エビに成る

 お母さんはぼくと違ってエビを食べるのが好きで、食卓にはよくエビが入った料理が並ぶ。エビチリだとかエビマヨだとか、他にもチャーハンやグラタンにまで。このあたりまではまだ我慢できるけど、エビの炊き込みご飯が出てきたときは驚いた。

 ぼくがエビ以外のものを優先的に食べて、エビをお皿の端に避けていると、お母さんはみるみる不機嫌になる。自分の好きなものを残される怒りというのもあるのだろうし、また、自分の子供が好き嫌いをしていることに満足がいかない様子があった。食べ物を残すとき、お母さんはぼくがお皿を割ってしまったり、障子に穴をあけてしまったときよりも断然怖い顔で起こる。「食べ物を残すとバチが当たる」というのがお母さんの口癖で、その勢いに気圧されて、ぼくはいつも無理して口に詰め込む。

 ぷちぷちと薄皮がはじけて中の肉が飛び出してくる。触感自体はウィンナーとかにも似ているけど、味は妙に生臭い。ぼくは食感も味も苦手で、口からぼくの中を通って鼻先から抜けていくエビの匂いに、気分が悪くなる。けれどお母さんが見ているから残すことはできない。こっそり捨ててしまうこともできない。ただぼくは、この時間が早く過ぎることを祈って、無心で口を動かすばかりだ。

 その日はお母さんに仕事の急用が入ったらしく、学校から帰ると机の上に書置きが残されていた。帰るのは遅くなる見込みで、夕ご飯が冷蔵庫の中に入っているとのことだった。お母さんが帰ってこないのはめったにないことで、ぼくは家中の支配者になった気分になって心躍った。何をして遊ぼうか、普段できない背伸びした遊びもできるはずだ。おもちゃ箱をひっくり返して、今日のメニューを吟味する。たとえどれだけ散らかしていても、お母さんが帰ってくるまでに片づけていれば問題ない。遊びの世界が広がったように感じていた。この雄大な高原が、すべてぼく一人のものになったのだ。

 三つほど物語が終わって、まだお母さんは帰ってきていなかった。空は真っ暗になって、ぼくは今日を終わりにする準備を始める必要があった。

 遊びに夢中で気が付いていなかったが、夕飯を食べていないことを思い出して、冷蔵庫を開けた。ぼくの背丈では見えない位置にラップにくるまれたお皿があったので、踏み台を持ってきてお皿を取り出した。パスタのようだ。そして案の定、エビが入っている。ぼくは途端にいやな気持ちになったけれど、我慢してお皿をレンジに入れた。お母さんによく言いつけれられていた通りに温めて、ぼくは一人で机に向かった。

 ラップを外すと熱気が鼻先を撫でて熱かった。湯気が頬を上気させた。皿のふちに液体がたまっていて、ぼくにはエビから出た汁であるように思えてならなかった。

 フォークで麺をくるくると巻き取って口に運んでいく。いつも通り、エビが後に残っていく。ぼくはそれを見ないふりしながら、パスタで胃を満たしていく。やがて現実逃避にも限界がきて、お皿の上にはころころと小ぶりなエビがいくつか残る。ぼくはフォークの先でそれらを転がして遊ぶ。

 お母さんが帰ってきたらすごく怒るだろうことはわかっていた。だから、エビを残すようなことはできなかった。一つ、フォークで突き刺してみる。エビの皮がフォークの切っ先に耐えられなくなってはじけて、中に深く突き刺さった。なお、食べる勇気はでなかった。目をつぶって今日見たアニメのことを思い出しながら、口に放り込む。

 口の中に広がる苦み。今までおいしかったのに、途端にすべてが台無しになったような気持ちになる。口を動かすのも躊躇われて、少しの間舌の上にエビが居座り続けた。舌すべてが使い物にならなくなったみたいで、言い知れぬ不安に襲われた。

 できるだけ噛まずに済むよう少ない回数で喉を通る大きさにしてから、ぼくは急いで飲み込んだ。水を追うように流し込んで、エビの痕跡をなかったことにしようとした。ようやく一つ。これで一つだ。一つ目のエビの後味がまだ残っている。胃の中に流れ込んだエビを思うと気分が悪くなる。

