8 検死

 2月も中旬になった頃。

 朝、アムステルダム市立大学にて。

 1時限目の講義を終えたヴァン・ヘルシングが、自分の研究室に戻ろうとした時だった。

「ヴァン・ヘルシング教授!」

 ヴァン・ヘルシングが振り向くと、医学科の学部長が深刻そうな面持ちで彼に歩み寄ってきた。その後ろには、数人の、黒い警察官の制服を身にまとった男性たちが、一緒になって大きな長方形の箱を携えていた。それはまるで棺だった。

「学部長、どうされ――」

 ヴァン・ヘルシングが言い掛けたところで、学部長はヴァン・ヘルシングの肩に力強く手を置いた。

「警察から、検死の依頼だ!」

 ヴァン・ヘルシングは目を見張った。

「私に……? 検死は開業医では――」

「今、アムステルダム市内の開業医は、“謎の貧血”症状を訴える女性患者で溢れ、それどころではないらしい――」

 学部長はちらりと背後の警察官たちを一瞥し、再度ヴァン・ヘルシングの方を向き、話を続けた。

「この後の講義は他の者に任せて、ヴァン・ヘルシング教授は解剖を頼む」

「……分かりました」

 ヴァン・ヘルシングは静かに返すと、一旦研究室に入っていった。

 研究室に戻ったヴァン・ヘルシングはソファーに座り込むと、深いため息をついた。その向かいでは伯爵が『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』の続きを読んでいた。

「浮かない顔をしているね、エイブラハム」

 伯爵は本から顔を離すことなくヴァン・ヘルシングに問い掛けた。ヴァン・ヘルシングは眼鏡を外すと目頭を押さえた。

「警察から検死の依頼が来た。今から解剖室に行ってくる……」

 ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵はようやく本から顔を離すと、彼を見つめた。

「解剖? 講義はどうするのかね?」

「講義は他の者に頼むんだと」

「では俺も、解剖とやらに行こう」

 伯爵はテーブルに本を置くと、スクッと立ち上がった。

「ご遺体の検死の見学でもするのか?」

 ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、伯爵を見上げた。

「またとない機会。不謹慎ではあるが、見てみたいものだ」

 伯爵は上着を羽織ると、早速研究室を出ようとしていた。

「じゃあ、俺の助手として」

 ヴァン・ヘルシングも立ち上がると上着を羽織り、手術道具の入った鞄を持った。

 二人が研究室を出ると目の前には、一人の警官が待ち構えていた。その横では4人の警官が、重いから早くしてくれ! といった様子で棺を持って立ち尽くしていた。

「ヴァン・ヘルシング教授、この度はよろしくお願いします」

 目の前の警官は敬礼をすると、今度は伯爵の方に向き直った。

「そちらの方は?」

「余はヴァン・ヘルシング教授の助手、ヴラディスラウス・ドラクリヤという」

 伯爵が警官をのぞき込むように見下ろすと、警官は少々伯爵を警戒したように後ろに反り返った。

「……助手さんでしたか」

「では、解剖室に案内します」

 ヴァン・ヘルシングは警官たちを先導し、大学の解剖室へと案内した。

 薄暗い解剖室に入ると、警官たちは棺からリネンの布に包まれた死体を出し、ヴァン・ヘルシングが指示を出していないにも関わらず木製の、赤黒く変色している解剖台へと乗せた。その間にヴァン・ヘルシングは解剖台の上の簡素な白熱電球を点け、明かりを灯した。

「家にも付ければ良いものを……」

 ボソリと伯爵が呟いた。

「出費してくれるのかな? パトロン殿」

 ヴァン・ヘルシングは皮肉のつもりで言ったのだが、伯爵がためらうことなく良いよ、と返してきたので、びっくりしつつ上着を脱ぐと、真っ白な白衣を羽織った。

「ヴラド、お前も」

 ヴァン・ヘルシングは同じく、白衣を伯爵に手渡した。

「もう“黒”ではないのか……」

【19世紀後半以前は黒色のフロックコートが当たり前だったが、後半以降から白衣が当たり前となった】

 そう呟きながら伯爵は白衣を受け取り、上着を脱ぐと、白衣を羽織った。

「さてと……」

 ヴァン・ヘルシングは手術道具の入った鞄を開けると、解剖台の脇のワゴンに中身を次々と出していった。それはどれもこれも“身の毛がよだつような手術道具”たちだった。それに伯爵は眉を潜め、並べられていく手術道具を凝視した。

