第一章 ルスヴンと髪留め編

1 コウモリ

 ヴァン・ヘルシングと伯爵はドイツのフィリンゲン、ホーエンツォレルン城より無事にオランダ、アムステルダムへと帰還した。

 後日、アムステルダム市立大学のヴァン・ヘルシングの研究室に、依頼主である老執事のクラウスがやってきて、ヴァン・ヘルシングはホーエンツォレルン城での件を解決したことを伝えると、伯爵に宣言した通りに依頼料の大量の金貨の入った袋をクラウスに返却した。当のクラウスはきょとんとした表情を浮かべ、首をかしげた。

 平民の教授のくせに、金は欲しくないのか? といった様子だった。

 ヴァン・ヘルシングはわざとらしく咳払いをすると、こう付け加えた。

「私には、私の研究を支援してくださる“とある公国の元君主様”がいますので」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にクラウスは目を丸くすると、興味津々に尋ねてきた。

「元君主、ですと……? どのような……?」

「それはお答え出来かねます。そのお方はのんびりと目立つことなくアムステルダムでお過ごしになりたいようなので」

 ヴァン・ヘルシングはそっと、その“とある公国の元君主様”が眠る棺を一瞥し、再度クラウスの方に向き直った。

 ヴァン・ヘルシングの返答にクラウスは残念そうに肩をすくめると、潔く依頼料を持って研究室を後にしていった。

 依頼主への報告を終えたヴァン・ヘルシングは大きなため息をついて、ソファーの背もたれに脱力したようにもたれ掛かった。


 報告を終え、数週間が経った1901年1月の後半の夜のこと。

 クリスマスや新年、20世紀を迎え街中や人々は賑わいを見せていたが、その賑わいもこの寒さに掻き消されるように既に日常を取り戻していた。

 アムステルダムには深く雪が積り、昼夜問わず寒い日が続いている。だが、今夜は一段と寒かった。

 寒さで寝付けないでいたヴァン・ヘルシングは、ベッドの中で忙しなく寝返りを打っていた。

……寒い。

 すると寝室の扉がガチャリ、と静かに開いたのだ。

 驚きに扉の方を見ようとしたが、布団から顔を出すのが億劫だった。寒すぎてそれどころではない。

 きっとヴラドだろう、とヴァン・ヘルシングは狸寝入りを続けた。だが、何か近づいてくる気配はあるのに一向に足音はしない。それどころかパサリ、と足元の布団が捲られたのだ!

 冷気が掛け布団内に入ってきてヴァン・ヘルシングはとっさに身体を震わせた。

……寒いのにっ、よくも捲ったな!?

 ヴァン・ヘルシングは文句の一つでも言ってやろうと、身体を勢いよく起こした刹那、足先に何か硬い物が触れ、掛け布団が元の位置に戻った。

 この硬い物は何だろう、とヴァン・ヘルシングは恐る恐るつま先でそれを突いてみると、それは固かったが表面はタオル地に包まれており、とても温かった。

「湯たんぽ……か? ……ヴラドか?」

 因みにヴァン・ヘルシングの家に湯たんぽなどはなかった。

 薄暗い室内を見渡したが伯爵の姿はなく、その時、寝室の扉がパタリと独りでに静かに閉められた。

 霧にでも変身して行ってしまったのだろう、とヴァン・ヘルシングは仕方なくまた横になると、鼻っ面にもふもふした感触が当たった。

「うわ!」

 驚きのあまり、そのもふもふしたものをガシッと捕まえると、ギャッ! と小動物のような悲鳴が聞こえた。

「何だ! 何だっ!?」

 ヴァン・ヘルシングはもふもふしたものをガッチリと布団に押さえ付けながら、サイドテーブルの引き出しから懐中電灯を手繰り寄せるともふもふの正体を照らし出した。

 照らし出されたのは、首元をヴァン・ヘルシングに押さえ込まれている真っ赤な目に、全身真っ黒な毛並みの大きなコウモリだったのだ!

 コウモリは困惑したような表情で視線だけでもヴァン・ヘルシングに向けては、細長い鼻先をヒクヒクさせ、小さな耳をヒョコヒョコと動かしていた。

 ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、コウモリを呆れた様子でのぞき込んだ。

「お前か、驚かすな。全く……」

 ヴァン・ヘルシングはため息をつくと、コウモリを布団から出そうとその首根っこを掴み引っ張り上げた。するとコウモリはキー! キーッ! と激しく鳴き、翼の爪――人間でいう親指――を枕カバーに引っ掛け、出たくない! と訴えてきた。

