2 吸血痕

 キッチンで洗顔や歯磨きを終え、寒かったのでその場で朝食も済ませた――暖房費節約の為、リビングのストーブを使うのは控えている。代わりにキッチンの薪ストーブで暖を取っている――。

 はしたないと思いつつもキッチンで着替えも済ませ、ヴァン・ヘルシングは出かける準備をした。今日も大学で講義を行うのだ。

 キッチンを出ると、シルクハットにロングコートと身なりを整えた伯爵が待ち構えていた。その腕にはヴァン・ヘルシングのフェドーラ帽や上着、外套、教科書が入った鞄があった。

「リビングのストーブを点ければ良いものの……」

 伯爵はそう呟きつつヴァン・ヘルシングに上着と外套を手渡した。

「節約だ、節約」

 ヴァン・ヘルシングは上着と外套を羽織りながら返すと、上着の胸ポケットに入っている銀製の懐中時計を取り出した。時計本体の裏蓋を開けると、鎖に一緒にぶら下がっている鍵状のものを裏の鍵穴に差し、ゼンマイを巻いていった。

 ゼンマイを巻き終えると、裏蓋を閉め、時刻を確認した。時刻は午前7時半だ。

「そろそろ行こう。道が悪いからな」

 ヴァン・ヘルシングは懐中時計を胸ポケットにしまうと、伯爵から帽子と鞄を受け取り、急勾配の階段を降りていった。その後を伯爵が続く。

 玄関の扉を開けると冷気が一気に押し寄せ、ヴァン・ヘルシングはブルッと震えた。呼吸をすれば吐息が白い煙となって、未だに薄暗い空へと昇っていった。アムステルダムの日の出まで後30分ほどだ。

 玄関の鍵を閉め、人々の足で踏み固められた雪の上を慎重に、ヴァン・ヘルシングは歩き出した。

 徒歩での出勤が困難なこの時期は、否応でも通勤者たちは路面電車【アムステルダム市では19世紀後半には馬車軌道が敷かれていたが、1900年1月より市営化に伴い徐々に電化し、路面電車が走り始める】に乗ろうと皆、アムステルダム市の中心部、王宮や市場があるダム広場へと集まってくる。ヴァン・ヘルシングもダム広場方面へと向かっていた。

 十数分でアムステルダムの中心部であるダム広場へ着くと、そのままダム通りや水門橋を進み、細い運河を渡る。市立病院方面へと向かう途中に大学があった。

 その道中、ヴァン・ヘルシングの隣では伯爵が分厚い本を顔の前に広げ、歩きながら器用に立ち読みをしていた。

 ヴァン・ヘルシングはその本の表紙を凝視した。

……“吸血鬼ヴァーニー”か。よく見つけたな、そんな古いもの……。

【ジェイムズ・マルコム・ライマー、トマス・プレスケット・プレスト作、『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』】

「そういえば、ヴラド――」

 ヴァン・ヘルシングは昨夜のことが気になり、もじもじしながら伯爵に問い掛けた。

「何だね?」

 伯爵は本から目を離すと、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「何で、その……ベッドに入ってきたんだ……? 寒いから、は通用しないぞ?」

 ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、伯爵を横目に見つめていた。

 伯爵は口角を上げると、フフッと不敵な笑みを浮かべた。

「“寒いから”、は駄目かね? それは残念だ」

 ヴァン・ヘルシングは決まりが悪くなったのか、ふん! とそっぽを向いてしまった。そんな彼の様子に伯爵は面白おかしそうに続けた。

「大学に着いたらちゃんと話そう。今話すと君が騒ぎそうだからね」

「俺が騒ぐ話なのか?」

 ヴァン・ヘルシングは呆れたような表情を浮かべ、少々不満げに伯爵を見た。

「今はノーコメントで」

 伯爵はそう返すと、『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』に視線を戻してしまった。

 アムステルダム市立大学に着いた頃にようやく陽が顔を出した。時刻は午前8時過ぎだ。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は研究室に入るとポールハンガーにコートや帽子を掛けた。

 伯爵はそのままソファーに座って読書の再開。ヴァン・ヘルシングは机の上に必要なものを広げ、整えると、早速伯爵の向かいのソファーに腰掛けた。

「午前の講義まで時間はある。話の続きだ」

 伯爵は分厚い本を閉じると、目の前のテーブルに静かに置き、まっすぐヴァン・ヘルシングに視線を向けた。ただ、伯爵はヴァン・ヘルシングの目を見つめているわけではないようだ。

「何だ?」

 ヴァン・ヘルシングは不審そうに問うと、伯爵がスッと立ち上がった。ヴァン・ヘルシングの元に歩み寄っていったかと思えば、身を屈め、彼の首元をのぞき込んできた。

「うむ……まだ噛まれた痕が残ってるな」

 そう呟くと伯爵は、顔をヴァン・ヘルシングの首筋に寄せ、ワイシャツの襟を少し引っ張ると、べろりと、ヴァン・ヘルシングの首の傷痕を舐めてきたのだ!