「これが……手術道具かね……?」

 ワゴンの上にはお馴染みのメスやメッツェン、鉗子が。それ以外には滑車のような形のノコギリの刃がついたものや、明らかにペンチのようなもの、ワインオープナーみたいなものまで様々なものがヴァン・ヘルシングの手によって並べられていった。

 伯爵は疑いの目でヴァン・ヘルシングを見た。

「もちろん。全部使うかは分からんがな?」

 ヴァン・ヘルシングは至って大真面目な表情で答えた。伯爵は背後に並んで待ち構えている警官たちを一瞥した。警官たちも表情一つ変えることなく、ヴァン・ヘルシングが準備している様子を淡々と眺めていた。

……医学書以外にも、手術道具のカタログ……見ておいた方が良いのか……。

 伯爵は遠い眼差しで空を見つめた。

 一人の警官が死体の布を払った。現れたのは氷のように冷え切った若い女性の死体だった。

 ヴァン・ヘルシングは死体の頭を持つと、首を動かしたり、足首、腕などを動かしたりした。

【白衣は既に存在していたが、まだ素手で手術を行う外科医が多かった。要するにヴァン・ヘルシングは素手で、ご遺体に触れている。手術時の手袋は1910年辺りから当たり前になり始めた】

 死後数日経っているためなのか、若しくは血が全く無いせいなのか、女性の皮膚は青白く、死斑の痕すらない。だが、死体の死後硬直は“なりかけ”で、死後7、8時間といったところだった。それがヴァン・ヘルシングに矛盾を与えた。

 ヴァン・ヘルシングは不審そうに眉を潜め、今度は死体の外傷を確認した。

 目立った外傷といえば、右の頸動脈をバッサリと切られた傷だけだった。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は死体の首筋をのぞき見た。

「他殺だな……」

「傷が深い。犯人は男か……」

 すると一人の警官が手帳片手に言った。

「被害者はアメリア・アッセルさん19歳。今日の朝、家政婦が、部屋で倒れているのを発見しました。我々警察も他殺と見ております。ただ……」

 警官は一瞬口をつむぐと、困惑した面持ちで続けた。

「頸動脈を深く切られているのに、発見現場の部屋にはほとんど血痕がなかったんです。もしかしたら別の場所で殺された可能性も……」

「先ずは開いてみるか。もしかしたら首の傷以外にも何かあるかもしれん。心臓の血液も採取しよう。ヴラド、メス」

 ヴァン・ヘルシングは右手を伯爵に差し出すと、伯爵はワゴンからメスを取り、持ち手の方をヴァン・ヘルシングの手に乗せた。

「はい、どうぞ」

「どうも」

 ヴァン・ヘルシングはメスを構えると、死体の胸から腹にかけて刃を入れていった。わずかにだが切り口から血が滲んできた。

 切開を終え、切り口から胸部、腹部をゆっくりと開くと、まだ腐敗の起こってない、状態の良い臓器が見えた。

 ヴァン・ヘルシングはメスを解剖台の端に置くと、今度は注射器、と伯爵に言った。伯爵は“夕餉”で見慣れている注射器に似た、針の太い注射器をヴァン・ヘルシングに手渡した。ヴァン・ヘルシングは注射器を構え、死体の心臓に垂直に注射器の針を刺すと、注射器の押し子を引き戻し、血液を吸引した。だが、一向に注射器の中に血液が流れ出てくることはなかった。

「やはり、このご遺体……血液がない……」

 ヴァン・ヘルシングは、予想はしていたものの、驚愕せざるを得ず目を見張った。その隣で伯爵は、何か考えているように口元に手を当て、死体を見つめていた。


 死体の切開部の縫合をし、警官たちに検死の報告を済ませたヴァン・ヘルシングは、少々疲れた様子で死体の入った棺を運んでいく警官たちを見送った。

 研究室に戻ると、もうお昼の時間だった。伯爵が二人分のデルフト焼のカップを用意しようとすると、ヴァン・ヘルシングが研究室の扉に歩み寄っていった。

「どこかに行くのかね?」

 伯爵が問うと、ヴァン・ヘルシングは振り返った。

「ちょっと学部長のところに行ってくる。解剖終わったことを報告せねば……」

 そう言うとヴァン・ヘルシングは上着を羽織り、研究室を後にした。

「……いってらっしゃい」

 伯爵は閉じてしまった扉に呟くように言うと、ココアを準備し始めた。


 ヴァン・ヘルシングは医学科の学部長室の扉をノックした。

「どうぞ」

 学部長の声がした。

「失礼します」

 ヴァン・ヘルシングが扉を開けると、学部長の他にもう一人、客人であろうか、身なりの良い中年の男性がいた。

「お取り込み中でしたな。出直しま――」

 ヴァン・ヘルシングは扉を閉めようとすると、教授、と引き留める声があった。とっさに視線を学部長室に戻すと、学部長が手招きをしていた。ヴァン・ヘルシングは瞬きをしつつ学部長の元に近寄った。

