララを盗み見た。
「クララの、その……変わった“性癖”は……10代の頃に『ギルガメシュ叙事詩』を読んでしまい、その……」
アドリアンは大きなため息をつき、随分間を置いて、観念したように言った。
「同性同士の恋愛に興味を抱いてしまったんです……」
ヴァン・ヘルシングは目をギョッと見開くと、一瞬だが絶句してしまった。
「そ、そうか……」
そう答えながらヴァン・ヘルシングは、以前ダム広場で会った時のクララの言葉を思い出した。
『異性同士の友情があれば、同性同士の恋愛も、また然り……。わたしはこの指輪に、性別の垣根など関係ない無償の愛情と固い絆、友情を見出したんです――』
……だからあんなことを……。
ヴァン・ヘルシングは微苦笑を浮かべると、アドリアンをまっすぐ見た。アドリアンは何か、恐れを抱いたように畏まっていた。
【現代では強く言われることはなくなってきたが、キリスト教では同性愛は罪とされている。一応、念のために記す】
「アドリアン君」
ヴァン・ヘルシングに呼ばれ、アドリアンはビクリと肩を震わせた。
「はい……」
「同性愛がどうしたと言うんだ。愛情に男も女も関係ないさ」
アドリアンはヴァン・ヘルシングの言葉に呆然とし、目をパチクリさせた。
「へ……? で、でもキリスト教では――」
ヴァン・ヘルシングはアドリアンの言葉を遮り、真剣な眼差しで続けた。
「確かにキリスト教では“そういう考え”かもしれないが、今はもう20世紀だぞ? 宗教が個人の恋愛観に立ち入るのはもはや時代遅れかもしれない。今なんか無宗教の人もいるくらいだからな? それに個人の尊厳と宗教は別物として捉えるべき、と私は考えているんだが……アドリアン君はどう思う?」
時々、大学の学生や教授たちの中にエイブラハム・ヴァン・ヘルシングは狂人だ、という人がいるが、アドリアンにはどうも、そんな思いは一切起こらなかった。それどころかヴァン・ヘルシングには新しい何かを発見させてくれるきっかけを、いつも与えてもらっている。
アドリアンは自身の目から鱗が落ちたように、今までの考え方を改めさせられた。
……僕の考えはなんて“古かった”んだ。クララのことをいつも恥ずかしく思うばかりだったけど、人には人の生き方があるんだ。
「先生、ありがとうございます」
アドリアンはヴァン・ヘルシングに深々と頭を下げると、彼をまっすぐ見つめた。
「お陰で目が覚めました。僕は今まであんな性癖の姉を煩わしく思っていました……。でも、それもクララを形づくる一つなんですね」
アドリアンは今までの、クララへの態度を反省したように肩を落とした。そんなアドリアンの肩に、ヴァン・ヘルシングは手を優しく置いた。
「ああ、そうとも。それを取ってしまったらクララさんではなくなってしまうぞ?」
「はい!」
ヴァン・ヘルシングとアドリアンはそっと、カタリーナとクララを眺めた。カタリーナとクララは一体何を話しているのやら、傍から見れば若い女性二人が世間話に花を咲かせているように伺える。
するとヴァン・ヘルシングが手で口元を隠すようにアドリアンに耳打ちした。
「……実は、私はどうやらアイツの棺で眠ったことがあるみたいなんだ……。覚えていないがな?」
アドリアンは驚きに目を見開き、無言でヴァン・ヘルシングを見つめた。
「言っておくが、私には“そういう趣味”はないぞ?」
「そ、それは存じておりますよ……」
アドリアンは苦笑いを浮かべながら返した。
……クララが聞いたら興奮しそう……。
世間話に花を咲かせている“女子”二人を、一体どんな話をしているのだろうか? と少し興味ありげに“身も心も男”の二人が眺めていると、突然クララがヴァン・ヘルシングの元へと駆け寄ってきた。
ヴァン・ヘルシングは首をかしげ、どうしたんだい? と問いかけようとすると――。
「ヴァン・ヘルシングさんって、女優のサラ・ベルナールさん【19世紀後半のフランスで活躍した舞台女優】と同じように棺で眠ったことがあるんですかっ!? それもドラキュラさんのっ!」
クララの質問にヴァン・ヘルシングは目をギョッと見開くと、クララ越しに、長椅子に優雅に腰掛けるカタリーナを凝視した。
カタリーナはヴァン・ヘルシングの視線に気づいたのか、にこりと嬌笑を返してきた。
ヴァン・ヘルシングは恐る恐るクララに視線を戻すと、クララは目をキラキラと輝かせこちらを見上げていたのだ。その視線にヴァン・ヘルシングは、背筋が凍るような感覚に陥ってしまい、額に冷や汗があふれ出た。
「えっと……そのだね――」
ヴァン・ヘルシングは何とか話を誤魔化そうと言葉を紡ぐが、クララが興奮気味に遮った。
「それって、“彼シャツ”ならぬ、“彼棺”ですよねっ!?」
……うわぁぁああっ!!
