6 運命の指輪

 とある日曜日の朝。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵はダム広場の市場に買い物に来ていた。

 商人たちが各々、未だに残る雪の中屋台を出し、自慢の商品を売っている。日曜日ということもあり、お客たちがこぞって屋台に群がっていた。

「早く済ませて帰るか……」

 ヴァン・ヘルシングは少々億劫そうに人で群がる屋台を見ながら言った。

「ほう、何かやりたいことでもあるのかね?」

 伯爵が尋ねると、ヴァン・ヘルシングは、別に、と返した。


 早々に買い物を終え、家路につこうとした時だった。

 人々の足で踏み固められた雪の中、陽の光を鋭く反射するものを、二つ見つけた。ヴァン・ヘルシングと伯爵は身を屈め、それぞれその光るものを拾った。

 ヴァン・ヘルシングが拾ったのは銀製の指輪だった。横から見ると板のように薄いアームで、指の腹側部分に小さな穴が空いていた。正面には、まるで握手をしようとしているような、手の甲を見せている右手が付いていた。

……これは……。

「エイブラハム」

 伯爵に呼ばれ、ヴァン・ヘルシングは顔を上げた。

「どうした?」

「手を――」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの左手を取ると、その薬指に何かをはめた。

「ぴったりだ」

 伯爵はご満悦そうに呟いた。

 ヴァン・ヘルシングは左手の薬指にはめられたものを凝視した。それは二連の指輪だった。先ほどヴァン・ヘルシングが拾った指輪と同じ風合いで手のひらを見せた右手に、もう一つの指輪には小さなハートが付いていた。

「……」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵に仕返ししようと、彼の左手を無言で取ると、自分が拾った指輪を伯爵の薬指にはめてやった。

「お前もぴったりだ!」

 伯爵は少し驚いた様子で自身の左手を眺めたかと思えば、昔を懐かしむような苦い笑みを浮かべた。

「……カタリーナとこうして指輪を交わしたかった……」

 伯爵の切なげな表情にヴァン・ヘルシングは何と言葉を掛ければ良いのか頭をひねっていると、背後から女性の嘆いたような声が聞こえてきた。

「ない……ないぃ……。どこにいっちゃったのっ……? お気に入りの指輪だったのに……。うぅ……」

 ヴァン・ヘルシングと伯爵が振り返ると、明るい茶髪の髪を一つに結った女性が中腰になって雪の地面をキョロキョロと必死に見ていた。

 二人はもしや、と自身の指から指輪を外し、伯爵は指輪をヴァン・ヘルシングに渡した。ヴァン・ヘルシングの手の上で指輪が重なり、互いの指輪の手が“握手”をしたのだ。それは三連式のフェデリング【約束の指輪】だった。どうやら3つの指輪を繋げていた軸が折れて、外れてしまったようだ。

「もし、そこのご婦人」

 ヴァン・ヘルシングは明るい茶髪の女性に声を掛けた。すると女性は、一瞬肩をビクつかせるとおもむろに顔を上げた。ヴァン・ヘルシングと伯爵は女性の顔を目の当たりにし、驚愕せざるを得なかった。

「アッ、アドリア――」

 ヴァン・ヘルシングはとっさに口をつぐんだ。

 女性はなんと、ヴァン・ヘルシングの教え子であるアドリアン・バースと――眼鏡を掛けてはいるものの――瓜二つの顔立ちだったのだ。真ん中分けの前髪も、顔立ちも、はしばみ色の瞳もそっくりそのままだ。

 女性はヴァン・ヘルシングの言い掛けた言葉に首をかしげた。

「アドリアン? 確かにアドリアンはわたしの弟ですが……。どちら様ですか?」

 女性は不審そうにヴァン・ヘルシングに聞いてきた。ヴァン・ヘルシングは失礼しました、と答えると、自己紹介をした。

「私はアドリアン・バース君の通うアムステルダム市立大学の教授、エイブラハム・ヴァン・ヘルシングと申します」

 女性はヴァン・ヘルシングの名を聞いたとたんパッ! と表情を明るくさせた。すると今度は伯爵の方に向き直った。女性は伯爵の出で立ちに臆することなく、少々期待のこもった眼差しで伯爵に問い掛ける。

「あなた様は……?」

「余はヴラディスラウス・ドラクリヤという。ヴァン・ヘルシング教授の助手だ」

 伯爵の名を聞いたとたん女性はさらに表情を輝かせた。

「“あのお二人”っ!? きゃー! まさか会えるだなんて!」

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は目をパチクリさせると、互いを見て、再度女性に視線を戻した。

