7 伝承――フォークロア――

 翌日、アムステルダム市立大学のヴァン・ヘルシングの研究室にて。

 ヴァン・ヘルシングは最近――毎日ではなくなったが――、伯爵に血をあげてるためか、昼の休憩時間を良いことに机の上の教科書や資料を無造作に隅に追いやり、眼鏡を眼の前に放り出しては机に伏せ、うとうとしていた。それを横から、伯爵が見下ろしていた。

「君はいつから“リップ・ヴァン・ウィンクル”になったのだね?」

【リップ・ヴァン・ウィンクル(Rip Van Winkle)とはオランダ系アメリカ人の猟師の名であり、アメリカのワシントン・アーウィング作『スケッチ・ブック』の中の短編小説。『スケッチ・ブック』は1819年から1820年に掛けて分冊の形で出版され、イギリスでは1820年に出版。オランダ移民の伝承を元に執筆された。アメリカでは“Rip Van Winkle”は『時代遅れの人』、『眠ってばかりの人』と意味付けられている。日本の『浦島太郎』みたいな……】

 ヴァン・ヘルシングはジトッとした目付きで伯爵を見上げた。

「俺はアメリカに移住する気はないぞ……」

 ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は思わずふふっ、と失笑してしまった。

「そのつもりで言ったわけではないのだがね……? まあ、あんな海の向こうに移住されては、俺の方が困ってしまう……」

 伯爵が少し寂しそうな微笑を浮かべてきたので、ヴァン・ヘルシングは瞬きをするとよいしょ、と起き上がった。

「もし俺が、海の向こうに行く、と言ったら付いてくるのか?」

 ヴァン・ヘルシングはきっと、伯爵は付いて行かない、と答えると思っていたのだが、伯爵は首を縦に振ったのだ。

「もちろん付いて行くぞ? 俺は君の助手だからね」

 伯爵の返事にヴァン・ヘルシングは、どこかこそばゆいものを覚えたのであった。


 夕方。

 本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングは机の上の教科書や資料を片付けをし始め、伯爵はソファーで『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』を、ココア片手に余裕そうに読んでいる時だった。

 研究室の扉がコンコンと鳴った。こんな時間に何だ? と少々億劫になりつつ、ヴァン・ヘルシングはどうぞ、と答えた。

「失礼するよ」

 入ってきたのは医学科の学部長だった。

 突然の学部長の登場にヴァン・ヘルシングは机の前でとっさに姿勢を正した。

「これは学部長、こんな時間に――」

「君にお客様だ」

 学部長が研究室に招き入れたのは身なりの良い、裕福そうな若い女性だった。女性はクリーム色のドレス姿に、その姿に似合わない大きなトランクを引きずっていた。女性は上品にヴァン・ヘルシングに会釈してきた。

「ご機嫌よう。こんな時間にごめんなさいね?」

「では、私はこれで」

 学部長は女性を残し、研究室を後にした。

 ヴァン・ヘルシングは慌てた様子で女性の元に歩み寄ると、ソファーを手で示した。

「こちらへどうぞ」

「失礼しますわ」

 ソファーには、いつの間にか伯爵の姿はなく、テーブルの上に『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』が置かれているのみだった。

 女性はソファーに優雅に座り、テーブルの上の本を目の当たりにすると、あの分厚い本を勢いよく取ったのだ。

「これはっ、フランシス・ヴァーニー鄕ではありませんかっ!」

 女性は興奮したように叫んだ。

 ヴァン・ヘルシングは女性の向かいに座ると、珍しそうに尋ねた。

「吸血鬼にご興味が?」

「もちろんですとも! あっ……」

 女性はしまった! といった様子で本を置いて佇まいを直すと、小さく咳払いをした。

「わたくし、ファン・ホーレンと申しますの」

 ヴァン・ヘルシングは少々戸惑いつつ、自分も挨拶をした。

「医学科教授のヴァン・ヘルシングと申します。えっと……ファン・ホーレン……婦人――」

「イヤね、“婦人”だなんて。ファン・ホーレン“さん”では良いですわ、教授」

 ファン・ホーレンは白い歯を見せながら言うと、早速と言った様子で足元のトランクを持ち上げ、ドスンとテーブルの上に置いたのだ。ヴァン・ヘルシングはとっさに『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』を避難させた。

