4 オランダはオランダ人が創ったのさ
密会の誤解を解いて数週間。ヴァン・ヘルシングの密会の噂が大分薄れてきた頃。
まだまだアムステルダムは寒い時期が続いている。
自身の研究室にてヴァン・ヘルシングは、本日の講義を終え次回の講義のまとめを行っていた。
背後の窓の、薄暗くなった外を眺めてみると、受講を終えた学生たちが次々と帰っていく。
ヴァン・ヘルシングは小さくため息をつくと、机の脇の、今は空っぽの伯爵の棺を見下ろした。
今日は珍しく伯爵はお留守番だった。どうやら市場に用事があるのと家の片付けをしたいとのことだ。
今日は一人か……とヴァン・ヘルシングは黄昏れていく外を見つめながら再度、ため息をついた。
もし伯爵がいたら、今頃棺から出てきて夕餉をねだっている頃だろう。
ヴァン・ヘルシングは机に向き直り、手元の教科書をボウッと眺め、ふう、と息をついた。
……今日は帰ろう。
そう思った瞬間、ヴァン・ヘルシングは机の上の物を手早く片付け、鞄を持つと、帽子を被り、上着、外套を羽織り、研究室を後にした。
溶け出した雪が凍り、滑りやすい道を踏ん張りながら帰路につき、ようやく帰宅した。その頃には辺りは電球式の街灯や民家のほのかな明かり、そして月が煌々と輝き、夜空がより一層黒く見えた。
玄関の鍵を開けて扉を開けると、いつもと雰囲気が違って見えた。
ヴァン・ヘルシングの住まいが3階より上なので、すぐに急勾配の階段があるのだが、その足元にマットが敷かれ、その手前には、オランダには馴染みのないスリッパが揃えて置いてあったのだ。
ヴァン・ヘルシングはとくに気にすることなく、いつも通り革靴のまま家に入ろうとすると、どこからともなく目の前に伯爵が現れ通せんぼしてきたのだ。ヴァン・ヘルシングは怪訝そうに伯爵を見上げた。そんな伯爵の腰には黒いソムリエエプロンが巻かれてあった。
「帰ってきてそうそう何だ?」
ヴァン・ヘルシングが問うと伯爵は、無言で足元をチョンチョンと指差した。その先には例のスリッパがある。そして伯爵はスリッパを履いている。
確かにヴァン・ヘルシングも8年前、ロンドンのセワードの屋敷に滞在していた時はスリッパを履いてたりはしていたが、だがここは、オランダはアムステルダムの、ヴァン・ヘルシングの家である。自分の家で何故気を使わなければいけないのか? と思った次第だ。
ヴァン・ヘルシングも無言で首を横に振り、拒否の意で手のひらを伯爵に向けた。すると伯爵は、今度は腕を組み片方の眉を吊り上げた。
「誰が掃除すると思ってるのかね? 床の掃き掃除やモップ掛けに――」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングはうっ……っと顔を歪ませ、決まり悪そうに青い瞳を泳がせた。
ヴァン・ヘルシングは少し考える素振りを見せ、不服そうに伯爵を見上げた。
「ここ、俺の家なんだが?」
「では俺は、別の住処を――」
伯爵が言い掛けたところでヴァン・ヘルシングは一瞬うろたえ、焦ったように目を見開いた。伯爵は掛かったな? と内心愉快そうに笑った。
「ほう、俺にいてほしいのかね? ならば俺の要望も少しは聞いてほしいものだね?」
伯爵はヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込むと勝ち誇ったようにニタリと口角を上げた。ヴァン・ヘルシングは大きなため息をつき、分かった……と呟く。それを聞き届けた伯爵はご満悦そうに顔を上げた。
因みにルーマニアは、家の中は土足禁止の文化なのである。
ヴァン・ヘルシングは渋々玄関マット前で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるとようやく階段を登っていった。その後ろから伯爵も続いた。
階段を登り切り、ヴァン・ヘルシングは自分の寝室へと急いだ。
寝室に入ると、とても暖かった。
……暖かい。今夜はよく眠れそうだ。