 お皿を見ると、まだまだエビが残っていた。途端にぼくの中から一瞬の勇気や自暴自棄さえもなくなってしまった。ぼくはエビを食べることができる自分を想像できなくなった。フォークを置いた。エビはまだ残っている。それでも、ぼくは席を立つしかなかった。

 悪い考えが頭をよぎって、一度は見送るけれど、すぐに魅力的な提案であるように思った。ばれたらお母さんに怒られるだろう。でもばれなければどうだろう。安心して、すべて食べたとぼくはウソをつけるだろうか。幼いぼくにはまだまだお母さんの怒りの鉾に貫かれることよりも恐ろしいことはなかった。

 ぼくは残したエビをごみ箱に捨てた。ティッシュでくるんで、鼻をかんだのと同じように丸めて、ごみの下の方に押し込んだ。心にどんよりと重しがのしかかったようで、すぐに後悔した。それでももう、ごみの一部と化したエビを、拾い上げる勇気はなかった。

 お皿を机に戻す。お母さんには、きっと頑張って食べたように見えるだろう。

 その時、ぼくを白い煙が包んだ。どこから湧いたのかもわからないそれは、煙たさはなく、幻にも似た煙だった。何かが燃えるでもなく、異質な化学反応が起きた様子もなかった。幻想的な煙はぼくを包んで、煙が晴れたとき、ぼくはお皿の上に転がっていた。ぼくはエビになっていた。

 はじめは状況が飲み込めず、ぼうっとしていたが、悪いことをした自覚があったために、きっと何かバチが当たったのだと理解した。お母さんの言うとおりだ。すぐにぼくは、このままではいけないと感じた。こうしてお皿の上に転がっていては、お母さんに見つかった時、食べられてしまうに違いない。お母さんには、ぼくがぼくだとわかるだろうか。誰もエビの姿をした人間がいるだなんて、思いもしないはずだ。

 懸命に体を動かして、少しでもお皿から遠くに逃げようとした。ただ調理済みのぼくの体には全くと言っていいほど力が入らず、ぴちゃぴちゃと体の下で味付けのソースが音を立てているような気がするだけだ。どれだけ時間がたったかもわからない。ぼくが再発見するのは、まったく同じ位置にいるぼく自身だ。体が冷えていくのを感じながら、ぼくはお母さんが帰ってくるのを待っていた。なんでもいい。この状況が変わるのを待っていた。

 しばらくして、鍵の開く音。次いで玄関の扉が開く音が聞こえた。お母さんが帰ってきたらしい。ぼくはいつの間にかうとうとして、意識が遠のいていた。ゆっくりと迫る足音と、お母さんのコートの衣擦れの音で、次第に頭がクリアになっていく。ぼくはぼくの置かれている状況を思い出して、それが夏の暑さが見せる悪夢ではないことを実感した。

 お母さんは、しばらくぼくを探しているようだった。お皿の上にころがっている「ぼく」を見て、深いため息をこぼした。ぼくはぼくの行いが咎められているように感じ、体が委縮した。

「あの子ったら、また残して……」

 皿がぐんと持ち上げられる。そのままお母さんの胃袋に収まるかと予想していたが、予想に反して、ぼくはそのままごみ箱に放り棄てられた。気温の中で放置されたものを食べるのは危険だという判断だと、しばらくしてから気づいた。お母さんはずっとぼくを探していた。ぼくはここにいるというのに。誰も気づいてくれるものはなかった。

 ぼくと一緒にごみ箱に放り棄てられた、ぼくが捨てたエビたちが、ぼくにまとわりついて呪いの言葉をささやいているように思われた。ぼくは十分に罰を受けたはずだ、そんな心持でいる限りは、彼らから許されることはないのだろう。

 お母さんの姿はいつしか見えなくなっていた。どこかのごみ箱に移って、路傍に転がって、海に流されて、ぼくは長い旅をした。

 それから、二百数十年が経った。

 まだぼくは、エビのままでいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る