「実はわたくし、ハンガリーに友人がおりまして、その友人の知り合いから教授、あなたさまのことを聞いたのですわよ?」

「そうでしたか……」

 ヴァン・ヘルシングは“ハンガリー”と聞いたとたん、こめかみに冷や汗がにじんできたのを覚えた。

 ファン・ホーレンは続けた。

「教授は、吸血鬼退治人でして?」

 ヴァン・ヘルシングは呆気に取られ目をパチクリさせた。

「吸血鬼退治人……? 否、私は――」

「それで相談なんですっ!」

 ファン・ホーレンはヴァン・ヘルシングに構わず、勢いよく身を乗り出して話を続けた。その勢いの良さにヴァン・ヘルシングは一瞬、ビクリと肩を震わせてしまった。

「わたくし、死ぬ前には吸血鬼を“飼い慣らして”おきたいのです!」

 ヴァン・ヘルシングは自身の耳が聞き間違いをしてしまったのではないか、と思いファン・ホーレンに聞き返した。

「“飼い慣らす”……ですか? 吸血鬼を――」

「はいっ!」

 ファン・ホーレンは今度は立ち上がると、研究室内を、まるで“夢見る乙女”のように歩き回りながら話を続けた。

「今度はルーマニアの友人からなのですが、吸血鬼の心臓を焼いて灰にしたものを飲むと、どんな病気もたちまち治してしまう、という伝承を聞いたのです!」

 ファン・ホーレンは話しながら、ヴァン・ヘルシングの机の脇の棺を興味深そうに見下ろすと、勝手に蓋を開け、何事もなかったように閉じた。ヴァン・ヘルシングは内心ヒヤヒヤしていたが、胸を撫で下ろした。

「そうですか……。それは初耳ですね、私には……。それで……こちらのトランクは……?」

 ヴァン・ヘルシングはおっかなびっくりしながらテーブルの上のトランクを指差した。するとファン・ホーレンは待ってました! と言わんばかりに駆け戻って来ると、早速トランクを開け、ガチャガチャと中身をテーブルの上に展開していった。その出された物にヴァン・ヘルシングは目を見張った。

……これはっ!

 ファン・ホーレンが出してきたのは銀、鉄製の首枷や足枷、手錠などなどの拘束器具だった。馬銜みたいなものや、お馴染みの吸血鬼退治道具まである。

「これで吸血鬼を取っ捕まえてっ、この枷で縛っておくんです!」

 ファン・ホーレンはワクワクした面持ちで言った。

 ヴァン・ヘルシングは眼の前に出されている退治道具や拘束器具を眺め、ふむ、と想像した。

……もし、これらでヴラドを捕まえるとして……。

 先ず、棺で眠っているところに奇襲を仕掛け、首や手首、足首に枷を着ける。夕方になって目覚め、暴れそうになれば十字架やホスチアで大人しくさせれば良い。だが……霧に姿を変えられてしまえば、枷は無意味になる。おまけに吸血鬼は怪力だ。枷など引き千切ってしまうだろう。以前ホーエンツォレルン城でヴァン・ヘルシングが捕まってしまった時、伯爵がヴァン・ヘルシングの枷を引き千切ったので実証済みなのだ。そうなるともう、吸血鬼を拘束しておくなど、為す術はない。

 ヴァン・ヘルシングは、ヴラドを“生け捕り”するのは無理だな、と苦笑いを浮かべた。

「吸血鬼は“妖精”ではありませんので、鉄や銀が苦手というわけでは――」

「実はですね――」

 突然ファン・ホーレンはヴァン・ヘルシングの話を遮ると、彼の元に近寄り、その耳元で声を潜めて言った。

「……学部長さんから小耳に挟んだのですがね? 噂で、教授は吸血鬼を“飼っていらっしゃる”と――」

 ヴァン・ヘルシングは一瞬目を見張った。

……“飼ってる”? 私が、ヴラドを……?

