3 密会の誤解の弁解

 本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングは、自身の研究室で教科書や資料に目を通し、次回の講義でどう教えようか、とノートにまとめていた。

 時刻は午後5時で、窓の外はもう薄暗かった。

 ヴァン・ヘルシングは机の引き出しからマッチ箱を取り出し、マッチを擦ると、机の上のオイルランプに火を灯した。つまみで火力を調節し、煤が出ないようにする。ゆらゆらと揺れるオイルランプの火が机上を淡く照らし出した。

 ヴァン・ヘルシングは教科書や資料のまとめを再開させた。その時、ガタンと足元から音がした。ヴァン・ヘルシングはとくに気にもせず書く手を止めなかった。きっとヴラドが起きたのだろう、と思っていた。案の定、机の脇から伯爵が顔をのぞかせてきた。もういつものことだ。

「ちょっと待っててくれ。あと、もう少し……」

 ヴァン・ヘルシングが呟くようにそう言うと、伯爵は無言でソファーの方へ向かい、静かに腰掛けた。そして、テーブルの上に置いていた『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』の読書を再開させた。

 ヴァン・ヘルシングはまとめを終えると、一通りノートを眺め、大きくうなずいた。

「よし」

 それを合図に伯爵は本をテーブルに置くと、そろそろとヴァン・ヘルシングの元へ歩み寄っていった。

 ヴァン・ヘルシングは教科書や資料、ノートを片付けると、足元から手術用の鞄を持ち上げ、中身を漁る。鞄から注射針と管を取り出すと、左腕の袖を捲くり上げ、内肘を露わにした。オイルランプの火力を上げ、さらに明るくさせると左手を握り、右手で注射針を構え、内肘の血管目掛けて刺した。血液が注射針の先の管へ流れ込んできた。

「どうぞ」

 ヴァン・ヘルシングが一言そう言うと、伯爵は管の先をつまみ上げた。

「では、遠慮なく」

 伯爵は管の先ををストローのように口に咥えると、ヴァン・ヘルシングの血液を吸い始めた。ヴァン・ヘルシングは右腕で頬杖を突くと、神妙な面持ちで伯爵を見つめていた。

 つい1ヶ月ほど前までは、血を吸われてるところを見ているだけで全身の血が引いていくような感覚に陥り、気味の悪さを覚えていたが、今はだいぶ慣れてきたのか少々の眠気を感じるくらいとなっていた。

……まあ、確かに私は、こいつの“血袋”だな。

 そんなことを思ってしまい、つい失笑してしまった。

 伯爵が、どうしたの? と言わんばかりにヴァン・ヘルシングを見つめてきた。ヴァン・ヘルシングは慌てて右手を振った。

「いや、何でもな――」

 その時、伯爵が勢いよく扉の方に視線を向けた。ヴァン・ヘルシングもつられて扉に目をやると、何と、アドリアン・バースが驚愕した表情で、扉の前で二人の様子を見ていたのだ!

 アドリアンは恐怖に慄いた様子で、手に持っていた教科書や資料をバサバサッ! と落とすと、今度は怒りに顔を紅潮させ二人の元に駆け寄っていった。そんな彼をヴァン・ヘルシングはなだめようとした。

「ア、アドリアンく――」

「先生に何をしてるんだ! 離れろっ、吸血鬼っ!」

 ヴァン・ヘルシングの制止も空しく――腕に針が刺さっているので無闇に動けない――、アドリアンははしばみ色の目で伯爵を鋭く睨みつけると、拳を構え、勢いよく振るってきた。