 女性は黄色い声をあげたかと思えば、あっ! と我に返り、佇まいを直すと丁寧にお辞儀をしてきた。

「すみません、失礼しました。わたしはアドリアンの姉、クララ・バースと申します。弟からお二人のことは聞いております!」

 クララはどうやらヴァン・ヘルシングと伯爵の“関係”を知っているようで、興奮したように鼻息荒く、話を続けた。

「それはまるで、『シャーロック・ホームズ』のホームズとワトソン!『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュとエンキドゥのようなご関係と!」

【アーサー・コナン・ドイル作『シャーロック・ホームズ』。1887年より発表、シリーズが出る】

【『ギルガメシュ叙事詩』。古代メソポタミア文明の文学作品。19世紀半ばから解析・翻訳が進み、20世紀初頭には各国語へと翻訳され、広まる。簡単に説明するとギルガメシュとエンキドゥの友情冒険物語】

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は、クララの凄みに押されそうになり、呆気に取られた。

 たとえば、として『シャーロック・ホームズ』は……ホームズとワトソンの関係だけを見れば何となく分かる。だが、何故『ギルガメシュ叙事詩』が出てくるのか? と二人は思ったわけだ。

 ヴァン・ヘルシングは、アドリアンは一体どんな風に我々のことを姉に話しているのだろうか? と不安に思い、苦笑いを浮かべつつさっと指輪をクララに差し出した。

「こちら、落とされた指輪ですよね? クララさん……?」

 クララは嬉しそうに指輪を受け取ると左手の人差し指にはめた。

「ありがとうございます。良かった、見つかって……」

 クララはホッと胸を撫で下ろした。

「近々結婚をするのかね?」

 伯爵は話題を変えようと、指輪を眺めながらクララに尋ねた。クララは静かに首を横に振った。ヴァン・ヘルシングと伯爵は少々驚いた表情を浮かべた。

 フェデリングとは、その名の通り約束の指輪だ。主に結婚をする人が着けるものなのだが……。

「これは以前イギリスに行った時に買ったものです。結婚をする気はありませんが、ですが、この指輪を一目見て気に入ってしまったので……」

 クララは照れ臭そうに微笑んだ。

 ヴァン・ヘルシングはとくに気にもせず話を聞いていたが、伯爵は驚いた様子で質問を続けた。

「その指輪は、結婚指輪のようだが……結婚をする気はない、と……?」

「おい」

 伯爵の質問の内容に、ヴァン・ヘルシングは間髪入れずに伯爵を制した。だが、クララはきょとんとした表情を浮かべたかと思えば一変して破顔した。

「はい。たとえ親に結婚相手を決められてもわたしは、わたしでいたいのです。それに――」

 クララは一瞬言うのをためらったように口をつぐんだが、深呼吸をし、意を決して続けた。

「異性同士の友情があれば、同性同士の恋愛も、また然り……。わたしはこの指輪に、性別の垣根など関係ない無償の愛情と固い絆、友情を見出したんです――」

 クララは愛おしげに指輪を眺めた。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵はクララの持論を黙って聞いていた。

「神の御前での婚姻の誓いもそうですが、相手と強く心が通じ合っていれば、それは誓いなんかよりも強い絆になる、とわたしは思っているのですよ」

 二人は不思議な気分でクララを見つめていた。未だかつて、こんな考えを持ち合わせた女性はいたのだろうか? と。とくに伯爵は、目から鱗が落ちる思いだった。

 生前伯爵は、カタリーナ・シーゲルとの結婚を強く望んでいたが、それは叶わずじまいだった。何か、カタリーナと結ばれた、という証拠が欲しかったのかもしれない。だが、クララの話に伯爵は、胸の隅のわだかまりが少し解けた気がした。

 クララは恥ずかしそうに視線を逸らすと突然、あっ! と目を見開いた。

「いけないっ、そろそろ買い物しないと! では、また!」

 クララはスカート姿とは思えないくらいに足早に去っていってしまった。

 ヴァン・ヘルシングは手を振ってクララを見送っていたが、伯爵は市場の、人々がたくさん集う場所を目を凝らして見つめていた。


 昼間、ヴァン・ヘルシングの家にて。

 ヴァン・ヘルシングの昼食を作り終えた伯爵は、少しうとうとしながら冷えたリビングの掃き掃除をしていた。ヴァン・ヘルシングは暖かいキッチンで昼食の真っ最中だ。

 伯爵がふと、窓の外を見ると、しんしんと雪が降り始めていた。

 雪雲で太陽は隠れて見えないというのに、外は白く明るかった。それが伯爵の眠気を誘発させた。

……眠ってしまおうか……?