 確かにヴァン・ヘルシングは自身の血液を伯爵に提供している。だが、その逆も然りで、伯爵はヴァン・ヘルシングの家の掃除や家事、ましてや資金の提供をしてくれている。そう考えると一体どちらが“お世話されている”のだろうか。

……私の方が“飼われている”んじゃないのか……?

 ヴァン・ヘルシングは静かに自嘲した。そして、チラッとファン・ホーレンに視線を向けると、ファン・ホーレンは何かを含んだ笑みを浮かべていたのだ。ヴァン・ヘルシングはとっさに視線を逸らした。

……どういう“笑い”だ?

 するとファン・ホーレンは、いそいそとヴァン・ヘルシングの向かいのソファーに座ると、トランクから大きく膨らんだ布の袋を取り出し、テーブルの上に置いたのだ。置かれた瞬間、ジャリ、と金属がぶつかり合う鋭い音がした。ヴァン・ヘルシングは嫌な予感を覚えた。

 ファン・ホーレンは袋の口を開くと、中身を掴み取り、ヴァン・ヘルシングの眼の前に広げた。

「っ!?」

 ヴァン・ヘルシングは目を見開き、ファン・ホーレンを見つめた。

 眼の前に出されたものは大量のソブリン金貨だったのだ。やはりファン・ホーレンは裕福な家柄のようだ。

「わたくしに、その吸血鬼を売ってくれます? 言い値で買いますわよ?」

 ファン・ホーレンの言葉にヴァン・ヘルシングは思わず眉を潜め、口元を歪めた。ファン・ホーレンは、予想通り、といった様子でソブリン金貨をチラチラと顔の横で見せびらかしている。

 ヴァン・ヘルシングは一つ、大きく息をついて静かな口調で話し始めた。

「ファン・ホーレンさん、申し訳ないが私は、吸血鬼は“飼って”はいませんし、もしいたとしても、私の“所有物”ではないのです。今まで退治してきた吸血鬼にも個人の意志がありましたし、元は人間です。人間を飼うなど、野蛮な行為です」

 ヴァン・ヘルシングは毅然とした面持ちでまっすぐファン・ホーレンを見つめていた。ファン・ホーレンはヴァン・ヘルシングの様子が気に食わなかったのか、片眉を釣り上げ、返してきた。

「わたくしの血をあげてもいいわ! あなたのような偽善振った古臭い年寄りの血なんかより数倍美味しいでしょうねっ!?」

 ファン・ホーレンの自分勝手な発言にヴァン・ヘルシングは、愕然としたように息をのんだ。

……私の血は、アイツの“糧”になっているんだろうか……。

 ヴァン・ヘルシングは唇を震わせつつ、何か言い返そうとした時だった。

「お嬢様っ!!」

 研究室の扉が勢いよく開くのと同時に中年の女性の怒鳴り声が響き渡った。

 ヴァン・ヘルシングとファン・ホーレンが扉の方を向くと、メイド姿の中年女性と、同じく中年の執事姿の男性が息を荒らげながら立っていた。

「アマンダッ……」

 ファン・ホーレンはとっさに立ち上がると、テーブルの上に広げていた金貨や拘束器具をそそくさとトランクにしまい始めた。アマンダと呼ばれたメイド服の女性が怒り顔で地団駄を踏みながら入室してきて、ファン・ホーレンに歩み寄った。執事の男性も付いてきた。