「アドリアン君! 止めなさい!」

 ヴァン・ヘルシングが叫ぶ中アドリアンの拳が伯爵に当たるか否かで、伯爵の姿が霧のように消えた。先ほどまで伯爵が咥えていた管がポトリと机の上に落ちていった。

 アドリアンは深く息をつくと、表情を一変させ今にも泣き出しそうな様子でヴァン・ヘルシングの手を取った。

「先生! やはりアイツは危険です! 脅されて血液を与えてたのでしょうっ?」

「“脅されて”?」

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

「そうです! 最近先生が夜な夜な黒髪美少女とここで密会してると噂がっ……。そのことで脅されて――」

「まてまてっ、密会っ!?」

 ヴァン・ヘルシングはアドリアンの言葉を遮ると目を丸くし、愕然とした。

「だから講義の時、学生たちがコソコソしてたのか……」

 ヴァン・ヘルシングは机に項垂れ、嘆いた。

「あら、わたしのせいだったのかしら?」

 突然アドリアンの背後から女性の声がし、アドリアンは飛び上がるとすぐさま振り返った。

「だっ、誰だでっ――あっ……」

 背後に立っていたのは艷やかな長い黒髪の、肌が異様に青白く、瞳と唇が真っ赤な、黒いドレスをまとった美しい少女だった。

 少女の姿を目の当たりにしたアドリアンは言葉を失い、恥ずかしそうに頬を染めた。

「あっ、え……」

「ご機嫌よう。わたしはカタリーナ・シーゲルと申しますの」

 グラスハープの音色のように甘く美しく、どこか威厳のあるカタリーナの声にアドリアンはしどろもどろしながら何度もペコペコとお辞儀をした。

「ぼ、ぼぼ、僕はアドリアン・バースと申し――もしかして……」

 アドリアンは頭を下げたままヴァン・ヘルシングに顔を向けた。ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべながら言った。

「その噂の美少女、もといヴラド――伯爵だ」

「えっ……」

 アドリアンはお辞儀をしながら頭だけを上げ、カタリーナを見上げた。カタリーナは腰に手を当て、少々不満げな表情を浮かべていた。その様子にアドリアンは固唾をのんだ。

……怒ってる……。

 カタリーナはアドリアンを眼光鋭く見下ろしてきた。

「さて、バース君。君は余の夕餉を邪魔した。どうしてくれ――」

「ヴラド、脅すな」

 ヴァン・ヘルシングが呆れた表情でカタリーナの言葉を遮った。カタリーナはふんっ、とそっぽを向いた。

 アドリアンは脚をガクガクと震わせながら、急いでヴァン・ヘルシングの背後へと逃げると、ボソリとヴァン・ヘルシングに耳打ちした。

「本当に密会ではないんですね……?」

「ははっ、密会する相手すらいないよ……」

 ヴァン・ヘルシングは自嘲するように言った。その返事を聞き、アドリアンは胸を撫で下ろした。

「良かった……。ですがっ――」

 アドリアンはヴァン・ヘルシングの背後からカタリーナを、怯みつつも睨んだ。

「せっ、先生の血を吸うだなんてっ……。そ、それなら、ぼっ、ぼぼ、僕の方が若いですからっ! 僕のっ――」

 アドリアンは声を震わせながら言うと、勢いよく上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をバッ! と捲り上げた。

「ぼっ、僕のを差し上げます! で、ですから先生のはっ――」

「ほう、教授思いの教え子だ。だが――」

 カタリーナはズイッとアドリアンに顔を近づけると、その耳元で、ヴァン・ヘルシングには聞こえないように囁いた。


――余は、エイブラハム以外の血は吸わないと決めたのだ……。


 カタリーナの声はいつもの伯爵の声だった。その声と言葉にアドリアンは唖然とカタリーナを見た。カタリーナはニタリと口角を上げ、真っ赤な唇から象牙のように白い、鋭い犬歯をのぞかせていた。そして、アドリアンから顔を離すと、彼の鼻っ面をチョンと突いた。

「残念だったわね、バース君」

 カタリーナは女の声で言うと、ヴァン・ヘルシングの隣で身を屈め、彼の腕に縋りついてきた。

「ダーリン」

「だっ、誰がダーリンだっ!」

 ヴァン・ヘルシングは顔を真っ赤にさせ怒鳴ったが、満更でもなかったのかカタリーナを追い払おうとはしなかった。そんな二人――とくにヴァン・ヘルシング――をアドリアンは別の意味で心配した。

……先生、意外と綺麗な女性に弱いからな……。

「で、そろそろ腕から針を抜きたいんだが……」

 ヴァン・ヘルシングの突拍子のない言葉にカタリーナは、まだダメ、と一言、言うのであった。

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