 コウモリの鳴き叫びようにヴァン・ヘルシングはびっくりし、とっさに離すと、コウモリは枕元に引っ付いて大人しくなった。

 ヴァン・ヘルシングは不満に口をへの字に曲げるとコウモリに向かって言った。

「ここは俺のベッドだっ――」

「先ほどから騒いでるようだが、どうしたのかね? 眠れないのかね?」

 すると伯爵の声が寝室の扉の向こうから聞こえたのだ。

 えっ? とヴァン・ヘルシングは扉の方を向いた。

「ヴラド、そこにいるのか……?」

 恐る恐る尋ねると、再び伯爵の声が扉の向こうから聞こえた。

「こんな夜に騒がしかったので来てみたのだが……杞憂のようだ。ゆっくり休むと良い」

「あ、ああ……」

 伯爵の足音は聞こえなかったが、声が遠ざかっていくように感じた。

……何だ。ヴラドはそっちにいたのか。じゃあ――。

 ヴァン・ヘルシングはコウモリの方に向き直った。

……このコウモリは……“誰”だ?

 コウモリはヴァン・ヘルシングをクリクリとした真っ赤な目で見つめており、耳をヒョコヒョコと動かしては首をかしげ、まるで、一緒に寝ても良いでしょ? と言ってるかのようだった。

 今のところ伯爵以外の吸血鬼を家に招いた覚えはないので、吸血鬼ではないのは確かだ。と言うことは、とヴァン・ヘルシングは安堵のため息をつき、改めてコウモリを眺めた。

……コウモリをこうやって間近で見るのは初めてだ。案外可愛い顔だな。

 自然と口元が綻んでしまう始末である。

 ヴァン・ヘルシングはベッドに横になると、コウモリの方に顔を向けてそっと手を伸ばした。

「さっきは掴んで悪かった。すまなかった」

 コウモリの頭や背中を優しく撫でてやれば、コウモリは気持ちよさそうに目を細めた。

「どっから入ってきたんだ? お前」

 小さな耳と畳まれた翼は皮膜のみだが、頭や胴体には細かな毛が生え、もふもふの感触だった。寒い日には手触りは抜群。温かく感じられた。

……これが動物介在療法【アニマルセラピー】みたいなものか……?

 コウモリを撫でているうちに足元からも身体が暖まっていき、ヴァン・ヘルシングに眠気がやってきた。

 ヴァン・ヘルシングはあくびをすると、出していた懐中電灯の明かりを消してサイドテーブルの上に置いた。

 本当はこのまま眠りたかったが、このまま眠ってしまうと、自分が眠っている間にコウモリを踏み潰してしまうのでは、と心配になり、ヴァン・ヘルシングは申し訳ないと思いつつもコウモリを布団から出そうとした。

「潰してしまったら大変だ。すまんが……」

 ヴァン・ヘルシングは、今度は丁寧にコウモリを持ち上げようとすると、コウモリは薄暗い中真っ赤な目を光らせ、首を横に振った。まるで布団から出されるのを拒絶しているかのようだ。

「参ったな……」

 困ったような口調で呟いたものの、ヴァン・ヘルシングは満更でもない様子でコウモリを撫でた。

「お前、可愛いな……。そこら辺を飛んでるちっこいコウモリは豚鼻みたいなやつばかりだが、お前は“狐”みたいな顔だな」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にコウモリはまんまるの目をパチクリさせると、そっと腕を動かし、ヴァン・ヘルシングの肩に登ってきた。そのまま首元までやってくると彼の首筋に縋りついてきた。

 ヴァン・ヘルシングは仰向けになると布団を掛け直し、コウモリの背を撫でた。

「寝返りしないように、気をつけないとな……」

 次第にヴァン・ヘルシングはまぶたを閉じたり開いたりを繰り返し、少しして、まぶたを閉じると規則正しい寝息を立て始めた。


 深夜。月の光が窓に差し込み、カーテンに窓枠の影を落としていた。

 その時、窓ガラスがカリカリと、何かに引っ掻かれるように鳴った。それと同時にヴァン・ヘルシングがパチリと目を開けた。その表情は無表情で、どうやらトイレや喉の乾きで起きたわけではなさそうだ。

 ヴァン・ヘルシングは、コウモリが自身の首元にいるのにも関わらずゆっくりと上体を起こした。コウモリはヴァン・ヘルシングの首元に引っ付きながら窓に顔を向けた。

 カーテンには窓枠の影しか映ってなかったが、コウモリにははっきりと別のコウモリが見えていた。窓に向かって、牙を剥き出して威嚇してみれば、外で窓枠にぶら下がっていたコウモリはバサリと音を立てて飛び去っていった。

