夕立ちを抜けて
深呼吸する夢を見た。現実は夢とは程遠い。降りかかる砂粒の重みで目を覚まし、寝苦しさと乾いた喉に挟まれて最悪の気分になる。じめじめと頬に張り付く汗は、はずせないマスクのせいで拭うこともできない。ただ耐えることを自分の身に命じながら、ぼうっと行く先を見つめる。
向かいに座っていた相棒と目が合った。相棒もどうようのわずらわしさを感じていたようで、マスクの上から頬をこすった。自分にはどうしようもないのを知ってしまってこそ、より頬の気持ち悪さは増してしまう。僕は彼のようにはなるまいと思い、また彼をうらやましくも思う。
「やぁ、そろそろいこうか」
向かいに座る彼がかすれた声で言った。彼ももう限界のようだった。ほんの少し休息したくらいでは、もはや取り返しのつかないところまで来ている。十数人いた隊のメンバーも、もう僕と彼の二人しか残っていない。僕らの力が尽きるのも、もう時間の問題だろう。力の入らない足に力を入れて立ち上がる。休んでいる合間にも絶え間なく降り注ぐ砂粒が防護服の上をさらさらと流れて、やや砂ぼこりとなって消えた。まだ張り付いて離れない砂粒たちは、僕らの最後を見届けてくれるのだろう。彼が立ち上がるのを待って、僕らはまた行く先に目を向ける。果ての景色は変わらないままだ。たとえ発見があったとしても、もう引き返して故郷に知らせる手立てはない。僕ら二人になった時点で、もはやその望みは耐えていた。発見があればという「もし」ですら、風化して風景の一部と化すようなこのような砂況にあっては、考えるだけ空しいものだ。誰のための、どのような願いのための行動なのか、目的もわからない。ただ大衆の期待を背負って、僕らは前を歩いている。後に続く同胞たちに無為を知らせる手立てもなく、また無駄死にさせていくのだ。
僕らもまた続く一人に他ならない。今回ではない亡骸を、いくつ見かけたことだろう。それはこの世界が滅んだ日の忘れ形見なのかもしれない。僕らのあきらめの悪さの報いなのかもしれない。ただ、平然と息を吸うのが日常だった、あの頃に戻りたい。自分たちの子らに光を見せたい。きっとそのような願いの集積であるに違いない。
防護服のメーターは、僕の命の残り時間を示している。どんな余命宣告よりも正確で、この防護服が僕を守ってくれなくなる制限時間だ。相棒の制限時間は僕よりも七分だけ短く、これは僕らがこの服を着た順番に関係している。誰よりも意志が弱く、消極的だった僕だけが最後に残るのだ。生き急いだ奴から死んでいくのは、平常だったろうか。
「メーターばかり見ていても仕方ないさ」
相棒は自分に言い聞かせるように言った。話のネタも、ここまでの道中でおおむね尽きていた。故郷の話をしてしまえば、ただでさえつぶれそうな心がきしむ。遠い過去を思えば、恨み節しかわいてこない。未来の話をしても、報われるものはいないのだ。相棒の彼も同様で、その場しのぎの言葉だけをぼうっと吐いて、また静かになる。彼の頭の中では、今どのような思いが渦巻いているのだろう。この調査に選ばれたことに対する自身の不運を慰めているのだろうか。棒になった足は、不思議とまだ動く。僕でない何かが体の内側から僕を突き動かしているように。それは故郷に残した家族や、大衆の皆々も同じだ。今に満足できない。過去をあきらめることができない。知っているから、望んでしまうのだ。手を伸ばしてしまうのだ。あこがれは、やめることができない。
いくらか歩いただろうか。前休んだ地点から、さして進んではいない気がする。雨が降ってきた。僕と相棒の彼は、朽ちた木陰を見つけて、その下に滑り込んだ。雨が防護服に打ち付けて、張り付いた砂粒を流してしまった。どうやら彼らとはここでお別れのようだ。随分と強い雨だった。腐りきった頼りない木は、木片になり下がった。相棒は自分のメーターを眺めて、死期を悟ったようだった。
「どうやら、ここが我々の死に場所になるらしいな」
相棒は力のこもっていない目で、僕を見つめていた。
「君とは、短いようで長い付き合いになった。士気あふれる者どもの中で、君だけは長い自殺をしているようだった。最後だ。少し話を聞いてくれないだろうか」
「ほかにすることもないんだ。かまわないですよ」
