5 耳掻き

「部屋は暖かった?」

 突然のカタリーナからの質問に、ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、あっけらかんとした顔で答えた。

「えっ? あ、ああ……」

「では――」

 カタリーナはスクッと立ち上がった。

「もう寝るのかしら?」

 再びの、カタリーナからの質問にヴァン・ヘルシングは一瞬考え、答えた。

「もう少し明日の講義の準備を……。何で俺の寝る時間を気にするんだ?」

 ヴァン・ヘルシングは不審に思ったのか首をかしげると、カタリーナは口角を上げて目を細めた。

「寝る時に分かるわよ」

 ヴァン・ヘルシングは嫌な予感を覚えた。


 午後10時。

 ヴァン・ヘルシングはようやく明日の講義の内容をまとめ終え、伸びをし、大きなあくびをした。

「そろそろ寝るか……」

 キッチンの作業台の上を片付け、鞄にしまうと洗い場で歯磨きをする。その最中、改めてカタリーナの行動を振り返った。

……何で俺の寝る時間を……?

 ヴァン・ヘルシングが講義のまとめをしている最中、カタリーナはせっせと、お湯を沸かしてはどこかに運んだり、キッチンの棚の引き出しからガーゼ布、洗い場の洗面器やピッチャーを持ち出していった。

……湯たんぽの湯か? じゃあガーゼは? 洗面器は? ピッチャーは? 何に……?

 そして今は、肝心のカタリーナの姿はキッチンにはない。

 まあ別に、と歯磨きを終えたヴァン・ヘルシングはオイルランプの火を消そうとした、時だった。

「エイブラハム」

 カタリーナの声がした。

 カタリーナの方に振り向くとヴァン・ヘルシングはヒュッと息をのんだ。

 カタリーナはドレス姿ではなく、どこかの民族衣装のような、生成り色の生地に見事な刺繍が施されたワンピースをまとっていたのだ。ワンピースの裾から素脚が少し見え、ヴァン・ヘルシングはとっさに目を逸らした。

「そ、そんな格好はっ……」

「何? ネグリジェと勘違いしたのかね?」

 カタリーナはからかうように言ってきた。

「違うからな!」

 ヴァン・ヘルシングは顔を紅潮させ叫んだ。

「そんなに叫ぶと、頭が覚醒しちゃうわよ?」

 カタリーナはフフッと嬌笑を浮かべると、上目遣いでヴァン・ヘルシングを見てきた。ヴァン・ヘルシングはカタリーナの眼差しにドキリとし、無意識にゴクリと喉を鳴らしてしまった。

……アンには本当に申し訳ないが、ヴラドの女姿は本当に美しく妖艶で、優雅で官能的で、当の昔に置き去りにした私の中の“男”に呼び掛けてくる。この女を愛せ、そして守れ、と――。

 ヴァン・ヘルシングは自責の念に駆られてしまったのか、塞ぎ込んでしまった。チラッとカタリーナを見ると、カタリーナはどうしたの? と言いたげに首を傾げていた。

 カタリーナの、その一つ一つの仕草がヴァン・ヘルシングの自責の念と裏腹に、可愛らしいという邪念を起こさせた。

「……流石、弟君が“美男公”と呼ばれていただけはあるな……」

 ヴァン・ヘルシングは苦笑いをしつつ、呟いた。その呟きにカタリーナは目を剥いたかと思えば、不満げに声を低くして言った。

「愚弟の話など聞きたくもないね」

【ヴラド三世はワラキア公国をめぐって、オスマン帝国側についた実の弟(ヴラド三世とラドゥ三世は実の兄弟)、ラドゥ三世美男公と対立していた。原典でも伯爵は、弟のことを非難している】

 カタリーナは苛立たしそうにフン! とそっぽを向いた。

 ヴァン・ヘルシングはヴラドとラドゥの関係を失念してしまっていたのか、しまった! ととっさに弁解した。

「すまんっ、口が滑ってしまった! お前のおかげで今のルーマニアがあるようなものさ! ……すまん。少し疲れてるのかもしれない……」

 ヴァン・ヘルシングは疲れ切ったように丸椅子に座ると、落ち込んだようにため息をついた。そんなヴァン・ヘルシングの様子にカタリーナは看過したのか彼に振り向いた。

「ならば、今夜はぐっすりと眠れるようにしないとね――」

 え? とヴァン・ヘルシングが顔を上げた。するとカタリーナがどこから取り出したのか、鉛筆よりも細長い物を見せびらかしてきた。

「書斎の机の中から見つけた」

「ああ……それは前に日本に行った時に買ったやつさ」

 カタリーナが見せてきたのは竹製の耳掻き棒だった。

 ヴァン・ヘルシングはさりげなく耳掻き棒を取り返そうと手を伸ばしたが、カタリーナは面白がって耳掻き棒を高く掲げた。

「やってあげようか?」

 カタリーナの言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

「は……? 何言って――」

「待ってるからね。君の部屋で――」

「おい! 俺の部屋って! ……」

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナを引き留めようとしたが、カタリーナはいつの間にか姿を消してしまっていた。