 外のコウモリが去っていくとヴァン・ヘルシングは何事もなかったようにベッドに横たわり、再度眠りについたのであった。


 翌日、朝。

 ジリリリッ! とゼンマイ式のへそ型目覚まし時計【1899年、日本の精工舎がゼンマイ式のへそ型目覚まし時計を販売してる】が午前6時半になったことを告げた。

 ヴァン・ヘルシングは寝ぼけ眼で手をサイドテーブルへと伸ばし、目覚まし時計を掴むと、忙しなく鳴り続けるベルを止めた。

 目を擦り、ゆっくりと起き上がった。すると、首元に何かがぶら下がってる感じがして、すぐさま見下ろした。真っ赤な目の真っ黒なコウモリと目が合った。

「お前、まだいたのか……」

 ヴァン・ヘルシングは口元を緩めるとコウモリの頭や背を撫でた。コウモリが無事なようで安心したヴァン・ヘルシングは伸びをし、大きなあくびをかいた。

 室内はまだ薄暗く、日の出はまだまだ先の数時間後だ。

 サイドテーブルに目覚まし時計を置き、代わりに眼鏡を取って掛けると、昨夜のことを思い出し、ベッドの足元に手を突っ込んだ。

 タオル地の巾着に包まれた固いものを引っ張り出すと、それは楕円形で、揺するたびにチャプチャプと水音が聞こえた。まさしく湯たんぽだった。巾着を開けると、銅製の湯たんぽが現れ、ヴァン・ヘルシングは目を丸くした。

……これ、お高いやつじゃないか……。

 ヴァン・ヘルシングは小さなため息をつき、ベッドから立ち上がろうとした、その時だった。

『湯たんぽは気に入らなかったかね?』

「えっ……?」

 突然伯爵の声がし、ヴァン・ヘルシングは室内をキョロキョロと見渡した。しかし、伯爵の姿はどこにもない。寝室にいるのはヴァン・ヘルシングとコウモリのみだ。

 ヴァン・ヘルシングは嫌な予感がし、恐る恐る、未だに自身の首元に引っ付いているコウモリを見下ろした。

 コウモリは首をかしげ、ヒョコヒョコと耳を動かしてヴァン・ヘルシングを見上げていた。

 まさか、と思いつつヴァン・ヘルシングはコウモリに尋ねてみた。

「ヴラド、か……?」

『バレてしまったか』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの首元から飛び立つと、空中で姿を黒く歪ませた。現れたのは伯爵だった。

 伯爵が現れたことにヴァン・ヘルシングはアワアワと驚愕の表情を浮かべ、伯爵を指差した。

「お、お前がコウモリってことは、俺はお前とベッドを共にしてたってことかっ!?」

 震え声で尋ねると、伯爵はニタリと口角を上げて答えた。

「そういうことになるね――」

「きゃぁぁああっ!」

 ヴァン・ヘルシングはとてもショックだったのか、朝っぱらから甲高い悲鳴を上げた。

 では、昨夜のあの声は? とヴァン・ヘルシングは考えたが、伯爵には造作もないことなのだろうと詮索するのは諦めた。

 伯爵はヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込むと、彼の耳元で囁いた。

「温かったぞ、エイブラハム」

 伯爵の言葉がどうもいやらしく感じてしまったヴァン・ヘルシングはゾクリとしたものを覚え、眼鏡越しに両手で顔を覆った。

「うう……。何か大切なものを失った気がする……」

「大げさだね。……湯たんぽは嫌だったかね?」

 伯爵は打って変わって、不安そうにヴァン・ヘルシングに尋ねてきた。ヴァン・ヘルシングはそっと顔を上げ伯爵を見上げた。

「よく眠れた。ありがたいが……これ、お高いやつだろう?」

 ヴァン・ヘルシングは銅製の湯たんぽを指差した。伯爵は、当たり前、と言わんばかりに得意げに答えた。

「廉価な物は使わせない主義でね。これでも俺は君のパトロンだからね」

 ヴァン・ヘルシングは、そうか……と苦笑いしつつベッドから立ち上がった。

「朝から驚かさないでくれ。……おはよう、ヴラド」

「ふふっ、君の慌てようは見ていて楽しい。おはよう、エイブラハム」






※アニマルセラピー

 18世紀末、イギリスの精神患者を収容する施設ではウサギを飼い、患者への自制心を促す取り組みをしていた。

 19世紀後半から20世紀初頭の精神科医ジークムント・フロイトは診察の際に患者の傍に飼っていた犬を座らせて、患者の緊張を和らげていた。


 因みに原典でヴァン・ヘルシングは、伯爵のことを“古狐【Old fox】”と呼んでいた。


 深夜、伯爵がやったのは腹話術です。

 ガストン・ルルー作『オペラ座の怪人』を読んだことがある方はご存知だと思われます。

 ふふっ! ミュージカルとは大違いだぜ!

 因みに1909年9月から1910年1月にかけて、フランスで連載された。無論フランス語。英語版は1911年に出版された。多分教授と伯爵は知らないだろうな……。








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