机に鞄と帽子を置き、椅子に外套と上着を掛けると、いつもは凍えながら着替えをしていたのに、ベストやワイシャツ、スラックスをクローゼットの中に掛けるのも余裕で出来るほど室内は暖かった。
ベッドの上に綺麗に畳まれている寝間着に着替え、クローゼットからガウンを取り、羽織る。最後にスリッパを再度履き寝室を出た。
「あぁ……寒い」
そう呟きながらいい匂いが漂うキッチンへと急いだ。
寒いホールを抜け、キッチンの扉を開けると暖気とともに料理のいい匂いが溢れてきた。丁度伯爵が作業台で、鍋から皿に料理を盛り付けているところだった。
「さあエイブラハム、座ると良い」
伯爵に促されたヴァン・ヘルシングは、作業台脇から丸椅子を持ってくると目の前に料理が来るのを待った。
伯爵が出してきたのはほかほかと湯気を立たせるサルマーレだ。サルマーレとは豚肉を、茹でたキャベツの葉で包み、トマトスープで煮たルーマニアの料理だ。その隣にルーマニアの主食であるママリガが出てきた。
伯爵はフォークをヴァン・ヘルシングに差し出した。
「召し上がれ」
「ありがとう」
ヴァン・ヘルシングはフォークを受け取ると、早速サルマーレを食した。
フォークで切り分けたサルマーレを頬張ると、すごく熱かったのかハフハフと口を動かし、続いてママリガをすくうと口へ運んだ。
「Erg lekker【蘭語:とても美味しい】.」
ヴァン・ヘルシングは顔を綻ばせた。
伯爵はオランダ語が分からなかったのか、うん? と首をかしげたので、ヴァン・ヘルシングはドイツ語で言い直した。
「Oh, sehr lecker!」
伯爵は安堵したように微笑んだ。
「それは良かった。……オランダ語も勉強せねばね……」
そう呟きながら伯爵はエプロンを外して丸椅子を持ってくると、ヴァン・ヘルシングの向かいに座った。すると何の前触れもなく伯爵が言った。
「君の家って、変わってるね」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、口をもぐもぐさせながら伯爵を見た。
伯爵は続ける。
「来てからずっと思っていたのだが、家屋の幅は狭いし、縦長で奥行きがある……」
ヴァン・ヘルシングは伯爵の、『幅は狭いし』と言うところで眉間にシワを寄せた。
「はいはいっ! お前にとっては俺の家なんて“ちっちゃな倉庫”みたいなものなんだろ? 悪かったですねっ? お前の城より歴史が浅くて、小さくて!」
ヴァン・ヘルシングは不貞腐れたように皮肉を込めて言うと、ふん! とそっぽを向いた。しかし料理はしっかりと食べていた。そんな彼に伯爵は目をパチクリさせ、面白おかしそうに微笑むと付け加えた。
「その代わりに素朴で落ち着く。それに、十字架がない。居心地が良い」
伯爵の言葉に機嫌を直したのか、ヴァン・ヘルシングは微苦笑した。
「俺は……というより、オランダはカルヴァン派がまだ主流だからな。まあ、密かにカトリックを信仰している家庭もあるがな? カルヴァン派にとっては十字架やホスチアはただの象徴のようなものさ。最近では無宗教の奴もいるくらいだからな」
【オランダは16世紀の宗教改革により、カトリックからプロテスタントのカルヴァン派が主流となった。19世紀後半になると無宗教の人が現れ始める(宗教、教会離れが進み、個々の時間を作る人が増えた)】
「世界は神が創ったというのに、よくそんなことを言えたものだ。我ながら驚きだ」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは一笑した。
「ははっ! “God schiep de Wereld, maar de Nederlanders schiepen Nederland.”世界は神が創ったが、オランダはオランダ人が創ったのさ。相手が神様であれ、それだけは譲れないな」
伯爵は感心したように目を見開いた。
「君はやはり興味深い」
「否、オランダ人なら全員そう言うぞ?」
ヴァン・ヘルシングの夕食を終え、伯爵は食器を洗い、ヴァン・ヘルシングはそのまま暖かいキッチンで大学でのまとめの続きをしていた。