「私の部屋って……」

 ヴァン・ヘルシングは深い溜め息をつくと鞄を持ち、キッチンのオイルランプを消した。

 キッチンを出ると、突き当りの窓から月光が差し込み、寒くて薄暗いホールを照らしていた。

 ホールを進み、寝室の扉を開けた。だがヴァン・ヘルシングはすぐに扉を、静かに閉めてしまったのだ。

 ヴァン・ヘルシングはガタガタと歯を鳴らしながら――決して寒いからではない――、額に冷や汗をかいていた。

……えっ? 私のベッドの上に――。

 ヴァン・ヘルシングはもう一度、今度はそっと、扉を開けた。

 すぐ目に入ったのは、サイドテーブルのオイルランプの煌々とした光に照らされた、ベッドの上に座るカタリーナだった。

 カタリーナはベッドの上に横座りし、ヴァン・ヘルシングの姿を捉えたのか手招きをしてきた。

「エイブラハム、寒いだろう? 早くこちらへいらっしゃいな」

 ヴァン・ヘルシングはか細いため息をつくと、諦めたように扉を開け放ち入室した。

 扉を静かに閉め、鞄を机の上に置き、ガウンを椅子に掛けるとベッドの脇で立ち止まり、カタリーナを見下ろした。

「何してるんだ……?」

「さあ、ブラム、ここに」

 カタリーナは自身の膝をポンポンと叩いた。ヴァン・ヘルシングは一瞬体中にゾワリとした感覚が走ったのを覚えた。

「お前の膝枕、か……?」

「嫌? だが君は以前わたしの腹を枕にしたことを忘れてはいるまい?」

 カタリーナは微笑を浮かべた。

「あの時お前は犬だったろ! それに言っておくが、耳掃除は医療行為だぞ」

【明治時代に制定された当時の医療制度(医制)にて、日本では耳掃除は医療行為に含まれていた(今現在もそうです)。日本では、です。大切なので2回書きました】

 ヴァン・ヘルシングは腕を組み、眉間にシワを寄せた。

「医学書で耳の構造は勉強した。さあブラム、寝なさい」

 カタリーナは先ほどより少々強めに言うと、自身の膝を今度は指差した。 ヴァン・ヘルシングは、カタリーナが退くのを待ったが一向に降りる気配がなかったので、やけくそになったのか、眼鏡を外しサイドテーブルに置くと、スリッパを脱ぎ、ベッドに上がり――心臓がどぎまぎした――、カタリーナの膝に頭を乗せた。

 カタリーナの膝はとても寝心地が良かった……。

 ヴァン・ヘルシングは、そう思ってしまった自分が恥ずかしくなってしまったのか、左肩を下にして、カタリーナから顔を逸らした。

 カタリーナはご満悦そうに口角を上げると、手始めにヴァン・ヘルシングの頭を撫でた。ヴァン・ヘルシングは一瞬身体を震わせたかと思えば、強張っていた身体から力が抜けていく感覚を覚えた。

「先ずは右からね」

 そう言うとカタリーナは、サイドテーブルの上のピッチャーから洗面器にお湯を注ぐとガーゼ布を取り、お湯に浸した。ガーゼ布を絞ると丁寧に折りたたみ、ヴァン・ヘルシングの耳に当てると、耳介を優しく拭いていった。

 耳がじんわりと温かくなり、ヴァン・ヘルシングはもううとうとし始めていた。

……眠ってしまい――いかん! こいつの膝で眠ったら……。

 ヴァン・ヘルシングははっ! と目をかっ開いた。が……眠気が勝りつつあった。

 耳を拭き終え、カタリーナは今度は耳掻き棒に持ち替え、ヴァン・ヘルシングの耳介を優しく摘むと、耳掻き棒の先を入れていった。

 カタリーナの手は人間のように温かった。一瞬“彼女”のことを、吸血鬼だというのを忘れてしまいそうになる。

 そんなカタリーナの細かな心遣いに、さらに心が惹かれそうになったヴァン・ヘルシングは小さく息をついた。

 以前日本に行った際、興味本位で路上の耳掻き屋に耳掃除をしてもらったことはあったが【医制が施行される前の明治時代にはそういう店があった。主に上流階級の人が利用していたとか。医制が施行され一時期影を潜めることになる】、カタリーナの耳掃除はとても優しく、心地良いものだった。

 ヴァン・ヘルシングは自身の眠気を紛らわそうとカタリーナに話し掛けた。

「……お前も既婚者で子がいたんだろう……? 女に化けて、その……こんな老いぼれの耳掃除なんかして――」

「ふん。確かに結婚は2回したが【諸説あり、3回とも】、どれも政略結婚のようなものだ。わたしは、この時代や君が羨ましい。身分関係なく、想い人と結ばれることが出来るのだから……」