 そう思った時、リビングの扉が開く音がした。振り返ると、ヴァン・ヘルシングが少し落ち着きがない様子で立っていた。

「食べ終わったのかね?」

 伯爵が尋ねるとヴァン・ヘルシングは静かに、ああ、と返した。

「ヴラド、今良いか?」

 伯爵は少し考え、答えた。

「……少し待っていてくれれば」

「じゃあ、部屋で待ってる」

 ヴァン・ヘルシングはそそくさとリビングを去ってしまった。

 エイブラハムは一体何を考えているのだろう、と伯爵は一笑した。

 リビングの掃き掃除を終えた伯爵はキッチンで手を洗い、ヴァン・ヘルシングの部屋へと向かった。

 ヴァン・ヘルシングの寝室の扉を開けると、まだ昼間だというのに窓のカーテンは閉められ室内は少々薄暗かった。肝心のヴァン・ヘルシングはというと、額に丸い、中央に小さな穴の空いた鏡のような物を付けてベッドの上にあぐらをかいており、その上に自身の枕を置いていた。サイドテーブルにはピッチャーと洗面器、ガーゼ布、耳掻き棒、明るく灯されたオイルランプがあった。以前伯爵がヴァン・ヘルシングに耳掃除をした時のような態勢だ。

 伯爵は目をパチクリさせると恐る恐る室内に入り、ベッドの前で立ち止まった。

「エイブラハム――」

「ほらヴラド、ここに寝なさい」

 ヴァン・ヘルシングは自身のあぐらの上の枕をポンポンと叩いた。

「前にやってもらったからな。お前のもやってやろうと思って」

 伯爵は少々ためらいがちにヴァン・ヘルシングの元に歩み寄ると、静かにベッドに腰掛け、ゆっくりと枕に頭を乗せた。ベッドから伯爵の長い脚がはみ出てしまった。

「足がはみ出る……」

 伯爵がボソリと呟いた。

「膝を折れ!」

 ヴァン・ヘルシングに言われ、伯爵は渋々右肩を下にして膝を曲げた。伯爵にはヴァン・ヘルシングのベッドは少々窮屈そうだ。

 ヴァン・ヘルシングは額の鏡を、自分の左目を覆うように下ろした。するとオイルランプの光が反射し、伯爵の耳を照らし出した。伯爵は物珍しそうに横目に見ていた。

「エイブラハム、それは何だね?」

「これか?」

 ヴァン・ヘルシングは片目を覆っている丸い鏡を指差した。

「これは額帯鏡といって、患者の耳の中を照らすものさ」

【額帯鏡(今では耳鼻咽喉科の医師ぐらいしか着けてない)は19世紀中頃にはあった。ヘッドライトのようなもの。当時はランプの明かりを光源としていた】

 ふーん、と伯爵は呟くように返すと、後ろめたそうに言った。

「俺は……死体だぞ……」

「“ただの死体”じゃないだろ?」

 ヴァン・ヘルシングはそう返すと、ピッチャーの中のお湯を洗面器に注ぎ、ガーゼ布を浸した。

「お前は俺の友人だからな。ほら、拭くぞ?」

 浸したガーゼ布を絞り、広げると、ヴァン・ヘルシングは伯爵の左耳を拭き始めた。伯爵は初めての感覚だったのか少し驚いた表情を浮かべたかと思えば、先ほどの眠気が再びやって来て、伯爵はそれに身を任せることにした。

「……親友では、だめ、かね……?」

 伯爵がうとうととした口調で尋ねてきた。ヴァン・ヘルシングは伯爵からの問いに一瞬青い瞳を見開いた。

「親友か……。こんな老いぼれ平民の教授でよろしければ……光栄だ」

 ヴァン・ヘルシングは口元を綻ばせると、ガーゼ布をサイドテーブルに置き、耳掻き棒に持ち替えて伯爵の耳の掃除を始めた。伯爵はうっとりとした面持ちでゆっくりと目を閉じた。

「……ミス・クララは……どちらがギルガメシュで、どちらがエンキドゥだと思ったのだろうね……?」

 伯爵は今にも眠ってしまいそうになりながらヴァン・ヘルシングに聞いた。ヴァン・ヘルシングは少々考える素振りを見せた。

「ギルガメシュはお前じゃないのか? 共に君主だからな」

「ならば……君がエンキドゥか……。俺のために……この世に……生を受けたのだな……」

「それはどうだろ――ん?」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の顔をのぞき込んだ。伯爵はいつの間にか目を閉じ、寝息を立てていたのだ。それは“吸血鬼の眠り”ではなく“人間の眠り”だった。そんな伯爵の端麗な寝顔に、ヴァン・ヘルシングはつい魅入ってしまった。

……やはり、お前は美男子だと思うよ……。

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