食器を洗い、拭き終えた伯爵はヴァン・ヘルシングの脇に歩み寄ると、彼の顔をのぞき込んだ。
「さて、エイブラハム――」
ヴァン・ヘルシングは少し驚いた様子で顔を上げた。
「俺も、夕餉にしたいのだが……」
伯爵は真っ赤な舌でぺろりと、真っ赤な唇を舐めた。
「ああ、そうだった――」
突然ヴァン・ヘルシングは押し黙ると、後ろめたそうに顔を背けた。
「すまん……。手術鞄、持って帰るの忘れた……」
ヴァン・ヘルシングはそっと伯爵を見上げた。伯爵の表情にヴァン・ヘルシングはギョッと目を丸くした。
「あっ、お……」
伯爵は目を据わらせ、ヴァン・ヘルシングを見つめていた。ヴァン・ヘルシングは慌てて立ち上がると、伯爵に必死に頭を下げた。
「すまんって! 明日は必ずっ――」
「エイブラハム」
伯爵に名前を呼ばれ、ヴァン・ヘルシングはビクリと勢いよく頭を上げた。伯爵はいつの間にか、どこから出したのかあの分厚い、870ページ以上もある『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』を両手で、顔の横に掲げていたのだ。
「フランシス・ヴァーニー曰く、2、3回吸血されたところで、吸血鬼にはならないそうだ」
「本の内容を鵜呑みにするな!」
ヴァン・ヘルシングはキッチンの作業台に拳をドンッと置いた。伯爵は不貞腐れたのか表情をムスッとさせ、椅子に座ると作業台に伏せた。
「……久々に温かい血が飲みたい……」
ボソリと呟くと伯爵は、顔を伏せたままヴァン・ヘルシングを見上げた。その表情はおねだりしているような、そんな眼差しだった。ヴァン・ヘルシングは間が悪くなったのか、視線を伯爵から逸した。
「吸血の頻度を減らしてもらったのは助かってるが、温かい血は……」
ヴァン・ヘルシングは今まで、血液の温かさなど全く気にも止めていなかったのだ。ただ吸血出来れば良いんだろ? と、そんな風にしか思っていなかった。だが、伯爵からの『温かい血』という言葉に、ヴァン・ヘルシングはどこか申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
自分は、出来たての温かい料理を作ってもらえ、当たり前のように食べているのに……。それならばヴラドは……?
注射針の管を通っていく間に血液は冷え、伯爵の喉を通る頃には冷たくなっているに違いない。
ヴァン・ヘルシングは腕を組み、考えた。
……大学だったら出来るかも……。
方法をひらめいた時だった。ガウンの裾をチョンチョンと引っ張られ、ヴァン・ヘルシングは伯爵を見下ろした。
「どうした?」
だがそこにいたのは、女姿の伯爵――カタリーナだったのだ。この庶民の家のキッチンには不釣り合いの、黒いドレス姿だ。
ヴァン・ヘルシングはヒュッと息をのんだ。
カタリーナは作業台に頬杖を突き、何かを企んでいるのか目を細めてヴァン・ヘルシングを見上げていた。そして甘く美しい声で、まるで誘ってくるかのように言ってきた。
「君を誘惑したら、その首から吸わせてもらえるだろうかね?」
「な、何っ……!?」
ヴァン・ヘルシングは顔を真っ赤にさせて飛び上がり、一気に距離を置いた。
「何言ってるんだ! 頼むから元に戻って――」
※アムステルダムは水の都と呼ばれるほど、ダム広場を中心に運河がクモの巣状に広がっている。
アムステルダム市を含め、オランダの殆どの国土は海抜0メートル以下なのを、オランダ人は干拓していって国土を広げた。アムステルダムの“ダム”は“堰堤”の意。ロッテルダムもしかり。
ヴァン・ヘルシングの住まいであるアパートの表にも歩道一本向かいに細い運河が通っている。
あと、近代オランダの宗教については下記の論文を参考にさせていただきました。↓
『オランダ社会の近代化と人々の性行動』(PDF)
https://t.co/T1qCf5cLgR
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