彼はふっと口元に笑みを浮かべた。思えば、彼が笑うのを見たのは初めてだ。齢は五十を過ぎるだろう、隊の中では比較的老齢のメンバーだった。僕はまだ三十前半なので、二十は年が離れている。地上に出る前日、最後の晩餐会で、少しだけ彼とは話したことがある。時間を溶かすことを目的にするような、他愛もない話だった。どうして、ここでそれを思い出したのだろう。僕の体にも、もはや力は入らない。ここで立ち上がる元気は、たとえこの雨が晴れようとも、得られそうになかった。
「この、旅路の目的についてだ」
「目的?」
「ずっとできないでいた話がある。私がずっと、考えていたことだ。それは、きっとこの隊の士気を下げてしまうし、何より大衆の意思に反する。誰しもこの事実を好まないだろう。ただ私は君一人をここに残すことになる。この時分になってこそ、話せることもあるのだ」
相棒は目を閉じた。もう二度と開かぬことを覚悟したようだった。
「我々が光に恋い焦がれてしまうのは、きっと先人たちが積み上げてきた歴史が故だろう。種が光とともに生きてきたから、心のうちに求めてしまうのだ。この隊も、はて、いくつになるだろう。二十は超えたころだろうか。何の成果も得られぬ旅路を繰り返し、才ある若者の命を食いつぶしてまで、無意味に続いている。意味を返さぬことに、大衆は落胆すれど、怒りはしない。皆心の内にはあきらめがあるのだろう。それでも、異常な執着心が、光を求めている。しかし、それが我々の意思であるかは、私は疑問に思うのだ。我々が地下に逃げたとき、巻き添えにしたものが多くあっただろう。彼らの意思こそ、この薄汚れた地上にて光を探し求めてしまう所以ではないだろうか。我々が払うべき犠牲は、我々が巻き添えにした者どもに報いるための犠牲なのだ。我々の都合で捻じ曲げた彼らの運命の代償なのだ。私は、この旅路の中で多くの気づきを得た。か弱い我々と、彼らとは異なる。彼らは帰りたがっている。私たちは、彼らをここに運び届けるための、箱舟にすぎないのだ」
話し終えて、しばし満足げに小さな呼吸を繰り返した彼は、おもむろに頭に付けたマスクを取り外した。そして、灰色の空気を、目いっぱい肺に取り込んだ。人生最後の深呼吸を、彼はこの場所に決めたらしい。彼の顔は、みるみるうちに焼けただれていって、見る影もなくなった。彼の防護服のメーターがゼロを告げていた。同胞の最期を見送ったが、さしたる感傷はなかった。僕のメーターも七分を切った。僕ももう、覚悟をきめなくてはならない。
ふと、まぶしい光に包まれた。雲間から差す光だった。雨が止んだらしい。懐かしいような、気恥ずかしいような、歯がゆいような、そんな光がさして、僕らを包み込んだ。僕らは気づかぬ間に、深淵の地帯を抜けていたらしい。
彼の亡骸にも光がかかった。途端に、彼の体が膨張し、皮膚がずるずると動いた。一端が割けると、あっという間に相棒の境界線は決壊して、彼の中身を吐き出した。中から出てきたのは、植物の葉を体中に巻き付けたような蛇の姿だった。蛇は相棒の体を捨て、するすると地面を這って、久しぶりに浴びる太陽の光に打ち震えているようだった。
僕は慌ててマスクを外した。防護服を取り払った。メーターの時間は、まだ残っている。ただその刹那を大切にするよりも、今この時にしか、得られないものがあった。
僕もまた、相棒の最期をまねて、思いきり息を吸った。ガラス片をたくさん含んだような空気がのどを通って、血がにじみ出るのが分かった。肺に落とし込んだ空気は、お世辞にもおいしいものではなかった。ただ、それでも自分の意思で吸った久方ぶりの空気は、乾ききった僕の脳みそをクリアにした。なんて、きれいな光だろう。ここまで命を散らしてきた同胞たちに、同じ光を見られた者はいたのだろうか。分かち合える相手は、僕の中に巣食う蛇だけだ。
視界が真っ赤に染まって、脳に血が上るのが分かった。腹部がじんじんと熱い。そこだけ業火に焼かれているように。見ると、僕の腹からも、相棒の中にあったのと同じ植物の寄生蛇が這い出ていた。
体がバランスを保っていられなくなり、僕の体は人がいなくなった衣服のように頽れた。相棒の説は正しかったらしい。この時になって初めて、僕は相棒の顔をしっかりと確認できた気がした。
二匹の蛇は、光を追いかけて、僕らの知らない先の景色を見に行った。
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