【19世紀になると、貴族や王族の間に恋愛結婚が浸透し始め、身分の低い者と貴賤結婚をした例もある】

 カタリーナの話にヴァン・ヘルシングは決まりが悪くなったのと、自分の方が痴れ者だったと思い知らされ、情けなくなった。

 ヴァン・ヘルシングはやはり止めようと起き上がろうとすると、カタリーナがガシッと肩を押さえてきた。

「今起き上がると、君の耳から血が吹くことになるが……良いのかね?」

「お、脅しかっ! ……痛くするなよ……?」

「もちろんだとも」

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの耳掃除を再開させた。

 結局ヴァン・ヘルシングはされるがままにカタリーナの膝枕に収まった。

 

 右耳の掃除を終え、左耳の掃除を始めた頃。

 ヴァン・ヘルシングはいつしか寝息を立てたが、その寝顔はどこか硬かった。すると、眉間にシワしわを寄せ、唸った。どうやらうなされているようだ。

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの耳掃除を一旦止めると、彼の左の首筋の吸血痕の傷を手で覆い隠した。そしてギロリと窓に目を向けた。

 カーテンには月光が当たり、窓枠の影を落としていた。それ以外の影はない。

 少し様子を見てると、窓ガラスがカリカリと音を立てた。それと同時にヴァン・ヘルシングは息苦しそうに寝顔を歪ませた。カタリーナは真っ赤な目を爛々とさせると、窓の向こうにいる“者”に鋭く言い放った。

「この男は余のものだ。去れ」

 そう言うと、窓の外からバサリと飛び立っていく音がした。

 一つ息をついたカタリーナはヴァン・ヘルシングに視線を戻した。

 ヴァン・ヘルシングはもううなされておらず、いつもの真剣そうな表情の寝顔だった。カタリーナがそっと、彼の赤みがかった髪を撫でれば、ヴァン・ヘルシングは寝顔を綻ばせた。そんな彼の様子にカタリーナは思わず失笑した。

……余の膝で眠る君はまるで、デリラに骨抜きにされたサムソンのよう。このまま髪を一房、そう一房! 切ってしまえたら、8年前、余は君に勝てていたのかもしれない……。

【サン=サーンス作曲、オペラ『サムソンとデリラ』参照】

 と思いつつカタリーナは、もうどうでも良い、というように肩をすくめると、ヴァン・ヘルシングの耳掃除を再開させた。


 後日、アムステルダム市立大学にて。

 夕方、本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングは、伯爵が目覚める前にとある準備をしていた。

 理科室からアルコールランプや五徳、マッチ、ビーカー。そして、いつも使う管より遥かに長い管。それらをソファーの前のテーブル上に広げ、ヴァン・ヘルシングはソファーに浅く座り込んだ。

 ビーカーに水を入れ、五徳の上に置くと、アルコールランプに火を点け、ビーカーの下に設置した。管は真ん中部分をらせん状に巻いていき、両端が出るようにしてビーカーの中の水に沈めた。

 ビーカーの中の水が温まってきた頃、伯爵が棺の中から出てきた。

「“おはよう”、エイブラハム」

「ああ、“おはよう”、ヴラド」

 ヴァン・ヘルシングはそう返しつつ足元の鞄から注射針を取り出した。

 注射針とビーカーからはみ出ている管の片方の端を繋げ、ヴァン・ヘルシングは上着を脱ぐと、ワイシャツの袖を捲くり上げた。

 伯爵はヴァン・ヘルシングの向かいのソファーに腰掛け、テーブルの上に広がる器具を眺めていた。

 ヴァン・ヘルシングは自身の左の内肘に注射針を刺すと、ビーカーからはみ出ている管のもう片方の端を伯爵に差し出した。

「前に『温かい血が飲みたい』って言ってただろ? 湯煎の要領でやってみた」

「ほう、物は試しだ」

 伯爵はヴァン・ヘルシングから管の先端を受け取ると、早速口に咥え、吸い始めた。

 ヴァン・ヘルシングの血液は注射針から管を通り、お湯で満たされたビーカーの中を通り抜け、伯爵の喉へと落ちていった。

 温かな血液を飲み込んだ伯爵はパッ! と真っ赤な瞳を見開いた。

「これは温かい。“やみつき”になってしまいそうだ」

 伯爵はからかうように言ってきた。

「冗談はよしてくれ」

 ヴァン・ヘルシングは呆れたように返した。

 





※原典“第二十七章、ヴァン・ヘルシング教授の手記”より抜粋。


“She was so fair to look on, so radiantly beautiful, so exquisitely voluptuous, that the very instinct of man in me, which calls some of my sex to love and to protect one of hers.”

『彼女(金髪の女吸血鬼)は見れば見るほど本当に輝くように美しく、優雅で官能的で、私の中の男の本能――性に彼女を愛せ、そして守れ、と呼び掛けてくる』

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