「お嬢様! また吸血鬼ですかっ? ハンガリーの学者さまも“吸血鬼の生け捕りは無理だ”と仰っていたでしょうに!」

 アマンダは両手を腰に当てて、ファン・ホーレンに怒鳴った。

「わたくしは、他の皆が飼ってるような平凡なペットなんかより、珍しいペットが欲しいのっ!」

 ファン・ホーレンは腕を組み、フン! とそっぽを向いた。

「お嬢様、お父様にお金を持ち出したことが知られたら、また怒られてしまいますよ……」

 執事が冷や汗をかきながらファン・ホーレンに言った。

「吸血鬼、欲しいっ!! わたくしに売ってちょうだい!」

 ファン・ホーレンは懲りていないのか、ヴァン・ヘルシングに再度向き直ると勢いよく迫ってきた。ヴァン・ヘルシングはファン・ホーレンを落ち着かせようと、ソファーに座るよう促したが、もう彼女は興奮状態だった。

「うるさいぞ、小娘」

 突然ヴァン・ヘルシングの背後から美しく甘い、しかし厳かな女性の声が聞こえた。ヴァン・ヘルシングたち一同は一瞬にして静かになり、声のする方を見た。ヴァン・ヘルシングの背後に立っていたのは伯爵の女姿――カタリーナだった。

 カタリーナは顔をしかめ、カツカツとファン・ホーレンに歩み寄っていったかと思えば、バチンッ! と彼女の頬を平手打ちしたのだ。ヴァン・ヘルシングやアマンダ、執事、そして頬を引っ叩かれたファン・ホーレンは呆気に取られた。

「お前のような小娘が、吸血鬼を飼う? ふふっ、笑わせる」

 カタリーナはファン・ホーレンに、嘲笑うように言い放つと、グイッと彼女の耳元に顔を近づけ、彼女にだけ聞こえるように伯爵の声で、潜めて言った。


――余の“もの”を“古臭い”だと? 余のものを侮辱するとは、どうなるのか分かってるのかね……?


 カタリーナの威圧にファン・ホーレンは身体をガタガタと震わせながら、恐る恐るカタリーナの方に視線を向けた。カタリーナは真っ赤な目を爛々と光らせ、ニタリと口角を上げ、象牙のように白く鋭い犬歯を唇からのぞかせていた。ファン・ホーレンは、まさかこんなすぐ近くに本物の吸血鬼がいるとは夢にも思っていなかったのか、恐怖で今にも泣きそうな面持ちで、脱兎のごとく研究室を飛び出していった。アマンダと執事はせっせとテーブルの上の物をトランクに詰め込み、ヴァン・ヘルシングとカタリーナに何度も頭を下げ、ファン・ホーレンを追って研究室を去っていった。

 ヴァン・ヘルシングは深いため息をつくと、ソファーにだらりと座り込み、背もたれにもたれ掛かった。そして、眼鏡を外してテーブルに置くと、両手で目元を覆いうつむいた。

「ヴラド……」

「何だね?」

 カタリーナは静かにヴァン・ヘルシングの隣りに座った。

「すまん……老いぼれの血な――むぐっ」

 ヴァン・ヘルシングは口を、手でカタリーナに塞がれ、目を丸くした。

「シー……」

 カタリーナはもう片方の手で口元に人差し指を立てた。ヴァン・ヘルシングは視線だけをカタリーナに向けた。

 カタリーナは微苦笑を浮かべており、ヴァン・ヘルシングの口から手を離すと彼の腕に縋りついた。

「落ち込んでるのかね……? ならば慰めてあげよう。ほら、エイブラハム、わたしの肩に頭を乗せると良い」

 カタリーナは自身の肩をポンポンと叩いた。ヴァン・ヘルシングは少しためらいがちに、だが、誘いに負けてしまったのか、ゆっくりとカタリーナの肩に頭を乗せた。

 ヴァン・ヘルシングは小さなため息をつくと、カタリーナに問い掛けた。

「ヴラド……ルーマニアには、“吸血鬼の心臓”に関する伝承があるのか……?」

 カタリーナは何かを含んだ表情を浮かべたかと思えば、声色一つ変えずに何食わぬ顔で答えた。

「はて、わたしは聞いたこともないね……」

 そう言いつつカタリーナは自身の胸に手を添えた。

……“これ”は君のために取っておくよ。

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