9 目撃者、クララ

 昨日の夜。郊外の、職場である洋服工場からの帰り道。

 クララはその日もいつも通りに、市議会議員アッセル氏の豪邸の前を通って家路についていた。もう夜だからだろうか、大通りなのに人はほとんどなく、とても静かだ。家の明かりや街灯、そして、煌々と輝く満月が夜道を照らしていた。ただ、アッセル邸のみ真っ暗で、誰もいないのだろうか?

 本当はもう少し早く帰る予定だったのだが、工場の機械トラブルで遅れてしまったのだ。寄りにもよってこんな夜に……。

 クララは小走りで帰ろうとした時だった。

 ドサッ! と何かが落っこちたような音が、アッセル邸の庭から聞こえたのだ。クララは少しの不審感と好奇心からアッセル邸の庭を、高い鉄柵の間からのぞき見ようとした。すると、鉄柵と低木の茂みの隙間から男の姿を捉えた。

 男は身なりの良い服装にすらっとした体格だ。街灯の明かりに照らされ、髪をオレンジ色に反射させていた。手にはトランクを携えている。

 物取りか? と思い、もう少し男の特徴を確認しようと、クララは鉄柵の隙間に手を入れ、茂みをかき分けた。

 ガサッ――。

 男がこちらに勢いよく振り向いた。

 しまった! とクララは慌ててその場を離れようときびすを返すが、何と目の前に、背の高い鉄柵の向こう側にいたはずの、あの男が立っているではないか!

 男は眉目秀麗な顔立ちだったが、その口元からは鮮血を流し、唇から鋭い歯をのぞかせていたのだ。

「きゃっ――」

 クララはとっさに悲鳴をあげようとしたが、男の鉛色の鋭い眼光を目の当たりにしてしまい、声が出せなくなってしまった。逃げようと脚を動かそうとするも力が入らず、突っ立って震えることしか出来ない。そんなクララに、男が残忍な笑みを浮かべながら歩み寄っていった。

「女か。今夜はたらふく“食えそう”だ」

 男はそう言うとクララの首元に手を伸ばし、彼女のブラウスの襟元を乱暴に掴むと引き千切った。

 クララは涙目で、ただ男を見上げることしか出来なかった。

……嫌っ……。

 男は、クララの露わになった首筋に顔を近づけていった。

……嫌! 誰か助けてっ――。

 そして男はクララの耳元で囁いた。


――誰にも、吾のことを言うではないぞ。


 クララはそこで気を失ってしまった。


――さん。

――お嬢さん。

「お嬢さんっ?」

 男の声がし、クララははっ! と目を覚ました。

 ふくよかなお腹の警察官二人が視界に入り、クララは思わず飛び起きた。

「わっ! お巡りさん! わたし何かしましたでしょうか!?」

 クララの様子に警察官二人も驚いた表情を浮かべ、一人が言った。

「いや、ね。こんな夜に道端で寝ていたら馬車に轢かれちゃうかもしれないでしょ?」

「へ……?」

 警官の言葉にクララは呆然とし、周囲を見渡した。確かにここは、高級住宅が立ち並ぶ大通りだった。

……何でわたし、こんなところで……。

「襟もこんなにズタズタじゃ……」

 警官はクララの上着の襟を立たせると、千切れたブラウスの襟を隠した。

「もしかして襲われたのかい?」

 もう一人の警官が心配そうに尋ねてきた。クララは難しい表情を浮かべ……首を横に振った。

「よく覚えてないんです。何でわたし、こんなところで寝てしまったのか……。もしかして、夢遊病っ!?」

 クララはどうしよう! と言わんばかりに両頬を押さえ、悶々とした。

「それなら精神科に行くことをお勧めしますよ」

 警官は冗談っぽく言ったが、クララは大いに落ち込んだ様子を見せた。

……市内にいい先生はいるかしら――。

「あっ!」

 ひらめいた時だった。

「クララ!」

 アドリアンの声がした。振り返るとアドリアンが煩わしそうな面持ちで、こちらに駆けて来るところだった。

「アドリアン……」

 クララはのほほんとした面持ちでアドリアンを迎えた。アドリアンはそんなクララを無視して慌てた様子で駆け寄っていき、真っ先に警察官二人に向って深々と何度も頭を下げた。

「すみません! すみませんっ! うちの姉が何かやらかしたみたいで! 本当に――」

「違う、違う!」

 警察官二人は慌ててアドリアンを制した。

「弟さん? 君のお姉さんが道端で寝ていたから起こしただけだよ」

「寝てた? 道端で!?」

 アドリアンは呆れた表情で、横目にクララを見た。当のクララはあはは……と苦笑いを浮かべていた。

「父さんも母さんも、全然帰ってこないから心配してたんだよ! 帰るよ!」

 アドリアンはクララの手を強引に取ると、警察官二人に再度頭を下げ、クララを引っ張っていった。


 深夜、クララの自室にて。

 クララはうなされていた――。

 

 真っ暗な夜空高くに位置する、銀色の満月のような髪の色。

 大理石の彫像のような、眉目秀麗な顔立ち。

 その唇からは獣の牙のように尖った歯がのぞき見える。

 そして、爛々と光る灰色の鉛の瞳。

 その男が一人の女性の首に噛み付き、じゅるじゅると嫌らしい音を立てて血を啜っている。女性は抵抗することなく男の腕に収まっている。すると、男が脇から刃物を取り出し、それで女性の首筋を切り裂いたのだ!


――誰にも、吾のことを言うではないぞ。


 クララはビクリと身体を震わせ飛び起きた。

……夢……?

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