「ヴァン・ヘルシング教授、丁度いいところに」

 学部長はそう言うと、客人の男性を手で示した。

「こちらの方はアムステルダム市立病院の院長、ノースさんだ」

「ノースです。よろしくどうぞ」

 ノースはヴァン・ヘルシングに軽く会釈した。

「ヴァン・ヘルシングと申します」

 ヴァン・ヘルシングも同じく会釈した。

「それで学部長、私に何か?」

 ヴァン・ヘルシングは学部長に向き直った。

「朝も話したが――」

 学部長はヴァン・ヘルシングの元に近寄ると、話を続けた。

「最近アムステルダム市内では謎の集団貧血で、市内の開業医は人手不足なんだ。そこで当大学の医学科から学生を一人、市立病院の方に貸そうと思ってね。君なら誰を推薦する?」

「そうですね……」

 ヴァン・ヘルシングは少し考える素振りを見せ、答えた。

「私ならアドリアン・バース君を推薦しますね。彼は学年で常に上位の成績ですから」

 ヴァン・ヘルシングの返事を聞いた学部長は、よし! と声を弾ませ、ノースに向き直った。

「今週中にも行かせましょう!」

「それはありがたい」

 ノースも、あまり表情には出さなかったが嬉しそうに言った。

「では、その手筈で」

「こちらこそ」

 学部長とノースは固く握手を交わすと、学部長はノースをいそいそとした様子で見送り、部屋にはヴァン・ヘルシングだけが取り残されてしまった。

 ヴァン・ヘルシングは小さくため息をつくと、置き手紙を学部長の机に残して自分の研究室へと戻っていった。

 研究室の扉を開けると、ふわりとココアの匂いが漂ってきた。

「お帰り、エイブラハム。ココアを入れた」

 伯爵はココアの入ったカップをヴァン・ヘルシングに差し出してきた。

「ただいま、ヴラド。もらうよ」

 ヴァン・ヘルシングは少し疲れた様子でカップを受け取ると、一口クイッと飲んだ。

「ああ、美味しい……」

 ヴァン・ヘルシングはホッと息をついた。

「報告だけの割には時間が掛かったみたいだが……何かあったのかね?」

 伯爵はソファーに座ると、ココアを飲み始めた。

「最近市内で、謎の集団貧血が起きて、市内の開業医は人手不足らしい……」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の向かいのソファーに座ると、ココアを飲みつつ話を続けた。

「そこでうちの大学からアドリアン君を市立病院に少しの間貸すことになった」

「ほう……。謎の貧血、ね……」

 伯爵はゆっくりと一語、一語噛みしめるように言うと、改めてヴァン・ヘルシングを見つめた。

「エイブラハム」

「どうした?」

 ヴァン・ヘルシングはココアを一口飲み、視線を伯爵に向けた。

「吸血鬼の仕業、かもしれんぞ?」

 伯爵からの信じ難い言葉にヴァン・ヘルシングは目を丸くした。

「アムステルダムにお前以外の吸血鬼がいるとでも? 前にも話してたな……?」

「その通りだ」

 伯爵はそう答えると、視線を窓の方に向けた。窓の向こうには、傾き始めた太陽が見えていた。

「今頃、どこぞの墓で休んでいることだろう……」


 夕暮れ時。アムステルダム市内。

 クララは少し怯えた様子で2階の自室の窓の外を眺めていた。

 太陽が家々の向こうに沈んでいき、あっという間に空は暗くなった。

 クララがカーテンを閉めようとした時だった。

「っ!」

 突然クララは震えだしたかと思うと、勢いよくカーテンを閉め、両手で首筋を覆うと窓際にうずくまった。

……やっぱり、夢じゃなかったんだっ……!

 その窓の外には、灰色の瞳をギラリと光らせた、身なりの良い男が、クララの部屋の窓を見上げていたのであった。






※原典第十章、“セワード医師の日記”より抜粋。


“the ghastly paraphernalia of our beneficial trade”

『我々の役に立つ、身の毛がよだつような仕事(手術)道具』

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