「うひゃぁっ! よしてくれっ!!」

 ヴァン・ヘルシングはびっくり仰天し、ソファーから落っこちた。


 二人は改めてソファーに座り、向き合った。

「要するに、ホーエンツォレルン城で吸血された傷がまだ治ってないせいで俺は、吸血鬼――要するに“お前”に従順になりやすくなっていると?」

 ヴァン・ヘルシングは呆れた様子で伯爵に質問した。

「何故俺限定なのかね……?」

 伯爵は少々不満そうに言った。するとヴァン・ヘルシングは腕を組み、両眉を釣り上げた。

「そりゃ、そうだろう。アムステルダムに吸血鬼はお前ぐらいしか――」

「俺以外の吸血鬼がいる、と言ったら……?」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの言葉を遮り、不吉なことを言ってきた。ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、伯爵を見つめた。

「お前以外の、吸血鬼だと……?」

「そうだ」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを指差した。

「その傷痕がある限り、君は吸血鬼に“呼ばれやすく”なっている。気を付けることだ」

 ヴァン・ヘルシングは呆気に取られるも、8年前のミナ・ハーカーの日記の、吸血されるのを拒む気力がなくなってしまうという内容の記述を思い出し、他人事ではない、と悟った。

「だが――」

 ヴァン・ヘルシングは自身の左の手のひらを見下ろした。その手のひらには薄くだが、真横に一本の切り傷の痕が走っていた。去年11月、ホーエンツォレルン城にて狼に変身した吸血鬼の攻撃を、剣で防いだ時に切ってしまった痕だ。

「あれから1ヶ月以上も経つのに、左手の傷はほぼ治った。だが、この傷だけはどうも治りが悪い……」

 そう呟きながらヴァン・ヘルシングは伯爵に舐められた首筋に手を当てた。

「ただの傷ではないからね――」

 伯爵は追い打ちを掛けるように言うと、ヴァン・ヘルシングを上目遣いで見た。ヴァン・ヘルシングは落ち込んだ様子で肩を落としていた。そんな彼の様子に伯爵はニタリと口角を上げると再びヴァン・ヘルシングの元へと歩み寄った。

「さあ、エイブラハム。立ちなさい」

 伯爵に促され、ヴァン・ヘルシングはとぼとぼと立ち上がった。てっきり励ましてくれるのかと思いきや、伯爵はヴァン・ヘルシングを爛々とした目でまっすぐ見下ろしてきたのだ。ヴァン・ヘルシングは一瞬たじろぎ、ビクリと肩を震わせるが、何故か身体が、伯爵から逃れようとしない。ただ横からするりと逃げればいいだけの話なのに、身体は動こうとせず直立不動のまま。まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だった。

「ヴラド……?」

 ヴァン・ヘルシングは怯えた表情で伯爵を見上げることしか出来なかった。

 伯爵は少し身を屈めると、ヴァン・ヘルシングの首筋に顔を近づけていった。今からでも伯爵の肩を押し退ければいいものの、何とヴァン・ヘルシングは意思に反して自ら首をかしげ、伯爵に首筋を晒してしまったのだ。

……私は、こいつの“血袋”なんだ……。

 そんなヴァン・ヘルシングの様子をご満悦そうに見下ろしていた伯爵は、とうとう彼のリボンタイに手を掛け、するりと取ってしまった。

……ああ、こんなにも従順になってしまうとは……。8年前の君は一体どこへ行ってしまったのだろうね?

 そう思いつつ今度は自身のスカーフを外すとヴァン・ヘルシングの首に巻いていった。当のヴァン・ヘルシングは怖気にギュッと目を閉じており、吸血されるのを今か、今かと待っていた。

 ヴァン・ヘルシングの首にスカーフが巻かれ、首の傷跡が隠れた。

「エイブラハム、出来たぞ」

 伯爵の囁きに、身体に力が戻った感じがしたヴァン・ヘルシングはパチっと目を開くと、すぐさま伯爵から距離を取った。首筋が気になり手を当てると、フワリとした布の感触があった。ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、不安な表情で伯爵を真っ直ぐ見つめた。伯爵の首の切断痕が目に入り、スカーフがないのに気づく。

「それを巻いておけば吸血された痕が隠れる。しばらく着けてるといい」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの首元を指差しながら言った。

 ヴァン・ヘルシングは少々複雑な気持ちになりつつ、ボソリと呟くように返した。

「あ、ありがとう……」

「そうやって弱っている君を見ていると、どうも“虐めたく”なってしまう。“例の女吸血鬼”の性癖でも“感染って”しまっただろうか?」

 伯爵のおちょくってくるような発言にヴァン・ヘルシングは眉間にシワを寄せ、伯爵を睨んだ。

「おっ、俺は“ローラ【『吸血鬼カーミラ』に登場する主人公の女性】”ではないぞ! ……お前にも結んでやる……」

 ヴァン・ヘルシングは自身のリボンタイを伯爵から取り戻すと、背伸びをし、伯爵の首にリボンタイを結んでやった。伯爵は満更でもない様子で目を細めた。

「それで――」

 ヴァン・ヘルシングが改めて伯爵に尋ねた。

「何だね?」

「何で俺のベッドに入り込んできたんだ?」

「ああ」

 伯爵はテーブルの上の『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』を指差した。

「フランシス・ヴァーニー鄕【『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』の主人公の吸血鬼】がどうかしたのか?」

 ヴァン・ヘルシングはきょとんとした表情で伯爵を見つめた。

「フランシス・ヴァーニーは作中でベッドで寝ていたのでね。俺も寝れるかと思ったまでだが?」

 伯爵の回答にヴァン・ヘルシングはどこか釈然としない気分で大きなため息をつくのであった。

 





※1845年イギリスの雑誌(大衆文学)、ペニー・ドレッドフルで『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴【Varney the Vampire; or the Feast of Blood】』が、1847年まで連載される。230章以上、870ページ以上もある超大作。

 要するに『吸血鬼カーミラ』よりも“先輩”なのです! 尚且つ、吸血鬼に牙を生やし、乙女の首に噛み付いて吸血するのもヴァーニーが元祖と言われている。

 1847年に『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』書籍化。ヴァン・ヘルシング教授が持っているのは書籍の方の設定。エイブラハム15歳の時の物。

 因みに私は東京創元社が出版した『吸血鬼ラスヴァン 英米古典吸血鬼小説傑作集』で『吸血鬼ヴァーニー』を拝読しました。抄訳ですが、読んでて楽しかったです。

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