ヴァン・ヘルシングは心の中で悲鳴を上げた。頑張って表情には出さないように努めたが、顔が引きつってしまったのは言うまでもない。
「ドラキュラさんの棺で眠った感想はっ!?」
クララは、げっそりとした表情を浮かべているヴァン・ヘルシングに構うことなく質問を投げかけてくる。その度にヴァン・ヘルシングは精神が擦り減っていく感覚に陥った。
そんなヴァン・ヘルシングを見かねてアドリアンがクララに注意した。
「クララ、先生が困ってるよ!」
ようやくヴァン・ヘルシングの様子を認識したクララは申し訳無さそうに頭を下げた。
「す、すみません、わたしったら……あはは……」
「だ、大丈夫だよ……」
ヴァン・ヘルシングはよろよろとアドリアンとクララから離れると、カタリーナの隣に疲れた様子で、ゆっくりと座った。そしてカタリーナをジトッとした目で睨んだ。
「お前……クララさんに何話してるんだっ……」
げっそりとしたヴァン・ヘルシングを他所にカタリーナは平然と返した。
「このままではミス・クララは間違いなくわたしの仲間入りをしてしまうだろう。少しでも彼女を活気づけるために、俺と君の“あんなことやこんなこと”を話した。我慢しろ」
カタリーナの答えにヴァン・ヘルシングはやるせなさそうに顔を歪めた。
「まさかお前……俺がお前にベッドに組み敷かれたことや横抱きされたこと、膝枕してもらったことを言ったのか……?」
恐る恐るカタリーナに尋ねると、カタリーナはパッ! と目を見開いた。
「ああ、次の機会に話そう」
ヴァン・ヘルシングは再度心の中で叫んだ。
……あぁぁああっ!! 言うんじゃなかった!
カタカタと震えるヴァン・ヘルシングの隣で、カタリーナは愉快げに、嫣然と微笑みながら彼を見つめた。
カタリーナのその嬌笑と奔放さにヴァン・ヘルシングは、ただただ深いため息をつくばかりであった。
その時だった――。
「クララッ、どこに行くのっ?」
アドリアンの困惑したような声が聞こえたのだ。
そちらに目を向けると、クララが朧げな表情で、ふらふらと広間の会場に行ってしまうところだった。
※アルフォンス・ミュシャ氏やオスカー・ワイルド氏をご存じの方はサラ・ベルナール氏もご存知だと思われます。19世紀後半のフランスで、舞台女優として活躍しました。有名所は『ハムレット』のハムレット王子ですよね(ミュシャ作のポスター見てみて下さい!)。
サラ・ベルナールは16歳の頃から棺で眠っているという(写真も残っております)。そして恋人と関係を持つ時もその棺だったとか。因みにサラ・ベルナールには同性の恋人もいました。
あと、河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』復刊しましたね! カバーがカッコイイ……。そして水声社の『ドラキュラ』が仲間になった! これで私の元には、『Dracula』が5冊あることになる……。
因みに、世界で初めて同性婚を認めたのはオランダです。2001年4月からです。
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